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耳をすませば、天使の匂い

もうすぐ『耳をすませば』関連の実写映画が公開されるが、ジブリ版の『耳をすませば』はとても人気のある作品である。

1995年に公開されたが、思春期の恋愛と将来への夢を描いている。まぁ、正直恋愛要素は添え物であり、これが永久不滅な作品であることは、人生の幕開けを描いているからである。天沢聖司は、所詮はその媒介に過ぎない。

月島雫は平凡な中学生で、観客が感情移入しやすい、所謂少女マンガの主人公のフォーマットを踏襲している。彼女に思いを寄せる男子もいるし、ルックスも実はいい。そして、勉強はそんなでもないが、文学系の才能がある。
このような少女、或いは、少年というのはごまんといる。何故ならば、思春期は、誰もが主観では物語の主人公であり、自分の人生の祝福を信じているからだ。(無論、そうではない人も多数いることは添えておく)。

天沢聖司はよくストーカーだとか揶揄されているが、恋に盲目状態の少年などあのようなものである。大抵は失敗するが、今回は奇蹟的に成功したために、美談として語られている。

然し、天沢聖司という存在は、結局は人間ではないのだ。いや、人間なのだが、彼の心情というものは作中に置いて物語を推進するためだけに利用されている。いや、もっと言えば、雫の人生の歯車を廻天させるために存在している。彼には、少年として内面など、ないも同然である(大多数の男子の思いは、杉村に託されている)。

彼は、雫の鏡面として存在している。あの、ヴァイオリン作りにひたむきな情熱を向ける15歳。完全に、異空の人なのだが、彼は要所要所で、雫に発破をかけて、かつ、人生の可能性とその美しさを、自身の行動を持って体現してみせる。

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物語は、甘酸っぱい初恋も見せ場ではあるが、彼女が自分の可能性を懸けて小説を書くところ、そこで悩み苦しみ、あの翁(一番作中で現実離れしている、あの仙人である)に自分の気持を吐露するところこそが、本当に人の心を打つシーンである。

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無論、雫は聖司に並びたいがために、奮闘してたところもあり、動機は不純ではあるが、然し、それが次第に彼女の人生を変化させていく。人生の讃歌というのは、恋愛もその一つだが、自分が何者であるかを知るために闘う、その姿にこそ捧げられる。彼女は、はたから見ると他愛もないことを全力でしてみせるが、その変化は、他愛もない少女の言葉を、結果他者へときちんと届けることに繋がり、逆もまた然りである。

少女時代の終わりを告げるために、天沢聖司はやってきたのである。聖を司る人であり、天使であり、神だとも言える。その神はヴァイオリンを弾いて、彼女を導くわけで、彼の『大好きだ』、という最後の言葉は、雫が人生そのものから祝福される、ということである。

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『魔女の宅急便』も似たようなところがある。あの作品も、上京してきた少女の日々の物語を、魔法というスパイスをまぶして普遍性を帯びさせているわけだが、アニメーションであろうが、小説であろうが、漫画であろうが、結局は、優れた表現、芸術は、自分という存在を無意識のうちに投影させるものである。

あの二人の恋愛が成就するかどうか、それは問題ではない。彼女の人生の輝きこそに、本質がある。


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