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Cadd9 #11 「愛される夢」


ナスノ家の縁側は日当たりも風通しもよく、とても居心地のよい場所だった。そこで昼寝をするたびに、樹はいつも、年寄りの膝の上で眠る年老いた猫のような気分になる。その猫は長生きをしすぎていて、一日中眠ってばかりいるのだ。

縁側の色褪せた板敷きの床に枕を置き、日の光を浴びながらうとうとしていると、樹はじつにさまざまな夢を見た。どれも永遠のように長く、そして光に溢れたまぶしい夢だった。しかしそれらは目が覚めた瞬間に指でかき消されたように薄らいでいき、あとには何ひとつ残さなかった。

愛する人がいない。夢から目が覚めた時、樹はいつもそう感じる。夢の中で深くつながっていたはずの「誰か」が、目を覚ますと跡形もなく消えてしまっている。たった今まで、たしかに大切なものをこの手につかんでいた。しかし目が覚めて手のひらを開くと、空っぽなのだ。何もない。何をつかんでいたのかも思い出せない。

そんな「誰か」に愛される夢を見たあとは、言いようのない虚しさが心臓の裏あたりに広がっていく。そして心の中にぱらぱらと小石が散らばるような、手の打ちようのない無力感が静かに体を包むのだ。


庭口からは多くの人々が訪れたが、そのほとんどは近所に住む老人たちだった。彼らが回覧板や畑で穫れた野菜を持ってやってくると、樹は起き上がってナスノさんを呼びに行く。ナスノさんたちが縁側に腰掛けて終わりのないしりとりのような長話をしているあいだ、樹はその横でふたたび枕に頭を置いて目を閉じ、夢うつつにその声をきいたものだった。


その日の午後、庭口を開けてやって来たのはテルジだった。テルジは飼い犬のテツを連れていた。

「で、電話。電話かして」

と、テルジは言った。

「いいよ」

寝転んだままこたえると、テルジは長靴を脱ぎ捨てて座敷へ上がった。テルジは年中長靴を履いていたが、その理由は誰にもわからなかった。紐を離されたテツはのろのろと庭を行ったり来たりしていた。

テルジは有線電話の前で正座をして息を整えると、両手で大事そうに受話器を取り、背筋をぴんと伸ばしたまま息を殺して受話器に耳を押し当てた。それからきっかり二分が経つと、テルジは満足そうな顔で受話器を置き、縁側を降りた。


「何か聞こえたか?」

「た、卵を届けるって。今日、四時に。ば、場所は、よく聞こえなかった」

「へえ。まるで探偵だな」


そう言うと、テルジは嬉しそうに身をよじって笑った。


詳しい原因は不明だが、ナスノ家の有線電話は向かいで個人養鶏をしている山本家の電話としょっちゅう混線していた。受話器を取ると、くぐもった音で山本さんが取引先と通話している声が聞こえるのだ。テルジはそれを面白がって、こうして時折やって来ては盗聴を仕掛けた探偵気取りで聞き耳をたてる。当然いつも聞こえるわけではない。何も聞こえなかった時には、テルジは怒り狂ってテツを忘れて帰っていくこともあった。



「き、昨日、鶏が逃げたの、知ってる?」

長靴を履きながら、テルジは言った。

「知ってる」

「あ、あ、あれ捕まえたの僕なんだ。じいちゃんとばあちゃんで木の根っこまで追いこんで、僕が飛びかかって捕まえたんだ。や、山本さんの家の鶏だった」


早口で興奮ぎみにテルジは話した。すごいな、と樹は言った。


テルジは背が高く痩せていて、眉の形が特徴的な男だった。年は樹より十も上だったが、振る舞いや言動が幼く、怒りっぽいところがあった。しかし初めて会った時から子供のように屈託なく接してくれるテルジに樹は親しみを感じ、ふたりはすぐに同世代の友人のように仲良くなった。テルジは樹がこの地に越してきてから初めてできた友人だった。



「大人になったら、ぼ、僕は鳩を飼うよ。鶏じゃなくて、絶対に、鳩がいい」


大人になったら、というのは、テルジの口癖だった。二十五歳のテルジはもう十分大人と言っていい年齢ではあったが、大人になったら、というその言葉のあとに、テルジはあらゆる夢や未来を思い描いていた。絵本を読めば感動して涙を流し、大人になったら作家になるのだと言ったし、ケーキを食べて興奮すれば、大人になったらケーキになるのだと言った。

ケーキじゃなくて、ケーキ屋だろう。樹はそう言ったが、テルジは自分はケーキ屋ではなくケーキになるのだと至極まじめに話していた。テルジの心は、永遠に少年のままなのだ。


「そ、それか、青い鳥がいい。鶏でも、鳩でもなくて。絵本に描いてあるような、そ、そういうの。大人になったら、あ、青い鳥、飼いたいな」


「テルジ。青い鳥もいいけど、その前にテツをしっかり見ていてやらないとだめじゃないか」


テツが道路へ出ていったことに気がついたテルジは、血相を変えて追いかけていった。

テツはテルジが子供の頃に拾った犬らしい。家を出る時には彼らはいつも一緒だが、テルジはほかのことに注意が向くとテツの存在を忘れてしまうことが多々あった。一匹でのろのろと道を歩いているテツを見かけた時には、樹はテツを拾ってテルジの家まで連れて帰る。そのたびにテルジは大声で泣きながらテツを抱きしめ、テツの鼻先に自分の濡れた頬と涙をこすりつけた。

テルジにとってテツは正真正銘の家族なのだと、樹はその光景を見て思う。テルジにとってテツは友人であり、兄弟であり、我が子であり、そして親でもあった。テツにとってのテルジもおそらく同じだろう。テツの存在を忘れることはあるにしても、テルジとテツの間には、目には見えない強い絆のようなものがあった。



テツをつれて戻ってきたテルジは、半ズボンのポケットの中からミルキーをとりだし、樹に手渡した。


「サンキュー」

「いいんだ。い、いつも助けてくれるから。樹のおかげだよ。僕がテツと、一緒にいられるのは」

そう言いながらテルジは縁側に腰掛け、もうひとつミルキーをとりだすと、包み紙をはがして口に入れた。

「テツを失うのは、た、耐えられないんだ」


口の中でミルキーを転がしながらテルジは言った。


樹も寝転んだまま包み紙をはがし、指先でつまんでミルキーを眺めたあと、鼻に近づけてにおいを嗅いだ。母親の腕の中のような、甘く優しいにおいがする。テツが近寄ってきて食べようとしたので、樹は急いでミルキーを口に入れた。


テルジはテツの頭を撫で、テツは樹の指をなめ、樹は特に何も考えていなかったが、無意識に目を閉じると、三年前に死んだ母親の後ろ姿が浮かびあがった。俯きがちな白いうなじが、今もまぶたの裏に焼きついている。

樹はそれを打ち消すようにうっすらと目を開けて太陽を見上げ、かすかなため息をついた。


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