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Cadd9 #24 「きみの未来を知ってる気がする」


ある日の放課後、直は樹と並んで別館の外階段の踊り場に座っていた。夕刻ではあるがまだ空は青々と光り輝き、小さな千切れ雲がひとつだけふたりの目線の先をゆっくりと通り過ぎていくところだった。

手すりで視界を遮られたまま空を眺めていると、直はいつも心なしか、狭くて頑丈な鳥かごに閉じ込められた、か弱い小鳥のような気分になった。直が初めてこの場所を訪れた頃から、半年近くの月日が経っている。その間にも、この哀れな鉄の階段はあちこちが錆びつき、廃れていった。足場も手すりも、少し触っただけでポロポロと崩れ落ちて、穴が空いてしまう部分さえある。

「初めてあんなに間近で外国の女の子を見たよ」

樹は両手を後ろについて空を見上げ、流れていく千切れ雲をぼんやりと見つめながらそう言った。

外国の女の子、と直は心の中でくりかえす。樹は先週、教会の日曜礼拝でひとりの少女と出会ったらしく、ここに座ってからというものの、延々と彼女の話ばかりしていた。樹の話によると、彼女はいま宣教師や家族と一緒にアメリカから日本にやってきていて、しばらくのあいだ、県内に所在する教会の手伝いをして回ることになっているらしいのだ。


「彼女は朝の教会で、オルガンを弾きながら讃美歌を歌ってた。私が羊飼いなら羊を、博士なら何かの答えを捧げるけれど、私には何もないから、私の心を捧げます。そんな歌だったよ。ほかにも人はたくさんいたけど、俺はもう彼女のことしか感じなかったね。彼女だけが本当に光って見えたんだ。それくらい素晴らしい歌声だった」

「話はしたの?」

「うん。英語だけど、なるべく自分で伝えたよ。彼女のオルガンと歌がどんなに素敵だったかって。それと、瞳がとても綺麗だねって彼女に言ったんだ」

「そしたら?」

「あなたもね、だって」

「ふうん。彼女の瞳は何色だったの?」

「ブルー」


樹は空を軽く指さしてそう言い、クロスビー・スティルス&ナッシュの「青い目のジュディー」のメロディをハミングした。そして思いついたように制服のポケットから小さな手帳とちびた鉛筆を取り出すと、太ももの上でなにかを熱心に書き込んだ。

ここのところ、樹は楽曲制作に打ち込んでいるらしい。ふと浮かんだ思いや言葉を手帳に書き込み、それをもとに詩をつくり、ギターを片手にメロディをつける。楽譜の書き方はミナミに教わっていると聞いた。ミナミは吹奏楽部でクラリネットを担当していて、今もこの別館のどこかでクラリネットを吹いているはずだった。

直はこれまでに何度か、手帳を見せてほしいと樹に言ってみたことがある。しかし樹は顔を赤らめて、「いやだ」と子供が駄々をこねる時のような言い方ではっきりと断るばかりだった。樹は最近出会った人々のことや、彼らと関わって感じたこと、考えたことなんかを話してくれたあと、よくその手帳を広げる。教会で出会った彼女のことも、いずれ詩に変わり、歌われるのだろう。

「ミナミにまた余った五線譜をわけてもらわなきゃな」

樹がそうつぶやいたとき、ちょうど二人の背後にある扉が開き、別館の建物の中からミナミが出てきた。樹と直は驚いて肩を跳ね上げた。


「ここにいると思った。相場くん。よかったらこれ、もらってくれる?」

驚くふたりを気にも留めず、ミナミは直の目の前に一枚の紙を差し出した。なんだろうと思ってよく見てみると、それはチケットだった。市民会館大ホールにて催される、吹奏楽部による秋の定期演奏会。日付は四週間後だった。


「ぜひ来てね、相場くん」

「どうして俺だけなの? 樹のチケットは?」

「そうだよ、俺にはないのかよ」

ふたりはミナミに向かって口々にそうたずねた。

「ツキモリには私たちと一緒に出演してもらうのよ。だからチケットはいらないの」

「なに?」

と、樹は身構えた。ミナミもびっくりしたような顔で樹を見た。


「出演するってなに? なんの話?」

「先生から聞いてないの?」

「だからなにが?」

「いやだ、ツキモリったら、まだ知らされてなかったのね」

ミナミはため息混じりに首を振った。

「あのね、ツキモリ。よく聞いてね。私たちが演奏会で披露する最後の二曲は、いつも歌つきの曲を演奏することになっているの。そしてトリは顧問の先生が、その前の一曲はかならず三年生が歌うことが決まっているのよ。これは我が校の吹奏楽部における、大切な伝統なの。でも今回は候補者がいなくって、先月のミーティングで、代わりにツキモリに出てもらおうという話になったの」

「俺?」

「私、てっきりツキモリはもう先生から話を聞いているものだと思ってたから、なにも言ってなかったかもしれない」

「聞いてない。なんでそんな話になってるんだ。なんで俺なんだよ」

「だって歌の才能あるもの、ツキモリは。音楽の時間にみんなの前で歌ってくれたことがあったじゃない。ビートルズのヘイ・ジュード。みんなびっくりしてたわ。すごくいい声だって」

「うまいもなにも、あのときはちょっとふざけて歌っただけじゃないか」

「私、そのときからずっと考えてたの。次の定期演奏会にはツキモリに歌ってもらうのもいいんじゃないかって」

「俺の話聞いてないだろ」

「だからミーティングの時に私から提案したのよ。月森樹くんに歌ってもらうのはどうですか?って。みんな賛成してくれたわ」

「勝手にそんなこと決められても困るよ」 

「無理なら私から断っておくけど、できないの?」

「いや、できる」


無理やり絞り出したような声で樹は即答した。できない、と言うのが、樹は嫌なのだ。象を持ち上げられるかと誰かに聞かれても、樹ならもちろん持ち上げられると即答するはずだ。そして実際に、樹なら象くらい片手で持ち上げられるような気がしないでもない。


「本番の二週間前から合奏室で歌合わせの練習があって、前日と前々日には大ホールでリハーサルがあるから。時間がわかればまた知らせるわ」

「それは忘れないでくれよ」

「わかってるわよ」

ミナミは心外そうにふんと鼻を鳴らして扉のドアノブに手をかけた。

「それで、俺はいったいなにを歌えばいいんだ?」

あやうく聞き忘れるところだったというふうに樹が聞いた。直はそれが知りたくてさっきからうずうずしていたところだったので、ようやくかと胸が高鳴った。ミナミはこちらをふり向き、きっと睨むような眼差しで言った。


「南佳孝。スローなブギにしてくれ」

それだけ言い残すと、ミナミは扉を閉めてその場を去った。

「なんでだよ。選曲したのはいったい誰なんだ」

樹は呆れ顔でつぶやいたが、直は心が躍りだすような気分だった。


「すごいよ、樹。俺、絶対に行くからね。楽しみにしてる」

樹は困ったような顔ではにかみ、サンキュー、と言った。


それからしばらく、ふたりは思い思いに空を見上げた。さっきよりも青色が薄くなり、その上に透き通ったオレンジ色が重なりはじめている。

直の胸の奥はとくとくと震えていた。樹がステージの上に立って歌うところを見てみたかった。ステージの上でライトを浴び、大きな鳥のようにのびのびと熱唱する樹の姿を想像する。絶対に似合うと思った。それは期待じゃなく、紛れもない確信だった。信頼していると言ってもいい。

樹はそこにいるべきなのだ。直は、自分が樹の未来を知っているような気さえした。根拠はない。けれどもたしかに、樹はそこにいるべきなのだ。この朽ちかけた、ちっぽけな階段の踊り場じゃなく。

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