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父の話、追憶の青

 湯船に入れた入浴剤の色がとても青かったから、思い出した一言がある。

 私は、多くの人びとがきっとそうであるように、母は『母』だと思っていたし、父は『父』だと思って生きてきた。

 『』がとれたのは、何歳の時だったろうか。

 それまでは『父』は働くのが当たり前だと思っていたし、短気だと思っていたし、独善的だと思っていた。

 『』がとれた今でも、多少はそう思っている。でも一方で、深い深い尊敬の感情を抱くようになった。

 私の父、いやYとしよう。
 Yは自分のことをあまり話さない。以降はYの話を断片的にきいたものをつなぎ合わせて私が想像した話だ。

 Yは鹿児島の離島のさらに離島の生まれだ。七人だか八人だかの兄弟の末っ子。一番上のお姉さんが母親代わりだった、らしい。

 まだ七十にもなっていないYは、小さい頃、遊ぶ時は裸足だったと言う。
 それほどまでにインフラの整っていない土地で学校まで歩いて通った。山を越えたところに学校はあった。
 高校は島になかったからフェリーで別の島に通った。
 父は兄弟が多かった。だから学費がなかった。けれど専門学校を目指した。

 高校を卒業し、任期付で自衛隊員になった。島では自衛隊員になること自体をよく思わない人もいたらしい。けれど、お金がなければ専門学校へ通えない。だから父は自衛隊に入った。

 そこで数年過ごした。先輩に将棋を教わってすぐにその先輩を負かしたりだとか、木の伐採がすごく上手だったとか、そんな話をぽつぽつしてくれた覚えがある。

 任期を終えると、Yは今度は東京の青果市場で働きながら専門学校へ通った。専門は電機系の学科だ。そして勉強して電気工事士の資格を取った。住所は中野。

 Yは見知らぬ都会で、懸命に学び、働いた。私にはとても真似できない。実際私はそんなに難しくない大学に入り、ギリギリで卒業している。
そんな私でも『父』は何も言わなかった。

 しばらく働いて、お見合いで母と知り合い結婚し私が生まれた。寡黙なYと母がどのようにして交流をしたのか、それは未だにわからない。

 私たちが小さい頃『父』はよくドライブに連れて行ってくれた。私は車の運転中に機嫌が悪くなる『父』は短気だと思っていたし、休みの度にドライブに行くのは『父』なら当たり前だと思っていた。

 しかし社会人になり、車の運転を覚えて久しい今考えると、九十年代の交通網で休日の混雑時に運転なんかするのは正気の沙汰じゃないと思うし、母は運転免許も持っていなければ地図を読むのも得意ではない。後ろでは私たち姉弟ががすぐ喧嘩をする。この状況で機嫌が悪くならないほうがレアだ。つまりYは特段に短気ではない。
 そして休日の度にどこかへ連れ出すというのも並大抵の体力ではできない。休日のおでかけは全然『あたりまえ』ではなかった。

 今思い出すと、出かける場所は川より海が多かった気がする。Yは海がやはり好きなのだろう。

 そういえばYは、私が生まれてから……いや、おそらく母と結婚してから島に帰っていなかった。馬鹿な娘(私)が中学から私立に行きたいと言ったときも『父』は反対しなかった。一方で家庭の財政状況は厳しかったのだろう。しかし幼い私は『父』が生まれ故郷に帰らないことをさほど不思議には思っていなかった。

 私と弟が成人し、社会人になってしばらくして、家族でYの生まれた島へ行ったことがあった。

 そこはとても海のきれいな場所だった。

 Yが生まれた島はその時点でもインフラが整っておらず、道は舗装されていなかった。

 Yはこんなに美しいところで生まれたのか。
 Yはこんなところから東京にでて、家庭を持ち、子供を育てたのか。

 Yは久しぶりに帰ったので、地元の人たちと毎日飲んでいた。

 しかし突然、「見せたい景色がある」といって島のある場所まで母と私と弟を案内してくれた。

 別格に、美しく鮮やかで深い青がそこにはあった。

 その日は曇りだった。台風が近づいていたからだ。Yは言った。

「晴れてたらなあ、もっとずっときれいなんだぞ……いやぁ見せたかったなあ……」

 過去への追憶と感傷が言葉の端に滲んでいた。

 もうすこし、生活に余裕ができたら、Yをまたあの海へ連れていきたい思う。

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