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要支援者に向き合う疲労

ほんじつのおもひ
大切にしたいひとを援助し続ける苦しさ


こんばんは.
重たい話になります.
鍵言葉は、「介護疲れ・支援・共倒れ」などです.
あ、あと、わたしの暗ーい吐き出しにもなっております(苦笑
長文です.
要介護者(介護されるかた)のお気持ちに配慮できていない記事です.
申し訳ありません.


◆どんな状況?

近所に、わたしの家族で、高齢が理由の要介護者・Aさんがいる.
Aさんは認知機能の衰えは年齢相応、自立度も高めだが、隙間だらけの古い家に住み、食事や入浴は促さないとおこなわない.
服薬忘れも目立つ.
体力も年齢相応のため、通院や買い物には促しと付き添いが望ましい.
一人で行けないわけではないが、気が向かないと、必要であっても行かない.
以前わたしが平日フルタイムで働いていた数ヶ月、どの科も通院をしていなかった.

(この他の事情、それぞれの性格や環境など改善できそうな部分は、うちうちの事情もあり省略)

可能な限り、Aさんを支援しようと思っている.
なんといっても家族である.

しかし、最近のわたしは、年末、気温低下、社会的不安要素、新しく始めた社会勉強、ありとあらゆることで、精神的に疲労している.
抑うつ状態、くわえて、体の具合も整わない.
そんなとき、精神疾患の症状が強まる.

わたしに被害妄想の症状が出始めた.
「Aさんに見つかると、ころされる」

前にも出たことがある被害妄想だ.
「Aさんがライフル銃を持ってころそうとしている」
「Aさんの差し入れには毒が入っている」

今現在、要介護者Aさんが自傷他害の行動をしているわけではない.
それでも、Aさんに会うのがとてもこわく、声をきくのもこわくてしかたがない.
わたしは仕事中の母の携帯電話に1時間に連続10回以上の電話をかけ、ものを投げ、お薬に頼り、――Aさんに関わることを中断した.

気にはかかる.
寒さは大丈夫か、ご飯は食べているのか、病院受診は.
放置状態になって、取り返しのつかないことになるのではないか.
Aさんの声を無視することで、Aさんが自暴自棄になるのではないか.
虐待で通報されるのでは、という自分の面子を気にする気持ちも、正直に言うとある.

同時に、べつの恐怖もある.
もし向かい合ったら、大切な家族であるAさんを、わたしが、物理的に、ころしてしまうのではないか.


◆行政・専門機関、地域サービスに頼ること

不安が高まって、きつくて、このままではいけないと、昨日、契約している介護サービス会社に電話をかけた.
電話の向こうで、介護専門家Bさんが、わたしの話に耳をかたむけてくださった.

介護専門家Bさんは、「りんがAさんのようすを見に行かないせいで、Aさんが孤立するのが心配」という主訴を正しく聞き取ってくださった.

「りんさんだけじゃなくて、うちの介護担当者や、福祉施設職員もいるし、ちゃんとAさんをみているスタッフがいるから」と、涙涙のわたしをなぐさめてくださった.
少し安心した.

今日は、りんの家の担当の介護専門家Cさんが、わたしに電話をかけてこられた.

専門家Cさん:Aさんの、あなたに対する被害妄想はかなり強いんですか?

わたしは、担当者Cさん逆なんですと言いたかった.
Aさんの他者に対する被害妄想ではないんです.
りんの被害妄想のせいで安否確認ができず、Aさんが孤独死しそうなんです.

専門家Bさんには通じていたから、申し送りのどこかでかわってしまったのだろうと思う.

誤解を解いて、詳細を話すことはできなかった.
日中、抑うつで寝込んでいたわたしは、突然の電話にパニックと不安になって、すみませんと電話を切ってしまった.


◆おそらく世界中で起きていること

きっと、現代社会の問題のひとつですよね.

ほんじつのおもひは、常日頃から思っていることでもあり、……本当に、ほんじつだからこそ書いた/書けたことだと思います.
自分のめんどうを見るのもたいへんなのに、だれかのことを気にかけるって、たいへん.
育児だって、介護だって、ヤングケアラーのひとたちも、そのほかにも.

他人から見ると、「なんでああしないんだろ」「もうちょっとあのひとががまんすればいいのに」「もっと歩み寄ったら?」とかいう点も、当事者達にとってみれば、そうできないから苦しいし、きついんですよね.

わたしのうちで言えば、「じゃあ同居すりゃいいじゃん」とかですが、要介護者AさんにはAさんなりに「今の家にいたい」という思いがあったりしますし、Aさんの利用する設備がわたしの家にあるので、りんがAさんの家に引っ越すわけにもいきません.
そこにどう折り合いをつけていくか、です.

これが、お仕事なら割り切れるかもしれない.
あるいは、まったくの他人なら.
お仕事には退勤も休息もあり、他人なら過剰な感情や葛藤を持つことは少ない.

勉強やお仕事で「日日の積み重ねが大事なんだ」と言われますが、負の物事でも一緒だと、わたしは考えます.
殺人事件の報道、動機を見て「なんでそんなことで大切なひとをころすの?」と思うようなことでも、日日の積み重なりだと思うのです.
「そんなこと」が、一線を越える、とどめになりうる.
耐え続けたものが、それまで耐えてきたことよりずっと軽いできごとで、はちきれてしまう.
殺人や暴力という結末は論外としても、わたしは、気持ちだけは分かるなと思う時があるんです.

頭が苦しいからまとめまで記せません.
社会的にも、ほんとに、どうしていったらいいのでしょうね.
どうかどうか、安寧があるように.
読んでくださった方、ありがとうございます.

◆追記
えっと、この記事を書いたのが確か12月27日.
今日は年明け、1月5日.
この期間、徹底的に関わりを避けて、ようやく少し余裕ができました.
まだ面と向かい合うことはできませんし、Aさんがくれたゆでたまごすら「毒物の入った液体で煮込んだんだろう」と邪推しますが、介護用品を買ってきたり、Aさんが食べる食事を作ったりする余裕ができました(持っていくのは家族に依頼).
遠くから視認するなら大丈夫なような、気がします.
少なくとも、「ライフル銃を持って狙い撃ちにしようとしている」という観念が常に出る事は減りました.
なにを申し上げたいかというと、「いったん対象者と離れる事の重要性」です.
わたしはあんまし好きでない表現ですが、「時間が解決してくれる」というあれですね.
いうて、これができる困っているひとってどれくらいいらっしゃるんだろう.

わたしはたまたま、住む場所やAさんの自立度が高いことから、「距離を置く」事ができましたけど、どしてもこしても距離を置くのができないひとは、どうしたらいいんだろう?
このあたり、手厚くなったらいいなぁ.
どの場面においても.介護も育児に限らず、向き合うのが苦しいひとに.

わたしの場合は、前回被害妄想が出たときも、一人の時間と休息を経て、「Aさん元気ー?」「Aさーん背中流すよ♪」となりました.
多分今回も、時間をかけて徐徐に.
疲労を癒やす時間は必要なんです、と、がんばっているひとに伝えたいです.

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