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[後編] 人文書を読むよろこびの回復:東浩紀『訂正可能性の哲学』(2023.09.01読了)

感想文の前編↓


人工知能民主主義の摘要

『訂正可能性の哲学』の第2部では、東が人工知能民主主義と呼ぶ一群の社会思想への応答が展開される。

人工知能民主主義の論客として主に想定されているのは鈴木健、成田悠輔、落合陽一である。彼らはまとめていってしまえば、情報技術の発展と存分な活用を前提に、政治、経済活動、社会のあり方のドラスティックな変容を構想するタイプの知識人だ。それぞれの主張やビジョンは確かに似通っているが登場した時期や著者のバックグラウンドによって微妙に異なる。まずはこれら3名の主著の摘要を書いておく。

◆鈴木健『なめらかな社会とその敵』(2011) 
世界は本来複雑だが、人間の認知の限界によって、単純化されたものとして認知されてきた。インターネットやコンピュータによって、複雑な世界を複雑なまま、なめらかなものとして認知できるようになってきている。なめらかな社会の実現のためのアイデアとして、経済における伝播投資貨幣の導入や、伝播委任投票システムから成る分人民主主義の実装が挙げられる。

◆成田悠輔『22世紀の民主主義』(2022)
民主主義とは、民意を表すデータを入力し、何らかの社会的意思決定を出力するルール・装置である。民主主義的意思決定における入力と出力の質・量を拡げる「無意識データ民主主義」は、無数の政策や論点に同時並行して対処できるため、かつてない拡張可能性と自由度を獲得できる。

◆落合陽一『デジタルネイチャー』(2017)
デジタルネイチャーとは、テクノロジーの進歩によって<自然>と<デジタル>の見分けがつかなくなる世界のことである。そこでは、言語を介さなくても現象を現象のままやり取りできるようになる。デジタルネイチャーは、私達が当然のものと信じて疑わない働き方や幸福観、経済、社会、国家のあり方の限界を乗り越え、新しいあり方を生み出す考え方として構想される。


人工知能民主主義に対する批判

東はこれら3名に代表される社会思想の潮流を人工知能民主主義と名付け、全体主義を肯定する思想、および技術的な楽観主義として断罪する。東が指摘する瑕疵は次のようなものだ。

ひとつには、現代の人権感覚に照らした社会正義的な観点からの批判である。人工知能民主主義は人間が機械が決めることに隷従するほうがよいとする思想であること、また、技術を使いこなせる一部のエリート層だけが富むいっぽうで、アルゴリズムに従って分配されるその富の余剰分だけをあてに生活していく、落合の用語で言うところの「BI層」との分断を前提としている点を東は批判する。そのような社会が本当にユートピアといえるのだろか、という観点である。

もうひとつには、そもそもAIの性能がそこまで上がらないだろう、むしろどれほど性能があがっても中央集権的な装置で民意の全体を把握することはできないだろうという技術懐疑論的な観点からの批判を加えている。『訂正可能性の哲学』では注釈に付記されるにとどまっているが、20世紀にハイエクとミーゼスが行った社会主義計算論争で、既に市場が政府よりも優秀な計算装置であるという結論が出ているという事実を看過しているというのは強力な反論であると感じた。
またこれはむしろ西垣通が言っていることに近いが(わたしはなぜ西垣がいまだにゲンロンカフェに招かれないのか疑問に思っている。東大の教員だから?)、シンギュラリティの到来で政治や社会、経済活動、人間そのものがドラスティックに変わるという信念は救世主の到来を待つユダヤ=キリスト教的な信仰告白に実質的には等しいと東も言っている。

人間はそんなに簡単には変わらない、AIが解決できるような問題ならば、既に解決しているのではないか、という観点である。むしろ技術史的には18世紀科学革命とそれに続く産業革命とかのほうがインパクトが大きいし、要約すればChatGPTが使えることよりも鉄道が存在することのほうが重要だろう、という話だ。

さらに、ビッグデータは人間を群れとしての動向をキャプチャする性能にはすぐれているいっぽうで、「わたし」という個人についてとらえることは決してできないと東は指摘する。
わたしも男性、30代、東京都在住、広島県出身、東浩紀の読者、noteユーザーだとか、そういう属性の束に基づいて、融資するorしないを判断されたり、犯罪者予備軍として拘禁とかされるかもしれない。
わたし個人がどれだけよい金の借り手だろうが、どれだけ清廉潔白な善人だろうが、わたし個人の行動で与信スコアや犯罪予備軍スコアを変えることはできない。つまりここには訂正可能性が無い。

じつは東自身が『一般意志2.0』(2011)でかなり人工知能民主主義に近しい思考を展開していた。げんに成田などは同書を参照しており、人工知能民主主義論者たちが同書の影響下にあることは明らかだ。同書では端的にツイッターによって民衆の集合知が集約されるようになると、代議士や自治体の首長のような、民主主義を実現するためのメディアに社会が支払うコストを大幅に削減できる、といったビジョンが展開された。わたしもこれをはじめて読んだ時は衝撃と影響を受けたものだ。ツイッターで直接民主主義が実現するのかもしれない、と本気で考えた。Web2.0の果てに現れた多幸感あふれる時代だった、といえる。

しかし2020年代のいま、ツイッターで民主主義など飯を噴くような構想になってしまった。流通する情報があまりにも増え人間の認知限界を超えた結果、人々は自分が見たい物しか見なくなり、ツイッターをはじめとするSNSはむしろ世界の分断を加速する装置として機能している。
だからこそ東には、かつて自分が書いたこの本に対する反省がある。『訂正可能性の~』の後半は、一般意志2.0構想に対する総括と訂正として書かれてもいる。

したがって、人工知能民主主義に対する批判については、東はバッサリいっているようでいて、その手つきや理路は実はかなり慎重である。『一般意志2.0』と同様にルソーを再訪し、読み解きながら、この思想家が残した民主主義に関する思考の軌跡をたどっていく。そして、人工知能民主主義勢がいかに短絡的なルソー主義であるかを丁寧に指摘している。
この議論はかなり読みごたえがあり東がデリダ研究者であることに加えて2010年代は社会契約論の第一人者として活動したことの集大成といえる部分のため、興味がある方には是非本を手に取って読むことを薦めたい。


人文書を読む楽しさについて

最後にこの本全体にわたってあふれだす読書の楽しさのようなものについて書いておきたい。

著者の東はジャック・デリダの研究からキャリアをスタートした(注1)、大陸ヨーロッパの思想の系譜に連なる哲学者である。

ところが彼は家族の概念について説明する際にヴィトゲンシュタインやクリプキ、ポパー、ローティといった、米国・英国を中心に発展した論理実証主義〜分析哲学の系譜の哲学者を引いてくる。これらの哲学者たちは言うなれば数学っぽく哲学しようとして記号と事物の対応関係を厳密に定義しようとした。現在世界中で主流になった分業体制での哲学研究のやり方の基盤を作った人たちである。
じつは20世紀を通じて大陸ヨーロッパ系の哲学と米国系の哲学の間には深い断絶があり、一般に前者の系譜だと理解するのが自然なキャリアを持っている東が後者について紙幅を割いて紹介しているのは、ほかの哲学書ではありえない越境性なのである。

ただ、『訂正可能性の~』で披露されている、分析哲学を大陸っぽく読むという東の技は、書籍デビュー作『存在論的、郵便的』(1998)ですでに実践されていたことでもある(注2)。東がツイッターで述べていたように、『訂正可能性の~』が『存在論的~』の25年越しの続編としても読めるのはこの理由による。

哲学に限らず、人文学も社会科学も工学も自然科学もそれぞれの研究のスクール/セミネールがあるので、このような越境的な研究はアカデミアでは成立しにくい。クリプキならクリプキに閉じた研究、デリダならデリダに閉じた研究を求められるはずだ。あるいはもしふたりの哲学者の間に直接的な参照関係や影響関係が伝記的な事実として認められているなら初めて、それらを接続することは妥当とされるだろう。そもそも『存在論的~』で披露された知的アクロバットも、批評空間の連載がベースだったからこそできた技なのではないかと思ってしまう。(また、博士論文の指導教官だった高橋哲哉氏の懐が深かったのだろう。。)

もし、『訂正可能性の哲学』が主要な学術誌に投稿されたら、おそらく査読付論文としては受理されないだろう。修士論文、博士論文にもならないだろう。
しかし個人的には、これらのアクロバットや越境性こそが哲学書を読む面白さだと感じる。東自身はこう記している。

本書はクリプキとローティとアーレントを自在に組み合わせているが、彼ら自身が相互に参照しているわけではない。連結を支えているのは結局のところぼくの直観である。このような読解はいまでは歓迎されない。専門家からすれば根拠のないアクロバットにすぎないだろうし、逆に一般の読者からすれば不必要に哲学者の名前を並べた迂遠なものにみえるだろう。

『訂正可能性の哲学』P.133~134

クリプキから始まり、エマニュエル・トッドを経由した議論はアーレント、ローティに接続される。さらにルソーに着地する。またこれらの具材はじつはすべてデリダから抽出された出汁で煮込まれている。こうした類似性の発見はすべて自身の直観に基づくと東は言っているし、迂遠にみえるかもと謙遜するが、とんでもない。人文学の越境性に魅力を見出す感性を持った読者にとっては、とんでもなく知的興奮を掻き立てられる経験だ。

同じ系譜にある思想家の名前が受験勉強的な知識として理路整然と並べられた「哲学入門」的な本に読む価値はない。そうした本に書かれたことは、哲学をすることそのものとほぼ関係がない。

本来は違う文脈にあったアイデアを「これとこれって似てるよね」という形で遡及的に読み替えるという営みこそが東が提案する訂正である。人文知は訂正に満ちた語り直しの集合だったはずだ。そしてこのやりかたは現在、在野の東だからこそできる技として残されている。

繰り返しになるが、人文知とは何かの語り直しである。パウロが、ローマ帝国の政治犯であったナザレのイエスの磔刑を勝利と解釈したり、ラカンがフロイトを鏡像段階のソシュールをとおして読んだりと、すぐれた人文学者たちが残した業績の多くは直観とアクロバットに基づく語り直しといえるのではないか。

昨今、人文知の積み重ねを単一のデータベースに落とし込んでしまう動きが存在し、それが一部の集団(おもにリベラルな考えを持っている亜インテリから構成されていると思われる)から熱烈に支持されている。わたしの念頭にあるのは、もちろん株式会社COTENが作ろうとしている世界史データベースのことである。主にビジネスユースを前提としてすぐに取り出せる歴史の知識を検索可能にすることを目指しているようだ。これは手っ取り早く知識(のようなもの)を得るためには一面では便利なようでいて、じつは人文知を貧しくする営為なのではないか。なぜなら世界史データベースは東が人工知能民主主義を批判するのとまったく同じ理由に基づいて、訂正可能性を欠いた仕組みだからである。
歴史は、何か客観的事実のようなものをクラウドストレージにフォルダを区切ってそのまま保管しておき、参照したくなったときに検索してファイルを取りに行く、といった形で残されるべきではないのではないか。ほんの10数年前に政治的に正しいとされたことも誤りと見なされることが毎日のように起きる時代である。歴史は動かない事実として読んだり聞いたりして学ぶようなものではなく、常に主体によるデコードを要請する(注3)。

かつて東と共同で活動しながらも、2010年代初頭に袂を分かった批評家宇野常寛も、歴史をデータベースとして認識することの危うさについて近著で指摘している。この箇所は陰謀論を叩きながら、訂正可能性の哲学と共鳴するように読めるので、引いておく。なおわたしは宇野と東の和解と再びの共闘を望む読者である。

 歴史を物語として捉えること、つまりマルクス主義の代表するイデオロギーを用いた歴史へのアプローチは近代小説的であり、そして劇映画的だ。個人の生が歴史という物語の中で果たす役割によって評価され、人間はその評価に意味を見出す。
 対して、歴史をデータベースと見なすことは、極めてインターネット的だと言える。あらゆる出来事は、本来の文脈から切り離され、恣意的に引用される。その自由は人間の創造性を誘発する一方で、それゆえに人間は自己正当化のために歴史のある部分を切り出して恣意的に引用し、新しい物語を創作するようになる。実際に、SNSの時代は陰謀論の時代でもある。今日のSNSでは2020年にアメリカ合衆国を席巻したドナルド・トランプの狂信的な支持者の唱えた陰謀論(Qアノン)から、2021年に世界各国を席巻した新型コロナウイルスのワクチンの副反応についての陰謀論まで、それを目にしない日はない。
 人間は物語から逃れられない。トップダウンに与えられる大きな物語による自己正当化からデタッチした空白を埋め合わせるのは、ボトムアップの小さな物語を自ら生み出し自己正当化を図る行為になる。

宇野常寛『砂漠と異人たち』(2023)P.216

東は人間がつくる社会はこれまでも、常に訂正可能性に満ちたものであったとする。それは家族という仕組みが有史以来存続してきたことが証明している。同時に彼はそのような訂正可能性を、人文学に特有の、「先人の蓄積を読み替える」という営みに接続したのだ。それが『訂正可能性の哲学』自体のワクワク感に満ちた読み心地にもつながっていると思う。


注1:厳密にはソルジェニーツィン論がデビューではないか?というつっこみが聞こえる気がするが、そのレベルの東浩紀リテラシーがある方ならわたしが言いたいことの大意は伝わると思うのでここではいったん置く。

注2:『存在論的、郵便的』では、『訂正可能性の哲学』で紹介されている、訂正可能性の基盤となる「XX(固有名詞)は実はYYだった」という命題を可能にする固有名詞が持つ「単独性」の基盤について検討されている。その際東が経由したのがバートランド・ラッセル、ジョン・サール、ソール・クリプキといった米国系の言語哲学者だ。そして最終的にはデリダに着地する。『訂正可能性の~』でも紙幅を割いて紹介されているクリプキは、「固有名の単独性についての問いに対してなんらリアリティのある答えを出していない」、と東は結論した。クリプキはただ、「物や人を命名するような行為には『神秘的なもの』が宿っているのではないか」と述べただけだ。のちにスラヴォイ・ジジェクは、クリプキの論をジャック・ラカンにおける「主体」の理論に当てはめようとした。ジジェクによればによれば主体を構造化する言語体系はもともと不完全であり、その不完全さが固有名詞に「剰余=対象a」を与えてしまうのだ。ここで東が指摘するのは、クリプキやジジェクは、東が「否定神学」と呼ぶ陥穽にはまっていることだ。クリプキ=ジジェクは、「神秘的なもの」「剰余=対象a」といった空虚なキーワードを中心に据えて新たな論理体系を構築してしまっている。この否定神学の乗り越えのために東は、デリダの郵便的、精神分析的脱構築を応用する。固有名詞が「単独性」を持つ、などという主張はたんに転倒している。そうではなく、重要なのは固有名詞の訂正可能性であり、いくつかの確定記述が私たちのもとへ届いたり届かなかったりする、あるいは早く届いたり遅れて届いたりするようなコミュニケーションの問題なのだと東は記している。コミュニケーションに中心的なキーワードは存在しないし、全体性もない。この脱構築が「郵便」という比喩で語られる理由だ。手紙は届いたり届かなかったり、あるいは早く届いたり遅れて届いたりする。東はこの世界を「郵便空間」と呼んだ。
このように、訂正可能性は、『存在論的、郵便的』ですでに登場していた用語だった。

注3:歴史が読み替え可能であるべき、歴史が訂正可能性に開かれているべき、などという規範命題の語感から歴史修正主義を想起するのはたやすい。歴史修正主義と訂正可能性のちがいについては東本人が『訂正可能性の哲学』のかなり序盤で明記しているので、詳細な説明はそちらに譲るとして、ここではわたしが重要だと思うポイントと私見のみを記す。
歴史修正主義はある出来事を「なかった」ことにするリセットの思想である。いっぽうで訂正可能性は出来事をなかったことにしない。むしろ逆で、読み替えを通じて別の意味を与えながら、記憶していく技術であるように思われる。訂正が可能になるのは、歴史が教科書を読んで学ぶ主体と独立した対象として存在するのではなく、いわば主体も歴史の一部としてまなざされる対象であることによると考える。歴史修正主義者は陰謀論者などと同様に、事実と虚構の区別が完全につくと考えている人種だ。実際には歴史的事実は素朴に実在するわけではなく、常に主体による読み替え(=訂正)にさらされている。だからこそ、過去にあった出来事の実在を簡単に消してしまうことはできない。

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