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「頑張れ!」唱えて曲がったキュウリに価値を見いだす

「頑張れ!私!」と脳内で繰り返し唱えて、自分自身に発破をかけていた。それが私自身のアイデンティティでもあった。

頑張れと他人からいわれると嫌な気持ちになる人がいるというが、そのことが全く理解できないほど、頑張ることが好きだったし、頑張ることが嬉しかった。

自分自身が唱えることも力が湧くし、他人からいわれることも嬉しい。それほどに、「頑張れ!」という言葉は元気になれる素晴らしい言葉だったのだ。


もちろん、頑張ること自体は苦しいことが多かった。努力が報われないことが多くても、それに取り組む過程で何らかの成果があると信じて取り組んだ。「頑張れ!私!」と唱えながら頑張ったのだ。

そして、いつしか、その言葉が変化したことに気づく。意識して頑張れと唱えることはあっても、無意識に唱えるのは他の言葉になっていたのだ。

その変化に気づいて以降、私が重ねてきた努力は、曲がったキュウリに価値を見いだすようなことだったと考えるようになった。



曲がったキュウリが売り場に並ぶとき。たいていは、曲がっていることを理由に安い値段を付けられる。

一般的に価値の低いものだから安いのか、それとも、真っすぐなキュウリに比べて運送コストがかかるから、地元での消費を促すために安くで売り出されているのか。

理由は不明ながらも、安くで売っていることに変わりわない。

その価格の安さゆえ、価値が低いと思ってしまうのだが、キュウリであることに違いはないのだ。



曲がったキュウリの立ち位置は、規格品になれなかった自分の存在に似ているように思う。真っすぐなキュウリは、規格品で、整然と箱に並べられた優等生に見え、そうなれなかった曲がったキュウリと自分が重なるのだ。

曲がったキュウリに価値が見いだせるなら、私自身にさえ価値が見いだせるはず。価値がないと諦めるのではなく、安物の私と思うのではなく、何らかの価値を見いだせるまで諦めなければよいのだ。

箱に並びきれなかった曲がったキュウリに価値を見いだせばよい。そして、曲がったキュウリならではの「お買い得」という付加価値を与えられた素晴らしい立ち位置を手に入れるまで頑張ろう。

そう腹を括っていたから、「頑張れ!私!」と脳内で繰り返し唱え、断続的に努力を重ねことができたのだ。




一心に頑張っていたら、ある日、突然、言葉は変わった。何がきっかけということもなく、唐突に変化は訪れたのだ。頑張れという代わりに心の中で唱えていたのは、「愛してる」だった。

最初は、頭がおかしくなったのではと心配になった。

もしかしたら、誰かが送信したテレパシーを受信しているのではないかと非科学的なことを妄想してみたりもした。

だが、実際は、無意識の私が頑張れと唱える代わりに「愛してる」を唱えるようになっていただけだったのだ。



曲がったキュウリに価値を見いだせた自覚はないのだが、曲がったキュウリに価値を見いだせたから自分への愛を唱えるようになったのではないだろうか?

私の価値が何か自覚できぬままではあるけれど。おそらく、無意識にはその価値を見いだせたということだろう。

頑張ることは自分を愛するためだったのだとしたら、頑張ることを嬉しいと思えたことにも合点がいく。

これからも、頑張りながら自分を愛していこう。

頑張れ!私!


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