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後天性オッドアイ

 彗星はやはり、触れると冷たいのだろうか。
 オールトの雲から彗星がやってきた。家路を急ぐ夕暮れ時に、昼間ラジオから流れた話を思い出す。また遠い場所からやってきたもんだ。地面から離れることのできない身としては、その果てしない旅路がどんなものなのか、聞いてみたくもある。同じ言葉を交わすことができるのならば。
 ルミナリエのように、暗い場所で輝くものは美しいと言われがちだが、宇宙の黒い天球にはそんなものざらにありそうだ。宇宙で醜いものは存在するのだろうか。家の玄関を開ける。
 陽の沈んだ部屋、蛍光灯の下で晩飯の支度をする。彗星、彗星か。そういえば昔いつだったか、今日みたいに、ある彗星が地球にずいぶん近づいたことがあった。肉眼での確認も可能だったほどだ。黎明、太陽の昇る方角にて視認されるのであろう彗星を、ずいぶんと熱心に探したものだ。慣れないカメラまで使って、瑠璃色に明るみだす前の東の空に、ほうき星の尾を追いかけた。
 結局、目視することは叶わないまま彗星は地球から遠のいた。おそらくこれが最後のチャンスと言って、早朝昇った太陽のまぶしさに、浅い霧のような諦観の念が体中を取り巻いたのを覚えている。
 風呂をあがるとラジオをつけて、布団に倒れ込んだ。倒れ込むとまた、彗星の話が流れ出した。タイムリミットは太陽が昇ってしまうまで。プラズマの尾と塵芥の尾。二つの尾をもって宇宙を旅する氷の天体。軌道は細い蛇円を描く、非周期彗星だった。なぜこんなにも興味をそそられてしまうのだろうか。いつか彗星を観測できなかったことが、心のどこかに転がったまま、片付けられもせずに拾われるのを待っている。
 僕はコートを羽織って外へ出た。
 夜の風はまだ寒い。けれど大気は落ち着いている。山の上に建てられた住宅街に住んでいるものの、ここでは街灯が明るすぎて夜空がのっぺりと黒い。この街に、夜景を一望できる気の利いた丘なんてなかった。
 どうしたものか。とにかく灯りのある場所から離れていく。街灯の白い灯りは散りかけた桜を、心底味気ないものに見せた。歩いて行く中で街はずれの貯水池へ下る坂道を思い出した。両側から桜の木が覆いかぶさるようにして植えられている、広い道路だ。周囲に住宅がないため昼間は猫ばかり歩いている。下り坂だから空の端は山と桜の木が隠しているが、その代わり紺に澄む夜空から、誰に邪魔されることもなく星明りが届くだろう。
 コンクリートで固められた貯水池にはほとんど水が溜まっていなかった。わずかに溜まった水面からは葦が生え、近頃の雨量の少なさをうかがわせる。淀んでいるであろう貯水池の水は少しも揺らぐことなく、鏡のように夜の大気を映している。周囲では葉桜のささやく音が響いている。
 路肩の段差に、ちょうど東を向いて腰を下ろす。そういえば彗星がどの方角に出現するのか、よく聞いてなかった。いや、と首を振る。たぶん別に、どうしても見たいわけではないのだ。待つ時間が長いほど、知らぬ間に期待を抱いてしまう。無意識の期待に踊らされているだけなのだ。

 やはりどれだけ待てど、彗星は現れなかった。当たり前だと思った。仲春の夜風は、冷静さを保つためにちょうど良い弱さと温度を兼ね備えている。立ち上った。もう帰ろう、と坂を上りはじめる。
 ふと、左に見ていた貯水池に、何かが閃いた。
 風が水面を揺らしたのか。しかし葦の群生はぴくりとも動いていないじゃないか。夜の暗がりに貯水池の水面がぼう、と浮かび上がる。水面に何かが映っている。
 それは薄青の尾を引いていた。認めるや否や僕は空を仰いだ。
 そこにあったのは紛れもないほうき星。二本の尾をたなびかせながら、深紺の夜空高くを渡っている。指の先がちりり、と痺れて、僕は息を飲んだ。鼓動が胸を叩く。言葉にできない声が喉元に詰まり、口から空気が漏れる。頭に血がのぼって立ちくらみを覚えた。
 あれは、あの彗星は、これから地球を離れ、太陽へと向かう。そしてその周りをぐるりとまわり、もし万が一にでも体にまとった氷が融けることなくまわり切ることができたなら、彗星は再び地球へと立ち寄り、宇宙の彼方へ去る。
 戻ってくるのだろうか。昔、十年ほど前、帰還を望まれながら、太陽の熱に散った蒼白い彗星の名前を僕は知っている。
「君も消えるのか!」
 僕は大声で叫んでいた。暗闇で輝くものは何だって美しい。心を持たず、理を貫く彼らの姿は生物よりも生き物らしい。僕は彗星に、言葉を交わせる人格のようなものを望んでいた。それはとても利己的で歪んだ意識だと思う。けれど会いたかったのだ。
 彗星は音もたてずに夜空をすべる。西の空へ尾を伸ばし、東の空へ向かっている。耳元で鳴る風の音が、今まさに真空の暗闇を進む彗星の風を切る音のように感じる。そのさなか彗星が、甲高い音波のようなものを発した。
 すると順調に進んでいた彗星の核が、ほんの少しわずかに崩れた。その片割れが大きい方の核をゆっくりと離れ、まっすぐ僕目がけて落ちてくる。
 手を伸ばした。落ちてしまう前に掬わなければ。
 それは僕の両手には落下せず、左目の中に飛び込んだ。
 目を灼かれるような痛みが、眼球から脳裏へ突き抜ける。追いかけるようにして爽快さをともなう冷たさが瞳の中を駆け巡った。左目の視界に散る火花に似た光が、これまであの彗星が目にしてきた景色なのだと理解するのに時間は必要なかった。浅葱色の大星雲、ミルク色の銀河、星と星の衝突、オールトの雲。気の遠くなるほど時間を隔てた過去、オールトの雲で見送った彗星の先駆者たちの中に、僕が十年前追いかけた彗星もいるのだろうか。

 記憶の光が治まる頃、僕の左目は多少の痛みはありながら、元の茶色い瞳へと戻った。そしてその数日後、彗星が太陽の周回途中で、太陽の熱に融けたことが、大々的に報道されていた。
 結局消えてしまったな。左目に彗星の欠片が飛び込んできた夜、その次の日も同じ場所で彗星を待った。けれど今度こそ彗星はいつまで経っても現れることはなかった。貯水池の水面に映ることさえしなかった。あれは夢だったんじゃないか。時折、晴れ空の下でそう考える。
 しかし左目は、夜が訪れると決まって、あの日見た彗星のような、青い光を僕の瞳の中に漂わせる。その時はいつも、瞳が冷たく蠢くような心地がした。

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