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マックのポテトが、無性に食べたくなった

マックのポテトが無性に食べたくなった。
普段マックは自分から食べることがない。
こんな衝動何年ぶりだろうか。
急に食べたくなったのだ。それも、一番大きいLサイズを。

ふと唐突に、急に、悪いことをしたくなる時がある。
私は、昔から天邪鬼なところがあって、ああいえばこういう、いわゆる"ひねくれたタイプ"だと自覚している。

女性らしくなりたいという願望のためにスカートたくさん履こうと決めたのに、メンズライクなパンツやスニーカーを買いたくなったり。
大人っぽくシンプルに纏めようとゴールドのアクセサリーを揃えて満足していたかと思いきや、カッコよく強目なシルバーのアクセサリーを身につけたくなったり。
ヨガによって自分の心の平穏の保ち、今に満足するじんわりとしたあたたかな感覚や、波風立てず感謝の気持ちを大切にして心身ともに健康的に生きる選択をするのかと思いきや、妄想で凝り固まった世界を愛し物語やイラストといった創作の世界に猛烈にどっぷりハマったてみたくなったりする。
欲しくてたまらないものが手に入るまで追うけど、手に入ったら入ったですっかり冷めてみたり。

いいことをすると、悪いことがしたくなる。
この欲求はなんなんだろうか。
思春期の時に訪れる、自己の権力や存在の大きさを示したくて不良たちが校則を破ったり犯罪を犯したりするという心理とは、似ているようで似ていない気がしている。

自分の存在の輪郭、見ている物事の視野や視座、動く範囲を固定させるような、ルールやレッテルや価値観に押さえつけられたくない。自分で自分を押さえつけたくない、と思ってしまう。
安定することが怖い。だから、自分がとらわれている世界の狭さを自覚できるように、自由を感じられる世界の広さを感じられるように、わざと自主的に真逆方向を走るようにしている。

だから、「ああいえば」という方向に走ったかと思いきや、「こういう」という真逆方向に走ることで、自分の幅なのか深さなのかを確認している気がしている。
この行為は自分を知るという意味でも、自分を探究するという意味でも、とても大切な行為だと思っている。
ある意味ナルシスト的に自分に期待しているのだが、自分で自分に期待できなくなった瞬間にとても小さな世界に居座ることになると思うと、進んでナルシストになりたいとすら思えてくる。

いいことと見なされたものが充満する世界にどっぷり浸ることを、本能的に危険だと感じる。
その世界特有の幸せが幸せの全てだと思ってしまい、その他の幸せだと思える感覚の存在を見落としてしまうことや、それ以外の感覚を幸せとみなせなくなってしまうことへの恐怖心なのかもしれない。

私は、固定された状態になることが怖い。
自分の、物事や世界を見る目が"固定"されてしまうことで、今ある周囲の環境や生きているということ自体が当たり前で、普遍な存在と錯覚してしまうという浅はかな存在になりたくないのかもしれない。
意識しないと気づかないレベルで絶えず変化し続けている人や社会の変化に、頭や体感覚が鈍り気づけなくなってしまうことは、「観察」という私の趣味であり生きがいである行為が奪われてしまうことに等しく、生きる楽しみがなくなることが怖いのかもしれない。

知らないことを知り、自分が持つ価値観を根本から覆されるような、価値観が破壊されることに、私は快感を覚えている。
だから、自分の価値観を構築していく過程で、固まってしまうと気づくと疑い、凝り固まった自分の狭い価値観をぶっ壊してくれるような存在をあえて求めにいってしまう習性が私にはある。
安定の先にあるのは揺れが少ない穏やかさで、穏やかさ以外の強い衝撃を伴う感覚にも幸せを、快感を求めたいと思ってしまう。
波風のたたない穏やかさだけに幸せを求めるには、あまりにも狭い世界に閉じこもり、世界知らずで、退屈な人生になる気がしている。

刺激的な感覚と穏やかな感覚というのは、いわゆるドーパミン的な快楽なのかセロトニン的なじわじわと広がる暖かな幸せなのか、という話だと思う。
「幸せ」と呼ばれる感覚に関与するホルモンはたくさんあって、それらが人間にもたらす感覚は異なる。
一言で片付けるにはあまりにも複雑で多くの感覚を含む「幸せ」という感情を、これだと自分の経験したことがある感覚だけで決めつけることをしたくないという願望がある。ある特定の感覚のみを崇高だとか良いものだと優劣をつけるようなこともしたくない。自分が気づいていないだけで私や人々に湧き起こっている感覚や感情があるはずで、それを見つけたいし実感したいと思っている。
人間の複雑さを自分の既知の事実だけで決めつけてしまうと、その深さに気づけなくなってしまうということに恐怖を感じる。

また、私という人間は、自分がもつある特定の1面が主役になりそうになっているなと感じると、危機感を覚える。
基本は野菜が好きで外食より自炊派であり、太ることがないヘルシーな食生活が自然と送れる生活基準を維持できる価値観を持つ。(ただし、人に見せられる・食べさせるようなSNS映えする立派なものは作っていないが)
自分の精神統一のために、体の感覚を研ぎ澄ませるために、毎朝ヨガや筋トレもできる。やることに本当に価値を感じているので、嫌々ではなく優先順位を上げて行うことができるし、継続のコツも知っている。
世間一般では、それを意識高い系の生活といったり、ストイックというらしい。
確かに体が綺麗に研ぎ澄まされていく感覚がしてくる。ここに規則正しい睡眠といったものも加えれば、もうまさに、いわゆる「健康」になれる。
肌も綺麗になる。体が引き締まる。気持ちが前向きになる。頭も感覚も研ぎ澄まされる。いいことばかりだ。
いいことをたくさんしていると、悪いことが本能的に避け遠くなる。
ファスティングをすると、マックの匂いを美味しそうだと感じなくなって、食べたいと思わなくなるといった体験は、その一例だろう。

私は、健康的な生活を送っていると、健康の先に何をしたいのだっけと、ふと思うことがある。
健康である状態は体も心も軽くなり、好きである。
ただ、その状態が続くと、どうやら長生きをしてしまうようじゃないか。
いいものがいいものを引き寄せていくと、いいものばかりしか見えなくなってしまうのではないかという恐怖もある。
自分に都合のいい気持ちのいいものばかりをみて、それが世界の全てだと勘違いし、世界の全体そのものを見ることができなくなるということが、なんか違う気がしてくる。

明確な自分の役割や生きるための理由がそこまで強く大きく持っていない今、特に長生きをしたいと思っていない。むしろ体や価値観の老いを強く感じる前に消えたいとすら思う。
幸せを長く感じるために長生きなんてしたくなくて、むしろ、今この瞬間に意思を込められることをやり続けて、気力体力が無くなったらその過程の中で力尽きるように死ぬことが理想だ。
そう思うと、健康的な生活を送ってしまい意図せず長生きしてしまいそうになる自分が、ふと嫌になってくる。つまんないやつだと思ってしまう。
自分が勝手に思い描く"未来という幻想"に向かって腰を据えて生きるのではなく、本能的にどうしようもなく抑えられない衝動に駆られたい・突き動かされたい、という今生きていることを実感したい欲求が生まれてしまった。
これって、おそらく麻薬とかお酒とか、中毒性の強い体によくないとされるものを摂取すると、得られる快感なのだろう。
ただ、それは別に求めていないようだ。
別に悪ぶりたいわけでもないし、心と体を壊したいわけでもないので、そういった類のものに手を出したいと思わない。
一度気持ちを持っていかれると、自分の感覚が澄んだ状態には戻ってこれなくなることがなんとなくわかっているので、遠くに置いておきたい。

そうした、世界に対する期待、知的欲求や好奇心、自分という人間の幅や深さを知りたい欲求という、ある種の思春期の厨二病みたいな自我が行き着いた先が、マックのポテトLサイズだったんじゃないかと考えている。

ポテトフライなんて脂質の塊だ。じゃがいもという糖質の塊を油という脂質で固めるなんて、体に悪い要素満載、、、ギルティーだ。
痩せたい、ボディメイクしてます、と対外的にヘルシー女子みたいな言動をSNSでアップしているのにも関わらず、いや、だからこそなのか、全く真逆のことをしちゃおうとする自分。
それがいいのだ。SNSで見せてしまっているキラキラした要素は自分の一部の一部の一部であり、勝手にキラキラ加工されて外に泳いでいってしまっている気がして、どうも気持ちが悪い。

だから私は、誰かに何か言われたわけでもないのに、SNS上にいる切り抜かれた私のイメージから逃れるために、健康になり伸う伸うと長生きしそうになっている自分の生き方に嫌気がさして、あえてマックのポテトを買いに行くことに決めたのだ。
今のマックはすごくて、モバイルオーダーすればお財布開かずカード情報を入力せずともpaypayで決済が完了し、注文したものができた頃に店舗に伺えば待ち時間なしで手に入れることができる。

注文してすぐに向かったつもりだが、もうずっと待ってたけど遅くない?みたいな顔した、予約番号を大きく正面に貼り付けられポテトの油が染みて柄があるように見える紙袋が、少しへにゃっとしたなんだかすこし弱気な立ち姿をして、私を待ってくれていた。
研修で教えられたテンプレの接客言葉を、感謝なんて別にしていないという気持ち満載で伝えてくれながら、眼力強めの学生であろう若いお姉ちゃんが私にポテトの入った少し情けない姿の紙袋を渡してくれた。
リアぺ(リアクションペーパー)や単位がヤバイという自虐的なネタを話しながらポテトやハンバーガーをシェアする学生たちを横目に、私は一人になりたくてポテトちゃんを自分の家にそそくさと持ち帰った。
マックの独特の匂いと空気感は、長居したくなくて、そわそわする。家で1人になると安心できた。

そして、お待ちかねのポテトタイム。
結果、3口くらいで満足した。
別にお腹は空いていないしマックの中毒的な独特の油の匂いは、少し食べればすぐに満足した。
だけど、もったいないと思ってしまい、食べようと思えばまあ食べれるかという惰性で、目の前にあるものがなくなるまで無心で対峙してみた。

そうして次の日、ポテトの油がお腹の中に居座っているのを感じ、若干の後悔と自分の中で起こっている矛盾を実感した。
常に矛盾ばかりしてるからずっと彷徨ってるけど、不安定で矛盾していたいから、また思い出したようにマックのポテトを食べてみようと思う。

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