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桜桃忌は愛をも嫌う / 創作

借りたものは返したいけれど、今更返す宛先がない、というのも、おかしな話だ。
久方ぶりに取り出した書籍は、天の部分にうっすらと埃を積み上げている。背表紙の部分に貼られているラベルは劣化が進み、貼り直したテープが徐々に黄変しながらに層を造っている。建物の中に40年ほど置かれていた割に、中身の劣化も少ないことから、如何に生徒によって手に取られていなかったのか、ということがその見てくれより窺い知ることが出来る。

日頃本を読む習慣のない私の部屋に、雑誌に書かれた小さな文字すら読み切れない私の部屋に、太宰治の「斜陽」が物置棚にちんまりと置かれていた。年に一度くらいの間隔を空けてそれを手に取っては、半分まで読み進めることも適わず、また棚に戻す生活をかれこれ10年近く続けている。決まってこの発作が沸き起こるのは6月のことで、数ページ開いてそれから先は読み続ける気持ちもなく、懇々と昔のことを思い出す。
この月に太宰は津島修治という名を以て青森県の一角に生を受けた。またこの後、太宰は38歳という若さで玉川上水に身をくべた。

「誕生日に死ぬことに何か意味はあったのか、この頃になると考えるんです」

すぐ傍で語りかけられたような気がして、狭い部屋の中で一瞬だけ、軽い身震いをする。太宰よりもふた周りほど若くして亡くなった彼に教えて貰ったことを、毎年噛んで含まずには居られない。彼が眠る墓の行方は熟知していても、定期的に墓参に行くほど気心の知れた仲でもなかった。" その代わり " と云うにはあまりにお粗末な形ではあると分かっていても、夏が来るとこうして彼に祈りと時間を捧げている。

高校入学当時、ふたつ先のクラスの一員として入場する彼の横顔を見て、生まれて初めての " 一目惚れ " をした。
入学式を前に、体育館入口の通路でただ待たされる不思議な時間。そのおかげで各々の緊張が解れ、やがてガヤガヤと音を立て始めた。どうやら、手持ち無沙汰になった生徒同士、このタイミングで、互いの素性を打ち明けあっているらしい。中学でもなかなか友達が出来なかった私でも、それなりに期待を膨らませて、わざわざ地元から僅かに離れた高校を選んだというのに、明らかな遅れを感じると一瞬感じた心細さが喉元までいっぱいになる。縦横の軸もきっちりと揃えられた隊列も徐々に崩れ始めても尚、私は言いつけを守ってその場から動かず、まっすぐ前を向いていた。新品らしい張りを持った制服以上に気になるものなど無く、周囲で会話に注力する人たちを見ていても思い切って話してみようという気持ちにすらなれなかった。
そんな折、右や左に動く頭の先に、彼を見つけた。彼もまた私と同じように、相好を崩すこともなく入口の方をじっと見つめている。白塗りの校舎もセピア色に見えてしまいそうなほど色の白い人で、白金のように黒光りする毛髪が一際不自然に見えるほどである。彼はまた誰よりも身長が高いようで、人波に呑まれるような体躯の私でもごく容易に、その飄々とした出で立ちを目で追うことが出来た。この時咄嗟に考えたことは「彼と話してみたい」という思いのみだった。
人付き合いに慣れている側の人間からすれば、これは一瞬の交合いに用いられる俗物な考えなのかもしれない。昔から特別語るほどの理由もなく、自発的に他人と関わることを苦手としていた。興味が無い、というカテゴリーとはまた異なる、独特な距離感を持っていた。そんな私の心を本能的に突き動かすエッセンスが、彼の中に存在している。上手く言葉に置き換えられないのは今も昔もあまり変わらないが、確かにそれは愛情から来るものだったという自覚がある。

指示通りに起立、着席の繰り返しと呼名を除いて、私の集中は彼の背中に向けてのみ注がれていた。式の最中はもちろん、それから幾度となく学年、学校単位で招集される場に至っては、瞬きひとつせずに眺めのいい背中を見つめて過ごした。学校というシステムに慣れるよりも先に、身振りの少ない彼を静かに眺めることに慣れた。羨望の眼差しというより、ただ彼の動きを確認していたい、そんな気持ちでいた。

自己紹介を通じて、彼の趣味が読書であることを知った私はその言葉に背中を押されるがまま、図書委員になった。今思えば、彼が来るかも分からない図書室にて暗躍を決め込もうだなんて、かなり無茶な考えだったように思える。しかしそれこそが、私自身の望む微かな期待と、希望に他ならなかった。余り物のひと枠を宛てがわれたクラスメイトは如何にも不満げで、予想通り委員会の仕事からはこそこそ逃げているような始末だった。しかしいつか、想う人と出会えると思えばこそ、重い本を運ぶのも苦ではなかった。


春を迎えて、夏が来ようとしている。街の気温が少しずつ上がって、下町の往来では半袖に身を包む者も増えたというが、背後に聳える山岳の風をまともに受ける校舎の中は体感春先とそこまで変わらず、寒いままだった。その中でも南向きに据えられた図書室はどの教室よりも比較的暖かく、中休みになれば他のことはそっちのけで暖かな室内に籠る。寄贈図書と新書はそれぞれラベリングが異なり、3桁番号の頭文字に注意を向けながら必死にラベルをまとめた。春は特に古書新書を含めた流動が盛んなようで、寄贈図書をひと通りラッピングするだけで、記入済みのラベルはあっという間にひと袋を終えそうだ。20枚組のラベルシールを新たに取り出して、脇に控える新書に新たな生命を吹き込むべく、ナンバリングスタンプをガチャガチャと弄る。

「江戸川乱歩の小説はどこでしょうか」

かなり高い位置から声が降り注がれて、顔を上げると彼がいる。どことなく込み上げてくるのは嬉しさというより「ああ、やっと来た」というような、待ち侘びていた電車がやっと来て安堵する状況とよく似ている。入学から暫く経っても、私には依然として友達らしい友達が出来ないままでいた。退屈しのぎに覚えた本棚の雑把な分類と、本の数々。それこそ無愛想な女性司書教諭による演出だが、流石に丸ごと並べ替えをするほどの体力は無い。本の中身など知らないとて、表題と配置の暗記には抜群の自信があった。夏目漱石や森鴎外、太宰に芥川といった " いかにも " な書家はひと場所にまとめてある癖に、教科用図書から外れているだとか言うように、少しばかり有名でなくなる作家はセパレートもなく棚に押し込まれている。これもまた、彼女による仕業だった。私はその歪な並び順でさえも頭の中に叩き込み、とにかく本ばかりを目で追う彼に手早く教えて見せる。この室内には「人間椅子」「屋根裏の散歩者」「江戸川乱歩短編集」と3冊の取扱があって、私の導きの先にあるそれらを、彼は左から順番に借りて行った。彼は本を借りる時、特定の作者の本をこうして左から順番に借りていく。これを機に私自身の好みというフィルターも経て、彼の読んだ作品を後追いという形で借りる。夏目漱石の「吾輩は猫である」や 「こころ」三島由紀夫の「金閣寺」など、表紙の印象ばかりを気にしてからに、少しずつ私も本を手に取るようになった。彼が読む前から付いていたのかも定かではない傷や、ページの嵩みなどを見ていると、彼と一瞬でも生活を共有しているかのような錯覚に陥る。内容そのものの面白さより、こうした部分の悦びに魅力を感じていた。

「○○はどこでしょうか」「ここにあります」「ありがとうございます」「いいえ」

月並みな会話はまるで、ゲームのチュートリアルとよく似ている。たった数秒のやり取りで、1年間もの時はあっという間に過ぎた。相も変わらず図書委員は私以外、余り物で構成され、何処のクラスもじゃんけんで決まるらしい。私と同じように委員になることを自ら希望して入ってきた人も居るには居たけれど、申し付けられた仕事以外は何もしない、という姿勢で居るようだった。

そしてまた、相も変わらず彼との会話は本を通じたものでしかなく、距離が拡がることも狭まることもなかった。ただ1年も経てば微笑を何となく携えて、「こんにちは」くらいを互いに交わすようになった。普通の人同士であれば、もっとこの間に距離を縮めたり出来るのかもしれないが、私たちのリズムはこれで、一般人より緩やかで構わないのだと思う。寧ろこうしたやり取りの積み上げは長ければ長いほど、お互いの僅かな変化を感じるだけの余裕が出来るし、3年間という凝縮された時間が持つ移り変わりの激しさが目の前にあっても、唯一無二の関係が担保されているのだ。

ある時、私は本棚の整理の最中に脚立から落ちて、右の手首を捻った。何にも無関心そうだった司書がこの時ばかりは聞いたことのないような声を上げて心配に走ってくれたことは、痛みを忘れるくらい嬉しい出来事だった。手に二、三周包帯を巻き始めたのも、太宰治の「走れメロス」を読み始めたのも同じ時期だった。中学国語で学んだ文章を何となく思い出して、割愛された部分にも少しずつ花が咲くのを感じる。包帯の巻きが窮屈で箸さえもまともに使えず、高校生になって初めて購買のパンを食べている。本来、図書室の中は飲食禁止となっているにも関わらず、私が日々入り浸って働いていたということもあってか、司書は特に何も言わないのだった。

入口の引き戸が音を立てて開くと、彼が入ってきた。いつものように「こんにちは。」と挨拶をすると、彼は私の腕を見ながら「その腕、」とだけ呟く。主語も述語もないけれど、ここを出入りしてから初めて、本よりも私を気にしているということだけは分かった。こうなった経緯を簡潔に説明すると、彼は苦笑いとも取れる表情を瞳に浮かべる。医者でもないし、腕をどうすることも出来るわけではないし、そう思うと彼が複雑な表情をするのも無理はない。
とても自然に、彼の視線は私から私の手元に握られた本に落ちる。「あ、太宰」という呟きが静かに図書室に響いた。どうやら彼は、暫く読み続けていた志賀直哉作品を読み切ると今度は太宰作品に手を出そうとしていたらしい。たった一人の作者の存在をきっかけに、彼はぽつぽつと話を始める。その内容は太宰に関するものだった。彼が少しだけ長い話をしているのを聞きながら、毎回私は彼の声を忘れていることにふと気がついた。それも、言葉の合間で唾を飲む隙でもあろうものなら、その度に彼の持つ音域を忘れた。それゆえに、彼が話を始めると私の中には一定量の感動で溢れた。本の表題を記憶したとしても、作者名を記憶したとしても、その中身まで知ろうという気になったことはこれまでになかった。しかし彼の話はするすると耳の中に入って来るし、私の興味を刺激する。太宰の生育につき顔を緩ませた後、彼は神妙な面持ちで

「誕生日に死ぬことに何か意味はあったのか、この頃になると考えるんです」

と呟く頃に、昼休みを終える鐘が鳴る。彼は「では、」と言いながら「ヴィヨンの妻」を手に取る。私は食べかけだった菓子パンを口に詰め込んで、貸し出し簿にテキパキとサインを施した。図書室の出がけに、彼は「もう少し話をしましょう」と私を誘った。念願叶って、と言うとまた違うような気もするけれど、特別断る理由もない私は喜んでその誘いを快諾した。

放課後、私は彼の誘いに乗って指し向かいになって話をした。というより、何においても知識の浅い私は一方的に聞き役に徹する。有名な文学家について語らっているというより、彼の口ぶりはまるですぐ近くにいる友人のことを語っているようで、それもまたひとつの書き物のように思える。司書も居なければ校舎の中に殆ど人も居ない、部屋の内外含めてしめやかな空間で会話をしている。家族以外に、こうして人と2人きりで会話をした記憶が辺りを探ってもまるでない。彼のことを " 笑わない人 " と勝手に決めつけていたから、こうして目の前で笑っていても、何だか現実味が上手く仕事をしなかった。一緒に校舎を出て、互いが出る門の違いを確認すると彼は 「あぁ、帰る方向が違いますね」と呟いた。私と帰ろうと考えていてくれたかはよく分からないけれど、少しだけこの時胸がドキドキした。ちなみに、彼の家が駅とは逆方向であることを、私は知っている。昨年の5月に、こっそり彼の後をつけたことがあるから、これから彼がどう帰るのか、私はよく理解していた。部活の声があちこちから響くグラウンドを塀越しに見ながら、駅までの道を歩く。同じタイミングで入学した野球少年達も、ふた周りくらい体が大きくなっているように見えた。正念場である夏の大会に向けて、日増しに声は大きくなっていくのが、よく分かる。彼は別れる時、手を振らない。自宅近くの軒先で眠る猫に、彼はわざわざ腰を低くして手を振っていたが、人間である私には 「では」の一声しか掛けてはくれなかった。

その夜、私は思い切ってラブレターを書く決意をした。ラブレターとは言っても、ハガキ大のメモ紙に、簡単な要件を書くだけ。" 好きです、付き合ってください " なんて、口で言った方が早い。しかし何とか彼に適した使い方をすべきだ、と思うと紙面にまとめる方が良いことに気がついた。実際にペンを握ると、自分の思惑よりも遥かに筆が動いて、10行程度の長文になってしまった。これを見て、彼は私になんて言うんだろうか、仮に振り方まで優しい人だったら嫌だ、と勝手なことを考えた。

「ヴィヨンの妻」の隣は何だろうと確認をすると、そこには「女生徒」があった。彼が読むタイミングを想像しながら、パラパラと本を開く、句点が各所に散りばめられた、女学生のいたいけな嘆きを眺めながら、中ほどまで開いてから本を閉じる。
翌々日、彼は「ヴィヨンの妻」を返却し「女生徒」を借りて帰った。珍しく私がその時そこに居なかったのは、5限締め切りの課題を教室で黙々と消化していた時のことだ。そのままどのタイミングで本の中に挟まる手紙の存在に気がついたのか、私はずっと知りたかった。

事故現場の映像には、フロントバンパーを大きくへこませた貨物トラックが映っていた。全校集会では、下校時の注意点について、もう一度確認が取られる。3列先に、彼は居なかった。それもそのはず、彼は下校中、信号をよく確認しないまま駅前大通の横断歩道に侵入して、信号を遵守していた貨物トラックに撥ねられてしまったことで、もうこちらには二度と戻って来られなくなった。

こうして図書室から「女学生」が消えた。何故戻って来ないのか、彼がどうして駅方向に向かっていたのか、そこまで深く考えずともよく分かった。彼の葬式には、彼のクラスの学級委員と担任が向かったという。参列を希望するものは他にいなかったという事実も、彼の生活を考えればよく分かった。
彼に纏わる最後の記憶は、彼の机に置かれた白い、花の記憶。薄墨色をした花瓶に、彼の肌のような白い花が生けてあるのを、誰も居ない廊下から静かに見つめた。かつては酷く痛んだ手首に巻いてあった包帯も、割かしすぐに外れた。図書室へは、決められた仕事以外の要件で顔を出すことはなくなった。それから残された1年間も、私の中では空っぽの期間だった。

卒業後5年くらいの月が流れて、いよいよ校舎の取り壊しが始まった。私たちが卒業してすぐに廃校が決定してから、取り壊すまでがあっという間の出来事だった。大型重機がメスを入れる映像を見ながら、あの部屋にあった大量の本は何処へ運ばれて行ったのだろうか、とそればかりが気にかかる。「女学生」の隣に並んでいた太宰作品は「斜陽」だった。これを返せないまま、正しくは返さないまま卒業している。司書の管理がデタラメであったためか、それとも廃校になることが確定した以上はどうでも良かったのか、今こうして部屋に置いてあっても、返却を求める願いは誰からも来ていない。

あれから自然と、本が読めなくなった。学生の頃とは違って、仕事を選べば活字を追わなくてもいい生活はこちらが選ぶことができる。それも一層拍車をかけて、近頃では雑誌の端書きすらも頭に入らなくなった。やはり読めない「斜陽」を戻した後で、ずっと彼に伝えようと思っていたことを思い出した。

「誕生日に死ぬことに意味はなかったと思うけれど、彼はあのまま生きていても、どこかで死んでいたに違いない。誕生日に亡くなってしまって、初めて意味が生まれたんじゃないかな」

もっと早くに伝えておくべきだったと思うし、ラブレターを本の隙間に挟む、なんて小細工をせずとも、面と向かってはっきり話をしておくべきだったとも思う。「斜陽」のラベリング番号、" 619 " はほんの偶然から生まれた数字で、これは太宰の生まれた日でも、亡くなった日でもある。

私の筆致に比べて雑な数字で書かれているのを見ると、卒業生が書いたものか、はたまた司書が書いたものか、見返しに押された校名印はズレて二度押した痕跡はっきりと残っている。

いずれにしても、今更返す宛先がない、というのも本当におかしな話だ。図書室にて太宰治という人間を通した彼との接続があるだけで、それ以外の繋がりは何も無かった。ページの間に挟まった手紙になんて返したのだろうか、と考えてみても、彼の出す答えについての想像がつかなかった。きっと優しい彼のことだから、それなりの答えは用意しようと邁進した筈で、私が手紙を書けば同じく手紙で返してきたことだろう。
もしかしたら、と思いながら、まだ全て開ききっていなかった「斜陽」をパラパラと捲って、彼からの手紙を探した。そんなものはあるわけがなかった。彼から借りてばかりだった知識を、なにか別の形で返したい。しかし今更返す宛先がない、というのも本当におかしな話だった。







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