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ヴィンテージ【短編小説】

 ロレックスを左手首に付ける。午前十時五十五分を指す針を見て、作業机の前に立つ。学校の先生が使っているようなオフィス机を二つ並べたのが俺の作業スペースだった。机の右隅には卓上式カウンターが数を計るために置いてある。始業前のそれにはゼロが四つ並んでいた。巨大な倉庫の一画、山のように積まれた大小の袋から、二つ両手に持ち、机の上に放り投げた。中身を傷つけないように鋏を入れて開封する。十点ほどの衣類が顔を出す。その全てを袋から取り出して広げた。机の上を間接照明のライトでしっかりと見えるようにしてから、最初に全体を、二周目は裾や首回り、汚れやすい部分を見ていき、ボタンやファスナーの破損はないか調べる。秋用のチェックシャツが五点。大きめのブルージーンズ、紺のブレザーなど。LLサイズ。恰幅の良いおじさんが所有していたのか。状態はわりと良かった。俺は背後にあるコンテナへと衣類を振り分ける。右、オレンジ色のコンテナには状態が良く国内で売れるものを、左のグレーには状態が悪く売れないだろうものを。右、右、右、左。調子が良い時は振り向きざまにフワッと宙に浮かすようにして投げても衣服はコンテナへすっぽりと収まる。リズムが良いのは大抵ラジオが面白い時だ。特に木曜日。今日だ。俺はラジオの周波数を確認する。(と言っても俺がここで働いて約三年、チャンネルは誰も変えていない。)日々の孤独な作業は、ラジオなしでは耐えられなかっただろうと今になって思う。耳元に流れる音と言葉は活力をくれていたし、倉庫で一日の大半を過ごし、友人も少ない俺にとって、ラジオは大事な社会との接点だった。

 「いやー、ほんまにね。こないだ久しぶりに電車乗ったんですよ。そしたらね、もうみんなスマホ。こう、首をグッと前にして画面をじいっと見てるわけですやん。全員ですよ。信じられる? スマホが人間と一緒に電車乗ってるみたいな光景でね。そしたら僕、思わず自分のスマホでそれ撮ってん。ほんで、ツイッターにあげてな」

 「いや、あかんやつ」

 「ほんなら、二人おったんですよ。ババって顔上げて。あっ、ツイッター見てたんや。僕嬉しくて、握手でもさせて頂こうかって、勝手にひとりで盛り上がったんやけど」

 「おうおう」

 「めっちゃ怒られてん」

 「でしょうね!」

 「いや、めっちゃやで。めえーっちゃ。考えられます? 怒るのもわかる、個人情報な。でもまずは喜びを共有しようや」

 「何の喜びをや?」

 「僕と会えた喜びをやん」

 「なんでやねん」

 カマキリペッパーズのしょうもない会話に耳を傾けて、身体の他の部分は作業へと集中していく。

 服のリサイクルが俺の仕事だ。状態が良い服たちは、値が付けられ、倉庫の隣にある店で販売される。不要な服は、別の場所に送られてそこで新しい布地に生まれ変わるらしい。茨城県常総市。倉庫の周辺には畑ばかりで、よく言えばのどかな、変わり映えのない毎日を過ごしている。一日に七十から八十、多い時は百袋の衣類を仕分けと検品することに、一日の大半を費やしている。

 夏はとにかく暑い。倉庫にクーラーなんてものはなく大型のサーキュレーターを数か所で回すものの、熱風が当たるだけだった。首に水で濡らしたタオルを巻いて、作業にあたった。背中は汗でびたびたに貼りついていて気持ちが悪い。単純な労働で動作を繰り返すだけだ。コンテナが山になると空いているコンテナと替える。いっぱいになったコンテナの衣服は季節ごとに分別し、シーツほどの布地に包んで倉庫奥の在庫スペースへと閉まっておく。ベロアとかモヘアとかダウンとかこの時期には触れたくもないから、開封した袋の中がTシャツばかりだと有難い。


 「精が出るねえ」

 祭りでもやるのか、千葉さんが豪快に腕まくりをしながらこちらへ歩いてきた。

 配送担当の千葉さんは頭にタオルを巻いている。大柄な身体を覆うTシャツはだいたいぐっしょりと濡れていて、顔の下半分にごうごうと生い茂る髭もウエットに黒光りしていた。

 「一日休んだだけでかなり増えてるんですけど」

 「昨日は三百袋くらい持ってきたからねえ」

 世の中には、着なくなった服の捨て場に困っている金持ちが多くいることを、俺はここで働き出して知った。服や家電、壊れた椅子や錆びた自転車。物を捨てるにはお金がかかる。千葉さんは港区や文京区など都心をぐるりとカスタムした自前のハイエースで回ってたくさんの古着を回収してくる。それを俺が捌いて、ショップ担当の山根さんが売る。そのサイクルでここの商売は成り立っている。

 「それ」

 千葉さんが指をさす。俺の左手にあるハンガーラックだ。背に置いたコンテナとは別に、特に値がありそうなものは最初から仕分けしてこちらに掛けている。ラックにかけている物たちを俺はSS品と呼んでいる。一番手前にかけていたTシャツを、俺は千葉さんに差し出す。

 「シャネル」

 千葉さんは瞬きせず、大きく目を見開いてレディースⅯサイズほどのTシャツを凝視する。

 「偽物かと」

 「だろうね」

 千葉さんはそれでも、俺の手からハンガーごとどでかいロゴがプリントされたTシャツを受け取った。

 「偽物でもすぐ売れるだろう」

 田舎では本物か偽物かどうかなんて、たいしたことじゃない。そもそも本物が欲しいヤツは直営店か、アウトレットにでも行くだろう。偽物を好んで買うヤツは、美を観る眼ってのが養われてないだけで、美しいものを自分の中に育んでいくことを放棄したヤツは、この国にゴマンといる。残念だけど、わかりやすいブランドのロゴやマーク、シンボルに群がるお客さんを眺めていると、そういう気持ちになった。毎日、多くの服を見ている俺にも、美しさなんてわからないのだけれど。


 新しい袋を開封する時は少なからずドキドキする。膨大な服の山からただ一つの宝を探すかのように、その瞬間、俺はこの仕事を楽しんでいる。

 良く知らないブランドは調べることで知識になる。三年もやっていたら、だいたいファーストインプレッションで良いか悪いか不思議とわかる。良い服には佇まいがある。ファストファッションにはない要素だ。

 おれは上下ユニクロ。汚れの目立たない黒のTシャツ、履き込んだブルージーンズを着ている。美しいものを見るのは好きだが、自分が着ることに興味はない。汚したくないから結果あまり着なくなる。貧乏性なのだ。美しさとはなんだろう。単調な作業を繰り返し、一日が終わっていく。倉庫に射す西日に振り返ると、目の前の田畑がオレンジに染まっていた。輝く田舎道の歩道を歩く人影はなく、俺は全身に光を浴びた。今日も俺は誰かの着なくなった服を右から左に流しているだけだった。夕日が沈むと辺りは夜になった。虫の音が聞こえ、世界は調和している。どこかでは戦争が行われ、またどこかでは新しい服が製造されている。目の前の労働に集中することは、それらとの関係を忘れることだった。止まっていた手を動かし、ラジオに耳を傾ける。社会との接続を、俺は恐れていた。



 生活らしい生活はなかった。終業は午後八時。そこから自転車で自宅まで十分ほど。自炊をするのも片付けがめんどくさいことに気付いてから、もう丸二年はしていなかった。夕飯を食べたら、シャワーを浴びて敷きっぱなしの布団に寝ころび、動画を観る。ただそれだけ。夕食は牛丼屋を二つ、ハンバーガーショップを一つ。この三つをローテで回している。一食五百円で済ます。時給は千円だった。常総市では程々にもらえているほう。俺の一日は換算すると八千円でやり取りされている。倉庫では週四で働いている。週五で働くのは嫌だった。それはもはや正社員だろう。正社員になるのは魂を売るのとなんら変わりはなかった。売るほど大層な魂は持っていない。わかっている。ただ、何者にもなっていない今の立場が、何者かになれる立場でもあるという風に屁理屈をつけている。自分の心を誤魔化すな? 別にいいだろ、正解なんてないのだから。

 田舎だった。退屈な日々に意味を求めると苦しくなる。水田は季節によって稲の成長や変化があるが、水田自体は決して動かない。俺は水田以下だ。動かないし成長もしない。来る日も来る日も、集まった衣服を右から左へ流しているだけ。余った服はそれぞれ求められるところへと流れていくが、俺という物体はこの場所に留まり続けている。

 リサイクルというのは不思議な循環である。それこそ俺が生まれる前に生産された古い服が、希少価値を持ちヴィンテージと呼ばれる。質量のあるものは保存に困る。生活の中で所有者と共に過ごし、ダメージを受ける。だから劣化やダメージを乗り越えて、今の時代に残り続けたものはより価値があるのだろう。

 「どうですかね」

 俺は数十着をピックしたラックを押して倉庫の隣にあるショップへ向かった。

 「うん、おお、これはいいね。はあ、うん、ほお」

 ショップ担当の山根さんはまるで速読するかのようにラックをパラパラとめくる。スピーディーに服を観察しながら、両手の指は生地の手触りを確認している。

 山根さんは十五年、この仕事をしている。彼が見てきたものは、単純に俺の五倍だし、引き出しの多さ、知識は圧倒的だった。服の事はもちろん、背景にある歴史やバックグラウンドまで抑えている。服に価値を上乗せする。彼が接客すると、買いたくなる。ただの一着のシャツが、物語を纏い、歴史を感じさせ、見るものの眼を変える。『伝えていく人がいないと、歴史は風化してしまうからね』と考古学者みたいな台詞を山根さんはサラッと言ってのける。服オタクなんだ。

 「これなんか、とても面白いね」

 山根さんが手に持ったのは、ミリタリーのアノラックパーカーだった。

 「フランス軍50年代のモノだと思うな。状態も良いし、しっかりとしてるから」

 「幾らで売るんですか」

 「そうだなあ、二万円とか」

 「そんなに」

 「これでも安いほうだよ」

 山根さんは笑った。彼は台湾のデザイナーズブランドが作っているリネンシャツに、アメリカ製のデニム、ドイツ老舗メーカーの革製サンダル。ハワイの土産物屋で手に入れたという黒縁眼鏡に、日本で作られた麦わら帽子を被る。彼自身がまさに世界の繋がりを体現していた。グローバリゼーションヤマネ。

 熱帯夜に蝉の鳴き声がうるさい。夜八時に作業を終えると、汗でべっとりとした皮膚が湿気でさらに重たく感じた。水道でタオルを濡らして、身体を拭く。田舎の夜は早く、人通りもない。若者は娯楽や仕事を求めて街に出ていく。ショップも半分は老人の憩いの場とかしていた。山根さんと他愛もない会話を楽しむ。時折、服を数着買っていくが、だいたいは野菜とか、お菓子とかを差し入れして帰っていく。

 「チェーン店だとこうもいかないよな」

 山根さんの言う通りだ。

 土地に馴染む。無個性なチェーン店が馴染んでしまう時、風景は同一化していくし、中の人は代替可能だ。山根さんは山根さん。でも、俺はどうだろう。俺がいなくなれば、代わりが来る。考えなくても分かることだった。


 労働の後に飲むコーラはたまらない。俺は酒はそんなに飲まないし煙草は一切吸わない。ギャンブルもしない。きっと昭和世代のオジサンたちからすればつまらない存在なのだろうと我ながら思う。倉庫の冷蔵庫で冷やしていた缶のプルタブをプシュっとやる。この瞬間に、疲労と時間が濃密に混ざって夜の闇に溶けていく。何も生産していないし、狩りもしていない、俺が甘辛い炭酸で糖分を補給することは、縄文時代だったらおかしいことだろうか。うらやましいことはないか、力の差は歴然、自らの細い腕は、朝の自転車通勤でTシャツ焼けしている。令和時代に生かされている。喉を通り抜けていく茶褐色の液体は怠惰で甘美な誘惑だ。とても安価な。そういった出口のない空想をベンチに腰掛けてゆるゆると思う。心身がだらりと熱に溶けていく。ベンチと同化してしまうほどに。流行は巡る。文化は残る。ファッションは回り、普遍性と独創性の間を行き来していく。コーラは何だ。ファッションアイテムか。流通が、世界中のどこにいてもコーラを飲めるようにしてくれている。恩恵。たいした娯楽のないこのまちにも、アマゾンは荷物を届けてくれるし、載っている膨大な商品はワンクリックすれば買える。金があるかは別として。

 インフルエンサーとかいう有名人面した素人が、うちの倉庫兼ショップにやってきて、動画を撮りながら数点買い物をした。うちのショップは茨城県の古着屋の中でも最安に近いと思うし(そもそも常総市には大手リサイクルショップ以外には古着屋はない)、東京からみたら破格的に安い。ネットの拡散力たるや。そのせいで、店は東京や県北、千葉県から訪れる客が増え混雑し出した。盆間近のことだった。夏休みだ、暇な学生も多い。学生は金がないから古着を好む。中には抵抗ある人もいるんだろうが、それは大人も同じだ。新品の服しか着ない人がいるおかげでリサイクルという循環が成り立つのもまた真実で、サステイナブルだから古着を着るんじゃない。金のあるなしや価値観の相違、江戸時代は着物を三代にわたって直しながら着たそうな。穴の開いたジーンズをオシャレだと若者に信じ込ませた有名バンドたちは、確かにカリスマである。

 相も変わらず消費活動の中にしか、俺の生活はなかった。一日の労働後牛丼に食らいつくと、歯と顎が咀嚼するたび、食べ慣れた旨味成分が口の中に広がる。二十四時間スーパーでトイレットペーパーと2リットルの緑茶を買った。六畳一間の賃貸アパートに帰る。日当たりは悪い。家賃四万円。味気のないガムを噛んだ。『つまらない毎日が魂を咀嚼している』。浮かんだ言葉をスマホにメモした。来月、二十六になる。大学を一年で中退して、労働者になった。東京に憧れて、生まれ育った茨城県を出たものの、実際の東京は理想とはほど遠かった。外側は甘美で誘惑的だったけど、内側は空虚だった。東京に期待していた自分は、空虚な街と対峙してみて、自らの空虚さを鏡のように味わい、顔を塞ぎ倒れ込んだ。気付けば、何もかもが合わないと、突き放した態度を東京に対して取っていった。歩く速度、標準語、流行りのミュージック、それを踊ったのちtiktokにあげて共有すること。ぼんやりとした授業と居酒屋でのアルバイト。サークルという冠のついた中身のない飲み会。俺は何だ。

 何者でもない状態を自由と呼ぶなら、この焦燥感は何だ。こびり付いて取れない、空虚な自分と何処にも手が届かないようなリアルな毎日。逃げるように実家のつくば市に戻ってきた二十歳。完全に人生に失敗した。誰とも会いたくない。毎日を家で過ごし浪費した。実家には母がいた。妹は高校三年生で、地元の調理学校へと進学が決まっていた。特技の一つも持っていない、何もできない歯がゆさと、そこから何もしていない自分への怒りと焦りがくすんだ心を黒く塗りつぶしていく。ホテルの配膳や、清掃業、短期のバイトを行っては辞めた。始める度に、新しい扉を開けた期待や好奇心を持ち、辞めることにはすべてにていよく沈黙した。心がささくれ立って、仕事や将来の事を家族に聞かれると、うるせえ!と怒鳴った。地元の同級生とコンビニですれ違っても、大学を休学して一旦つくばに戻ってきてると嘘をついた。しかし、実家以外に居場所はそもそもなかった。そういった状況が二十三歳まで続いた。母は以前よりも年老いたし、妹は調理学校を卒業しホテルのフレンチレストランで働き出していた。

 当てつけのようにリビングに置かれていた求人雑誌をパラパラめくって、現在の仕事に出会った。未経験可、世界の仕組みを知る仕事、と書かれていた。簡単に騙された。

 騙されて三年。単調な日々は加速していた。労働し報酬を得ているので、家で引きこもっている時より幾分かマシなのかもしれない。働き始めて一か月。給料は手渡しだった。封筒に入れられた紙幣と幾つかの硬貨を手に取り眺めていると、自分がしてきたことの意味が良く分からなくなった。加速的な日々の代償は手元にある紙とコインだった。その重さをかみしめる。それでも辞めなかったのはなぜだろう。他にやることもなかったから。だいたいみんなそんなもんだからという諦めか。いずれにせよ、毎日は進んでいる。

 「こないだのとうもろこし食べた?」

 千葉さんは奥様とふたりで畑をやっている。子どもがいないから、畑が代わりみたいなもんなんだわと、前に言っていたのを覚えている。トマト、なす、じゃがいも、などなど。百姓の如く、色々と作っているらしい。

 千葉さんにもらったとうもろこしは暫く放置していたらカビが生えた。捨てればよかったのだが、子どもみたいと言っているのに捨てられない。洗ってジップロックに入れて冷蔵庫の奥へ押し込んだ。食べる予定はない。一度カビも生えているし。俺には無理だ。ただ、千葉さんの事を思うと捨てられない。

 「ええ、甘かったです」

 美味しい、じゃあ嘘くさいかと思って甘かったと言った。

「そうだろう」と言った千葉さんの顔は満足気だった。良かった。

 今年の夏はどこまでも暑い。厚手のウールコートの検品、最悪だ。所有者から離れて、この先どこへ行くのか。冬までは倉庫で眠っているかな。振り向きざまオレンジのコンテナへ投げる。服も家電も食料も、世界中に足りているのに、まだまだ生産されていく。それでも格差は生まれる。常総は田舎で東京は都だ。ニューヨークとコンゴ共和国。きっと分配が間違っている。俺みたいに、右から左に流すやつがしっかりしてないせいだ。馬鹿みたいに大量に買っていく客が増えた。あのインフルエンサーが動画をネットにあげた時期とほぼ同時期だった。安いから大量に買う。まあ、いいんだけど。売上にもなっているから、確かに。でも、自分が着られる服は一着だろ?

 多くを欲しがるやつは欲望がぎらぎらしていて、嫌になる。ああ、そうだ。俺は東京のそんなところが嫌になってしまったのだ。今更ながらわかった。経済成長、ブランド主義。偽物を着飾る貧乏人。誰かに魅せる為の服なのか。俺は俺自身に価値がないことはわかっている。だから何を着ても一緒なのだ。着ている本体が偽物なのだから。

 袋を開けて、丁寧に一着ずつ手に取る。手が荒れないように常に軍手をしている。今では軍手越しに触る生地の感触のほうがリアルに感じるようになってしまった。

 アロハシャツが出てきた。隅々まで観察する。アロハは良い。思うに、日本人が好むのは結局、黒か白。同調圧力なのか。同じような服で揃えすぎだろ。アロハの柄がポップ過ぎて、目に心地よい。百円玉ほどの大きさで西瓜と鮫の絵が交互に描かれている。どんだけ夏なんだよ。ブランドタグと品質タグを確認する。格安量販店のメイドインチャイナ。

 「なんだよこれ、絶妙にダサいな」

 千葉さんならそう言うだろう。喜ばすために見せようと思ったら、回収に行っているらしく倉庫にはいなかった。一人だ。

 今日は木曜日、定位置に戻ってラジオのボリュームを上げる。

 「最近めっちゃ外国人多くない?」

 「円安ですなあ」

 「せやねん。こないだ仕事で京都行ったとき、周りから日本語聞こえへんかったもん」

 「逆海外旅行やな」

 「このラジオも英語で話したほうがええんちゃう」

 「なんでなん」

 「関西弁なんかローカル中のローカル、もっと世界に向けて発信せな」

 「そりゃ言語は境界あるわな」

 「ジェスチャー、伝わらんしな。トゥーホット、アイニードウォーター」

 「今日もほんま暑いよな」

 「おお、何で通じたん」

 「そんな簡単な英語誰だってわかるやろ」

 「ゴリラにもわかる時代か」

 「誰がゴリラやねん、ゴリラとラジオしとったんか」

 「せめてAIとしろよ」

 「いや、おまえがな」


 カマキリペッパーズの声が、俺と社会の間にある境界を壊していく。彼らは知らない社会や世間を教えてくれる。閉ざされた空間にいる俺は、手を動かしながら、二人の掛け合いを聴き、頷いたり、無意識に独り言を呟いたりしてしまう。内と外。その境界としてラジオがあり、声が届く。同じ時刻。木曜日の夕方四時から五時のあいだ。単調な毎日に彩りとリズムを与えてくれている。


 木曜日といえば、もう一つ。毎週木曜日、ナガシマというおばちゃんが店に顔を出す。五十代半ばくらいの大柄な彼女は、額に汗をかきながら、今日もショップへやってきた。ナガシマさんは、東京から軽自動車を運転してくる。道中約二時間くらいかかるそうだ。ショップにハンガーラックを持って行った時に顔を合わせ少し話した。彼女もまた強欲だった。

 「東京で、こんなに安く買えるとこなんて、ないわ。絶対ない」

 ナガシマさんは鼻息荒く言う。東京で集めた衣料品を、茨城で売っているわけだが、それを買いにわざわざ東京から足繫く通うということは、最早何らかのコメディでしかなかった。ナガジマさんが車にパンパンになるくらい服を詰めて帰るのをみると、お疲れ様です、と思う。彼女はいつだか倉庫も物色しにきた。

 「お宝眠ってるんでしょ」

 「それを見つけるのが俺の仕事ですから」

 俺が素っ気なく答えるとナガシマさんはニタァを笑った。顎が二重になる。

 「楽しみ。でも今見たら楽しみが減っちゃうわ」

 そういうもんですかね、俺は言う。検品の邪魔だ。

 古着好きのカゴシマくんという変わり者の大学生もいる。彼は週末にやって来る。特にボロボロのジーンズを好んだ。50年とか60年の。

 俺にはわからない趣味だった。小綺麗なスキニージーンズだって、ショップには置いてある。しかもそっちのほうが安いこともある。なのに、あえてボロボロのブルー剥げかけのジーンズを履く。自分が格好いいと思っているんだから結構なことだし文句の余地はないのだが、それでいいのか。俺はカゴシマくんに失礼ながら聞いた。

 「古着の何がいいわけ」

 カゴシマくんは、こいつ古着屋の倉庫で働いてるくせに何もわかってねえなという顔はしつつも丁寧な言葉で俺に伝えた。

 「ロマンなんですよ、結局」

 彼が言うには、希少価値やらステータスを越えた先の物語、それがロマンなのであった。

 カゴシマくんはロマンを着て鼻息荒く言う。

 「自己満でもいいんです。自分が格好いいと思うものをまとって生きていたいんですよ」

 彼は学業の合間にアルバイトを掛け持ちしているという。居酒屋と深夜のコンビニ。稼いだお金でロマンを買う。

 「居酒屋とコンビニのバイト中は制服なワケだろ」

 我ながら失礼で嫌味な質問だ。

 「部屋に好きな服があって、それを眺めたり、コーディネートを組み合わせニヤニヤしたり、飾ったり。そういう楽しみ方、まさかしないんですか?」

 ロマンは奥が深い。そういう楽しみをしらない俺はやっぱりつまらないヤツなのだ。


 帰り道。俺は、自転車で家とは逆の方向に走った。労働の対価に毎月十数万の金を得る。節制しようと散財しようと、どちらにせよたかがしれている。

 十五分ほど漕いで駅前にあるラーメン屋に来た。コテコテの豚骨スープに絡むちぢれ麺。トロトロに溶ける肉厚のチャーシュー。ここには数年ぶりにきた。意識して普段のルーティンからはずれた。これがロマンなのか。ロマンじゃないよな。九百円。豪快な楽しみがない自分の人生がむなしくなる。しかし、久しぶりに味わう豚骨ラーメン、スープをすするほどに、空腹は満たされた。前言撤回。このラーメンが食えるヤツは、むなしくなんかない、間違いなく人生の勝者だ。たいして強くもないのに瓶ビールを頼む。贅沢で、とても社会人っぽかった。餃子も追加したかったけど、頭の中で「調子に乗るなよ」と自分の声がした。


 迷っているとスマホが鳴った。日頃誰からもかかってこない電話に驚いて反射的に出てしまった。

 「おい、生きてるか」

 調子の良い声。数年ぶりでも山崎だとすぐにわかる。

 「電話に出たのが証明にならないか」

 酒が入っていると、人付き合いも楽になる。普段だったら電話なんて即切っている。旧友たちに近況は知らせていないし、知ってほしくもなかった。

 「来週女子と飲むんだけど、おまえも来れないか」

 頻繁に連絡取っていたかのように山崎は軽かった。彼の場合は元来の性格だった。

 「はっ? 何言ってる。行くわけないだろ」

 遊びの誘いなんてもちろんノーだ。

 「だよな。でも中二の時、英語の教科書忘れたおまえに貸してやったのオレだよな」

 「行かねえよ」

 「高一で学校近くにあるマックのバイトの子が可愛いって言ったおまえに、連絡先聞いてきてあげたの、オレだよな」

 いつの事覚えてんだよ、電話越しに思わず顔がニヤけた。

 「高三の夏行った大洗の花火大会、財布すられたおまえに、帰りの交通費貸したのも、オレじゃなかったか」

 こいつ、俺の恥ずかしい出来事ばかり覚えてるな。

 「他にもあるぞ」

 キリがなさそうだ。

 「他にも誘うヤツいるだろ」

 「全員ダメだったから困ってるんだよ! もうおまえしかいないのよ」

 めっきり音沙汰もない俺にかけるくらいだから本当なんだろう。

 「・・これで、チャラな」

 「マジサンキュー、助かるわ!」

 山崎が本当に嬉しそうな声をあげたので、悪い気はしなかった。酒がさっきよりも美味く感じた。


 翌週。山崎は待ち合わせに渋谷を指定した。

 「早く上がりたいって珍しいね」

 「どうしても外せない用事を忘れていまして。急に申し訳ありません」

 山根さんに頭を下げると、彼は笑って、いいよいいよとかぶりを振る。

 「デート?」

 「いやいや違います」

 「ははは、冗談だよ。そんなわけないよね」

 「すみません」

 どれだけ女っ気ないと思われているのか。当たっているけど。まあ、山根さんが快く送り出してくれることに安堵した。

 渋谷まで電車で片道二時間。

 往復の交通費約四千円で、すでに貸しはチャラだろう。日当の半分が軽々ともっていかれる。だいたい飲みに誘っといて詳細はたいして教えてくれなかった。確かに数合わせだから適当にやり過ごせばいいのだろうけど。その適当の案配がわからない。心の中で山崎に対して悪態をついた。

 渋谷の奥まった路地を歩くと、如何にも隠れ家なこじんまりとした【串や まるいち】がみえた。店名とは裏腹に外観はシック。グレイのモルタル壁に小窓があり、そこから店内のオレンジ色の照明が淡く幻想的に夜を灯していた。


 「おー、こっちこっち」

 山崎が手を振ると、同じテーブルにいた女性二人もこちらを見た。

 同世代のようだった。一人は赤茶色の長い髪で毛先はくるくると巻いている。夏なのに、透き通った白い肌が印象的だった。

 もう一人はクールな感じだ。黒髪のショートボブ。化粧気もあまりなくノースリーブのカットソーに薄めのブルージーンズとラフな格好だった。

 「ワタシはサオリ。で、彼女は玲美」

 よろしくねえ、と赤茶髪が笑顔を見せる。

 軽く会釈をして生ビールを注文した。

 流れるように冷えたジョッキが届いて、乾杯する。誰かと食卓を囲むのも久しぶりだなとぼんやり思った。黒髪の玲美と目が合う。

 話は山崎とサオリが回していて、玲美は頷いたりするだけで寡黙なほうだった。俺と同じく連れて来られたのか。山崎と会うのは六年ぶりだろうか。最後に会った時は短髪だったはずだけど、今はサーファーみたいに肌の色は健康的に黒く、肩ほどにある髪は後ろで束ねられていた。中高と卓球部だったことは言わないほうが無難だろうか。

 「で、おまえ今何してんの?」

 山崎が俺に聞く。サオリは盛り合わせで届いた串を取り分ける。ああ、曖昧に頷いてビールに口をつける。倉庫で働いているのは家族以外知らない。田園風景の隅にある古びた倉庫で、汗と埃まみれになっている自分を見られたくなかった。生まれ育ったつくば市と勤務先の常総市は隣である。いつ誰が訪れるかもわからない。三年いても知り合いには誰も会わずに済んでいた。

 「今は、ネットで古着屋をしてる」

 多少、虚飾しているけど概ね間違ってはいない。嘘をついて後でバレるのも困る。女性二人には今後会うことはないだろうけど。山崎には慎重に言っておかないと。

 「へえ。すげえじゃん。どんな服扱ってるの」

 山崎は興味をもったようだった。身を乗り出して聞いてくる。

 「つかそれロレックス?」

 ああ。俺は腕に付けているロレックスを少しみえるようにしてやると、サオリもすごーいと感嘆した。

 「まあ、こういうヴィンテージも少し扱ってる」

 酒が回り出すと奇妙なくらい気分が良かった。サオリは聞き上手だったし、男二人の話を盛り上げた。山崎は国産カメラメーカーで営業をしていた。酒に強く、仕事場でのトラブルに自らの武勇伝を織り込み巧みに話した。

 玲美は表情をあまり崩さずに話を聞いていた。酒は強いみたいで何杯か重ねても様子は変わらなかった。饒舌になっていく俺たち三人とはえらい違いだ。ロレックスを付けてきたのは、やっぱり自分に自信がなかったから。少し借りるつもりで持ってきたけど、しかしロレックスが定位置になかったら、千葉さんや山根さんは気付くだろうか。このロレックスは、仕事中しか付けていない。それ以外は倉庫に置いてある。俺の所有物じゃなく店の物だ。勤務初日、その頃は洋服の見方もわからなかった俺が開封した袋の一つ、ツイードのジャケット、裏ポケットにコレが入っていた。

 「こんなこともあるもんだ」

 千葉さんは俺の報告に目を丸くした。ロレックスの中でも年代物で希少価値もあるらしい。手にした時の重厚感と、色あせない輝き。無造作に山のように積まれた服たちから引き取り先を割り出すことはできなかったようで、ラッキー、幸運の象徴として、ロレックスは店頭に置かず、倉庫に置かれている。

 「君にはヴィンテージを探し出す才能があるのかもしれないな」

 千葉さんの言葉は、当時の俺を励ました。


 終電で、常総へ帰った。人と交際するのなんて永遠に無理だろう。それくらい疲れていた。一度飲みに行っただけでこの調子だ。車窓から流れる風景を見ていると山崎からラインが来る。

 「今日はありがとな」

 こちらこそ、と送り返す。ちゃんと役割を全うしたつもりだ。山崎とサオリも盛り上がっていたし。

 「玲美ちゃん可愛いよな」

 山崎からの返信に驚く。そっちだったのか。じゃあ脈はないかな、しかし山崎にそう言うのは憚られた。

 「がんばれよ」

 と、返しスマホをポケットにしまう。

 電車が茨城に帰るにつれて乗っている人は減っていく。退屈の反対が刺激だとしたら、今日はとても刺激的だったのかもしれない。

 ロレックスを付けた腕を眺める。秒針が時を刻んでいる。窓越しに自分の姿を確認する。その顔はロレックスをしても酒を飲んでも自信なさげだった。常総へ向かうにつれ、よりその面は貧相になっていった。惰性で刻んだ数年分の秒針、ヴィンテージのように経年変化はできない。俺は俺を値踏みしていた。

 帰ったら、冷蔵庫の奥底に眠っているとうもろこしを土に還そうと思いたった。適当な地面でいい。きっと虫たちが食べて循環していく。老いて滅びる。自然の摂理だ。


 サオリから連絡が来たのは二日後だった。ふたりで会いたいとラインが来た。休憩時間、昼食を取らずにショップで山根さんに声をかけた。

 「あの、壁にかかっているデザイナーズブランドのシャツを買いたいんですけど」

 さらに、そのシャツに合いそうな二点。ストリートブランドとワークブランドのダブルネームのチノパン。足元にはオレンジ色USコンバースのスニーカーを揃えた。

 「どうしたの、うちで服買うなんて」

 「ええまあ」

 「もしかしてデート」

 「ええまあ」

 「冗談だよ?」

 山根さんは困惑していたので、俺は肩を竦めた。


 片道二時間の電車にもう一度揺られることになるとは。

 渋谷のハチ公前で待ち合わせる。前回会ってからまだ一週間しか経っていなかった。ロレックスで時刻を確認する。集合二分前。

 遠くからサオリが駆けてくるのが見えた。胸の高鳴りは、こういう状況に慣れていないからだと思う。片手を小さく上げると、こちらに気付いた。

 「なんかこないだと雰囲気違う?」

 そうかな。緊張していることが悟られないように、俺は明後日の方向へ歩き出す。人混み。無数の生物が着衣して歩く。服は記号だった。毎日見ている記号。イメージが変わるじゃない。知識がイメージを植え付ける。色は色でしかないし、生地は生地でしかないのに。まとわりつく湿気に淡泊な会話のやり取りはぽんぽんと軽いキャッチボールのように。行きたいと言われたカフェに入る。都会的に洗練された店内には、年代物であろうヨーロッパの家具が置かれていて、新旧が上手くミックスされていた。

 「古着屋で働いているって言っていたから。こういうトコ好きかなって」

 「ああうん」

 ゆったりとしたソファ席に並んで座る。

 「何にしようかなあ」サオリはメニュー表を眺めている。BLTサンドイッチ、海老とズッキーニのトマトクリームパスタ、特製キーマカレー。

 「サンドイッチかパスタか」

 うーんと頭をひねっているサオリに、ふたつ頼んでシェアする?と聞いた。

 「え、いいの」

 わからないけど、渋谷的にふるまっているのが正解のような気がしていた。常総にいたら浮いてしまう恰好の人ばかりだから。個性はぶつかり平凡は埋もれていくのか。人種のるつぼ、ダイバーシティの真ん中でアイスラテをすする。エスプレッソの濃厚な苦みがミルクの甘さと中和している。

 生活から仕事を引くと自分の日常には何もなかったし、仕事の話は極力したくなかった。

 「カマキリペッパーズって知ってる?」

 「知らなーい」

 唯一の社会との接点だったけど、サオリの社会とは繋がっていなかったらしい。

 他に話すべきことがわからなかったから、今年の夏は例年以上に暑いね、とか中高一緒だった山崎との思い出話とかを精一杯話した。

 昼食を食べた後、二人で原宿方面まで歩く。

 サオリは心なしかうつむいてみえた。

 「サオリちゃんは、よくこの辺来るの?」

 さん付けかちゃん付けか、それすら正解もわからない俺はどうでもいい事しか聞けなかった。

 このまま解散って変だよな。

 「このあと、映画でも行く?」

 何が上映しているかわからない。でも映画なら喋らなくてもいいから大丈夫だとふんだ。

 サオリはジッと俺を見つめてから、言った。

 「なんかさ思っていたより、きみって退屈なんだね」

 別に悪い意味じゃないよ、とサオリは付け足した。少し考えたけど、どう考えても悪い意味だった。退屈が服を着て歩いていた。渋谷のショーウインドウが映し出す自分の姿は、確かに滑稽だった。良い服を着ても、拭えない。手の甲で首筋の汗を拭っても、決して残念な自分自身は取れないのだ。サオリの言葉を否定することはできなかった。一刻も早く常総に帰って、あの倉庫に帰って、ラジオを聴きたかった。埃と衣類にまみれて汗だくになりながら作業をする。労働をすることで、今は現実を忘れたかった。

 帰宅後、冷蔵庫からとうもろこしを手に取った。冷えている。食器の中からスプーンと箸も取る。うだる晩夏の夜、半月が辺りをうっすらと照らす頃、適当な地面をスプーンと箸で掘っていった。鈴虫が鳴いていた。じきに秋が来る。数十センチほど掘った穴にとうもろこしを埋めた。

 ふう、と一息つく。迷いはなかった。

 俺は腕に付けていたロレックスを外す。ずっしりとした重み。ゆっくりと預けるように穴の中へ落とした。

 悔しかった。ロレックスや良い服に頼った自分が惨めだったし、自分が一番、自分に中身のないことは知っていた。他人に言われるそれは、同じ言葉でも、意味合いは大きく違っていた。循環の中で、刻んだ時だけが前へ向かって進んでいた。とうもろこしとロレックスの穴を、掘り返した土で埋めた。素手で埋めた。見えなくなっても埋めた。素手で土に触るなんていつぶりだろう。土は温かかった。膝をつき両手を地面に重ねている自分を月は照らしていた。その姿はまるで土下座をしているようだった。上手くいかない自分を、月は全部見ていた。中身のない生活を繰り返す自分は、この風景の一部だったと気付いた。時は刻み、それでも明日が来る。俺は頭を垂れ、土を埋めて、謝り続けた。ごめんなさい。すみません。土を掴む手、浮き出る血管。明日が来る前に、今までの自分をここに埋葬したかった。急げ。急げ。

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