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フーコーが見た自己との関係とラロシュフコーの自己愛と現代の不安障害に関する考察

「自己」という言葉を見てまず私が連想した言葉は「自己愛」というものである。なぜこの言葉が頭の中に浮かび上がったのかすぐわかった。私の愛読書の中にフランソワ・ド・ラ・ロシュフコーの『箴言集』というものがある。その本は主に人間の自己愛について強烈なニヒリズムをもって筆者が考察した断言とその考察が記述されている。筆者は十七世紀の激動のフランスを生き抜いた名門家の公爵でありモラリストである。彼は政争に負けて隠居生活を余儀なくされパリのサロンでジェンセニストと交流する中でモラリスト文学史者としてその名を現在まで残している。人間のエゴをその鋭い洞察とユーモアによってあらわにした箴言集は、神というものから独立し始めた近代人の抱える自己愛の宿命を見事に打ち抜いており現代人の私の心を深くえぐるような形相であった。
 私は数年前から自律神経失調症という状態でそれに伴う抑うつ的な気分や不眠症に悩まされてきた。その根幹にあるのが認知の歪みだと思っている。その認知の歪みの原因が自己愛だと箴言集を読んで確信したのである。これは私という個体の一例に過ぎないが、こうした抑うつ的な症状に悩んでいる人は現代多くいる。厚生労働省が発表している「精神疾患を有するそう患者の推移」(https://www.mhlw.go.jp/kokoro/speciality/data.html)ではH14年の258・4万人から右肩上がりに一般的に精神疾患を抱えていると言われる人の数は増えておりH29には419.3万人となっている。これは統合失調症や認知症などの遺伝性の病気や歳を重ねると発病しやすい病気を除いた、うつ病や不安障害でも増加しているのである。どうして精神疾患が増えてきたのか原因について現代の社会と関連づけて論じるのも良いと思ったのだが、今回は自己関係について考察しながらこうした不安に対する処方として何か解決の糸口を探るようなものを書いていきたい。
 ここではフーコーが提唱した「自己の配慮」を踏まえて自分なりの考えを述べる。
現代人の生き方は古代ヘレニズムのそれに表層は多少違えども近接してきているように思う。つまり、コスモポリス的な共同体に縛られないような個人主義的な生き方が、現代の国などに縛られない世界市民的な個人主義的思想が似つかわしいということでる。もっともこうした現象はグローバリズムの影響を多く受けている人に限られる。そうした現代の思想を支えているのが画一化される言語とインターネットという、場所と各個人に囚われない世界の出現であろう。自由主義経済を進めたために経済のグローバル化が進みその副作用として英語やフランス語、ポルトガル語などのメジャーな言語が多国籍の人々のコミュニケーションを可能にして思想をも画一化しているように思う。また最近の流行として人種や国などで人を差別してはならないという哲学が個人主義を加速させている。似たように画一化された世界の到来を経験した紀元前1〜2世紀の人々を対象に分析したフーコーの考察が現代にも代入できるのではないかと考えたのである。
 自己の配慮とはいったい何なのであろうか。自己の配慮とは単に抽象的な態度をさしているのではなく、人の生活の中の具体的生活の中にも見出されるということを授業で学んだ。時間というものに着目すれば、自分にとって自己に配慮する時間は午前中にしたようがいいのか午後にしたほうがいいのか、または余暇にしたほうがいいのかあるいは引退後かなど人が生涯を通じて課されるものだったのである。また時間のあいだの適度な運動や節度のある欲望の充足、読書、食事、瞑想、友人や親との会話、書簡のやり取りに渡るまで細部の動作に配慮する必要がある。こうした活動は個人の中で完結するものではなく他社との間でなされる社会的な実践であった。こうした社会との関わりは現代ではより多方面に多角的に複雑化しているので、より一層自己への配慮の需要が高まっているのではないだろうか。古代ギリシアでは「自己の配慮」が若者への啓蒙として説かれていたが、古代ローマにおいては哲学が「心の診療所」とみなされ「自己の配慮」が病気の個人を治療するために説かれた。これも現代に生じている現象と似つかわしい。最近では心理学や哲学の効用が認められ自分を認識する手法としてそういった学問がよく使われている。書店の心理学、自己啓発関連の書籍のブースの大きさがそれを物語っている。一旦神の手に委ねられた「自己の配慮」の問題が再び哲学の元へと帰ってきたのである。
 「自己の配慮」はほとんどの場合、「自己の認識」と共にある。フーコーが「試練の手続き」と呼んでいるものが例として挙げられる。将来に起きうる様々な困難を先取りして、それを自らに課すという手法である。それを行うことで、自分が生活する上で何が必要で何が余分なのかを自覚して、その必要最低限のもので満足して、独立自存を築き上げる。セネカはその実践として「架空の貧困生活」を推奨しているが、これは私たち現代人も簡単に実践できるのではないだろうか。例えばスマートフォンを日中は触らないようにしてインターネットから自分を遠ざけて自分の心理に生じる変化を観察してみると、どれだけ自分がインターネットに依存しているのか認識し必要最低限に調節できよう。こうした「自己の配慮」に関連した自己認識を語る上では「思考の思考」をあげなければならないだろう。「思考の思考」とは恒常的な表象の選別管理である。これは自己に対して取るべき恒常的な態度のことである。心理学では認知の癖のことを指す。私の場合この態度に歪みがありそれが不安障害などを引き起こしている。「思考の思考」で重要なのはその表象が自己自身に依存するものなのか、自分の管轄に属するものなのか見極めることである。自己の自由になるものだけを思考に迎え入れて、自由にならないものについては考えても仕方ないので、思考から排除される必要がある。これは現在に流行している禅的な思想にも見られる考え方だ。これを見極めるのにも「試練の手続き」におけるセネカの助言を適応できるのではないだろうか。ある思考について自分が良い影響を受けているのか否かについて見極めたいとき、一旦他の思考を考えてみて元の思考からでてしまい、時間を置いて両者を比較検討してみると自己自身に依存しているのかまたは自己の管轄に属するものなのか認識することができる。つまり自分に合う方を見極めることができ必要最低限で最適なものを選択することが出来る。これは認知の矯正を自分で行う一つの例となろう。
 私は「自己の配慮」を実践する際、必ず自己愛がその障壁になると思う。箴言集の中で「自己愛の国では、すでにどれほど多くのことが発見されているとしても、まだまだ多くの未知の土地が残されている。」とあるように自己愛は際限なく自身に湧いて出てくるものである。自分を自分で愛するあまりに今まで間違いの選択をとったり、自分の能力に自惚れて堕落してそれに失望してしまったりしてきた。人間の本性として自己愛を享受してしまうのもいいのだが私は批判的な態度をとっている。その表象をどう理解して自分に関わらせるのかも「自己の配慮」の一環として行われるべきであろう。もはや外的な事柄のうちにではなくただ自分自身へ意識を向け自分の幸福を自己の内に求められるべきだと思う。つまり自己への立ち返りを目標に、自己の配慮がなされることで私のように不安障害を抱える人が救われるのではないか。

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