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一文字短編集

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#超短編

甘

あまーい人生に蓋をしたい。足を突っ込んだらとろっとした、ちょっと溶けてざらざらした砂糖がくっついてくるような、そんな人生に。別に不満があるわけじゃない。

不満がないことにマオは不満なのだ。

思えば、飛行船から抜け出して空を真っ逆さまに滑り落ちるあの子に憧れたのが始まりだった。狙われているものを身につけていて、何かから逃げるのも、誰かと戦うその姿にも、ドキドキする。はやる鼓動が忘れられない。

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間

ねーえ、あのね、何か話したいことがあるわけではないの。でもただ、話がしたいだけなの。寒いね、とか、お腹空いたね、とか、あ、あそこに猫がいるよ、とか。そんな、手に届く、目に見えるようなことを。どうでもいいことを、しゃべっていたいの。

ねーえ、あのね、何か伝えたいことがあって書くわけではないの。ただ、文字が見ていたいだけなの。何かを見ていたいだけなの。天国は雲の上のどのへんにあるんだろうとか、来世に

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風

生きているかぎり生きねばならない、ということに気付いたのは、396年と6日生き終わったあとだった。そのとき私は油でじゅうじゅう挙げたオールドファッションをかじっていて、その欠片が膝の上に落ちたのだった。何人もの人が、私の横を通り過ぎていった。コロッケやのおじさん、大福やのおばさん。生きることは前に進むんじゃない。ただ、風が立ったんだ、あのとき。

路

今流行りの、細かいストラップがついたサンダル。その紐を、ゆっくりと指に絡ませながらほどいて、右足を線路の上にのせる。同じく、左足。月の光に照らされた線路は固く冷たく光っていて、ひんやりとした空気が私の足を踏んづける。そう、この日のためにとっておきの、真っ白でふわふわしたコットン生地のワンピースを着てきたの。細かい花柄があちこちにくりぬかれていて、月の光がそこを通って過去に行く。私は両手をのばし、バ

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雪

舌の上で溶けた雪が熱かった。むくむくした煙が立ち込めている鉄板の上にそっと置いた牛肉が溶けるのを3年ほど前に彼と一緒に見たのをマナミは思い出す。おもいはきっと溶けないと思っていたのにいつの間にか時間のうちに砂と化した。雪は溶けた瞬間は熱くてもその後はじんわりとほどけてゆく。嬉しいはいつまでも嬉しいじゃいられないし悲しいは悲しいではなくなる。後に残るのは雪の中に混じった塩くらい。よおく味わいなさいと

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瞬

プラグを差し込むその一瞬、稲妻が走った。目に鮮やかすぎる、この光。手をのばしても絶対に届かない、その光。普段は黒色にくるまれている、あの光。見えたと思って手を伸ばすころにはもう遥か何億光年も先にある、もの。

飴

これからの人生は余生なんだ、とマナミは二十歳のときに思う。20年間特に命に関する物理的な危険も精神的な危機も訪れず、生きてこられたのだから。かつて大人になる前にこの世を去る子どもがたくさんいただなんて、今ではあんまり想像できないけれど、でも今の状況の方が長い歴史で見ると「イレギュラー」なのかもしれない。16歳のときになくなったカンザキくんの机が、なぜ自分のではなかったのか、マナミは二十歳になっても

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罪

たましいの矛先を間違えたのかもしれない。きっとわたしは間違った時間に、間違った仕方で、間違った人のシャツに火をつけてしまったのだ。お母さんにも小学校の担任の先生にも夫のナオキさんにも4歳のケンちゃんにも隣のウエキさんにも「アナタは間違えた」と言われたようなものだから。でももう一度1年前のあの日の午後に戻ってもわたしは同じ時間に同じ仕方で同じ人のシャツを燃やしてしまうだろう。そこにはひとかけらの真実

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丈

そうねえと言ってマナミは言葉をすぼめた。真っ白い人差し指と少し赤くなった親指で髪の毛をそっと摘み上げる。くる、くる、くる。くる、くる、くる。きっちりしてるからマナミの髪の毛を回転させる速度はきっと秒速3センチメートル。

くるくる回る指だから私はそっと目を閉じる。くるくる回る水槽の鯉。毎朝玄関でその姿見てたのにどんな模様をしていたのか思い出せない。スカートの長さが3センチ短いんじゃないかって悩んで

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栞

決めた、決めた、決めたんだ。あなたにお手紙書いてみようって。

あなたの話はね、いつも途切れ途切れにしか聞いたことないの。

でもあの家の二階に帰るとね、そこにいつもあなたの栞。

聞けるわけないじゃない。でもみんなあなたのこと、覚えてる。

あなたと話してみたかった。同時に、あなたのこと、どこかで怖かった。

だから、ね。あなたにお手紙書いてみる。あなただったら、何て答えるだろうって、思いながら

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蜜

はちみつみたいにとろとろしたあの午後の2時をわたしは愛した。太陽は高くその位置を保っていて、その太陽が沈むまでわたしたちは特にすることもなかった。人もバスも飛行機も行き交う場所なのにそのとろとろした午後の2時の中では急いでるものなんてありはしないのだ。

満たされたお腹にとろとろしたキャラメルタルトを放り込む。フォークからこぼれた欠片がスタイベックの朝食のページに落ちた。さっと本を縦にしてその欠片

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朝

今朝みた夢の、残り香がした。私は慌てて緑の色鉛筆で線を引く。隣では昨夜から開きっぱなしの本が少しよれよれになって横たわっていた。朝が来た。私は萎れたままのチューリップをコップから抜き取って、二つに折る。その時花びらが三枚足に落ちる。枯れた花は本当に花びらを散らしてしまうんだと妙に感心してしまう。太陽はすでに背後にいた。雲は一つも見当たらなかった。

爪

嫌いというあの感情をもったのは一体いつ以来だろう。きっと小学一年生の教室で隣の席のナカタくんに当時お気に入りだった桃色のクレパスを折られた時だ、とマナミは結論づけた。口の中がひりひりする。ごまかすために水を飲んでみたものの痛みは悪化する一方だった。それほどまでに憎らしかった。その白い指の深爪、が。

檎

りんごの皮を剥きながら消えてしまったままのあのひとのことを想う。あのひとでなければなかった理由なんてりんごを100個剥いたってわからなかった。するする剥けたりんごの皮がゆっくり積もる。そこに横たわるのは非情なまでの偶然だった。私にできるのはあのひとの分までりんごを剥くことだった。それが私にとっての生きることなのだから。