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一文字短編集

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柑

四等分してそのうちのひとつを食べて残りを積み重ねてラップして放置してあった食パンのラップを一枚また一枚とぺりぺりとはがして夏はマーマレードを塗って食べた。キッチンスツールのネジが取れているからかぎいぎいといった音が鳴る、誰かの首をノコギリで切っているみたいだと思う。

今朝パン屋でもらったマーマレードジャムはゼリーみたいにぷるんとしていて、夏は余った残りをバターナイフで掬い上げ手のひらに塗ってから

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郭

「はーい、もっと大きく開けてください」

そう言われたのでサトコはもう限界、というところまで口を開いた。タオルで覆われているので何も見えず、キーンとかウィーンという音だけが耳のそばで響いている。

視界は覆われ、仰向けに寝転がって、口を大きく開いているなんて、なんて無防備なんだろうといつもいつも思う。歯医者さんってどういう人がなるんだろうか。はぐきの根元から歯が生え、舌がせわしなく動きまわり、喉奥

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涙

「好きなときに、泣きんさい」

そういってくれたのは、唯一祖母だけだった。しわくちゃの、かさかさした手をほっぺにあてて、涙を拭ってくれたっけ。

子どものころはひどく泣き虫で、悲しいときはもちろん、悔しいときも、怒ったときも、嬉しいときも、少しでも感情が動いていたら泣いていた。もちろん当時はそんなことなんてわからなかったので、自分がなんで泣いているのかわからずに、涙を流すことの方が多く、お母さんや

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撒

死んだらタヒチに撒いてね。

サヤカがそう言ったとき、とっさに僕はうんと返事をしたけれど、頭のなかにうかんだことといえば、タヒチってどこだっけ。

アイフォンを片手で開いてグーグルマップを押す。タヒチ、と入力すると案の定島が出てくる。でも、どこかわからない。二本のゆびで懸命に縮小すると、やっとメキシコとアメリカが出てきた。経路、を押すと何も出てこなかった。

そりゃ、そうか。

タヒチに行ったこと

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壁

僕は11歳になるまで、「壁」というものを見たことがなかった。

というのも、家にある壁はすべて本棚で覆われていたからだ。天井までのびる本棚は、父と母の本でぎっしり埋め尽くされていた。窓はどこにもなく、天井までもが本棚に侵食されていた。逆さまになって今にも落ちてきそうな天井の本の背表紙を読み取ろうと、子どものころの僕はよく背伸びをしたものだ。

母はいつも、天井まである本棚のどこからか本を一冊取り出

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甘

あまーい人生に蓋をしたい。足を突っ込んだらとろっとした、ちょっと溶けてざらざらした砂糖がくっついてくるような、そんな人生に。別に不満があるわけじゃない。

不満がないことにマオは不満なのだ。

思えば、飛行船から抜け出して空を真っ逆さまに滑り落ちるあの子に憧れたのが始まりだった。狙われているものを身につけていて、何かから逃げるのも、誰かと戦うその姿にも、ドキドキする。はやる鼓動が忘れられない。

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月

月がひんやりする帰り道を歩きながら、マナミはいつか自分の身体がこの世を離れていく姿をありありと思い浮かべることができた。身体がなくなれば、いま自分を自分だと思っているマナミの意識も消える。高崎くんと別れたあとののどにひっかかったままの石ころも、あゆみちゃんとカフェでねばって3時間ドリンク一杯で過ごした笑い声も、メガネまで脂ぎっているような面接官の微笑みも、ぜんぶ消える。

この先どうなるんだろうと

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間

ねーえ、あのね、何か話したいことがあるわけではないの。でもただ、話がしたいだけなの。寒いね、とか、お腹空いたね、とか、あ、あそこに猫がいるよ、とか。そんな、手に届く、目に見えるようなことを。どうでもいいことを、しゃべっていたいの。

ねーえ、あのね、何か伝えたいことがあって書くわけではないの。ただ、文字が見ていたいだけなの。何かを見ていたいだけなの。天国は雲の上のどのへんにあるんだろうとか、来世に

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風

生きているかぎり生きねばならない、ということに気付いたのは、396年と6日生き終わったあとだった。そのとき私は油でじゅうじゅう挙げたオールドファッションをかじっていて、その欠片が膝の上に落ちたのだった。何人もの人が、私の横を通り過ぎていった。コロッケやのおじさん、大福やのおばさん。生きることは前に進むんじゃない。ただ、風が立ったんだ、あのとき。

路

今流行りの、細かいストラップがついたサンダル。その紐を、ゆっくりと指に絡ませながらほどいて、右足を線路の上にのせる。同じく、左足。月の光に照らされた線路は固く冷たく光っていて、ひんやりとした空気が私の足を踏んづける。そう、この日のためにとっておきの、真っ白でふわふわしたコットン生地のワンピースを着てきたの。細かい花柄があちこちにくりぬかれていて、月の光がそこを通って過去に行く。私は両手をのばし、バ

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雪

舌の上で溶けた雪が熱かった。むくむくした煙が立ち込めている鉄板の上にそっと置いた牛肉が溶けるのを3年ほど前に彼と一緒に見たのをマナミは思い出す。おもいはきっと溶けないと思っていたのにいつの間にか時間のうちに砂と化した。雪は溶けた瞬間は熱くてもその後はじんわりとほどけてゆく。嬉しいはいつまでも嬉しいじゃいられないし悲しいは悲しいではなくなる。後に残るのは雪の中に混じった塩くらい。よおく味わいなさいと

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瞬

プラグを差し込むその一瞬、稲妻が走った。目に鮮やかすぎる、この光。手をのばしても絶対に届かない、その光。普段は黒色にくるまれている、あの光。見えたと思って手を伸ばすころにはもう遥か何億光年も先にある、もの。

飴

これからの人生は余生なんだ、とマナミは二十歳のときに思う。20年間特に命に関する物理的な危険も精神的な危機も訪れず、生きてこられたのだから。かつて大人になる前にこの世を去る子どもがたくさんいただなんて、今ではあんまり想像できないけれど、でも今の状況の方が長い歴史で見ると「イレギュラー」なのかもしれない。16歳のときになくなったカンザキくんの机が、なぜ自分のではなかったのか、マナミは二十歳になっても

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罪

たましいの矛先を間違えたのかもしれない。きっとわたしは間違った時間に、間違った仕方で、間違った人のシャツに火をつけてしまったのだ。お母さんにも小学校の担任の先生にも夫のナオキさんにも4歳のケンちゃんにも隣のウエキさんにも「アナタは間違えた」と言われたようなものだから。でももう一度1年前のあの日の午後に戻ってもわたしは同じ時間に同じ仕方で同じ人のシャツを燃やしてしまうだろう。そこにはひとかけらの真実

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