見出し画像

自分が虐待されてたことに気がついた話


1. 虐待にも色々ある

幼い頃から何かに挑戦しようとすると「あんたには無理」と否定され、失敗すると「だから言ったのに」と言われることが多かった。
私には4つ離れた兄がいるが、兄はテニスや私立中学受験など選択肢を与えられ、自らの意志でひとつひとつ選ぶことができていた。
私も私立の女子進学校への外部受験を望んだが「女だから」「あんたにその学費は勿体ない」という理由で認められなかった。

「外部受験」と書いたとおり、国立の小学校に通っていたため、中高は連絡入試を受け世間から「お兄ちゃんに負けない良くできた妹」という目で見られることになった。

世間は私が虐待を受けていたなんて思いもしないだろう。
兄と分け隔てなく扱われ、勉強も出来る、理想的な家庭だと思われていたのだと思う。
実際に私も虐待されているとは思ってもいなかった。
ただ母が私のために選択肢を選んでくれているのだと思っていた。

2. 母との二人暮し

両親の仲は物心がついた頃には既に悪く、父は単身赴任で週末も帰ってこない事も多々あった。
兄が東京の大学に進学した中学2年の春、母と私の二人暮しがはじまった。

その年から家での生活は大きく変わった。

まず御飯を作ってくれることが極端に減った。
炊きたてのご飯は無く、おかずも値引きシールがはられたスーパーのお惣菜を母と分け合うだけとなった。
朝ごはんも用意されないことが多く、学校へ行くまでの道で弁当を食べたこともあった。
(世間体のため、弁当は毎日持たされていた。)

次に学校へ持って行く弁当の中身が変わった。
弁当用の冷凍食品すら買わなくなり、前日の晩御飯の残り(スーパーのお惣菜)が入るようになった。

最後に家に帰ってこなくなった。
兄の大学受験が終わり、子育てが一段落ついたと思ったのだろうか、兄のママ友や高校時代の友人と飲み歩くようになり、帰宅時間は夜10時を回ることもあった。

母は露骨に私を嫌うようになった。
お小遣いも母の気分でしか渡されないにも関わらず、長期休暇の期間は数週間単位で食事が用意されないことが毎回だった。
そのくせ、近くのスーパーやコンビニでパンやおにぎりを買うことも許されず、財布に入れたままのレシートを見られて寝ている時に殴られたりもした。

3. それでも母が好きだった

お腹が空いた上に真夏に飲み物も飲めず、クーラーもつけさせてもらえず、シャワーを浴びることが出来ない日もあった。
生きることが辛かった。

それでも当時の私は母を憎んではいなかった。
私自身が悪いと、私に非があるのだと心の底から思っていた。
私が兄みたいになれないから悪いと思っていた。
進学校を受験せず内部進学に逃げ、「大したことない学校」でも学年トップを取れないことが原因だと考えていた。
内部進学しか選択肢を与えなかったのは誰でもない母なのに。

4. 紆余曲折あった大学受験

両親の不仲は私の進路希望にも大きく影響した。
母が私たち兄妹の前で父をこき下ろす際に使う台詞たちの中でも、最も私の価値観に根付いた第一位は
「給料が少ない」

父の名誉のために補足すると、インフラ系の大企業で人並み
に出世した人だ。
家のローンを支払い、子どもたちに小学校受験をさせ、母は専業主婦をしていた。
はっきり言って、母が父にそんな台詞を(しかも子どもの前で)言う資格はない。

しかしすっかり母親に洗脳されていた私は「お金がないからダメ」「稼げる職業に就かなければ」と考え、医学部を第一希望に掲げていた。

高校1年生の冬、私は母から唐突に大学受験の条件を出された。

・進学する大学は国公立に限る
・私立は入学金も払わないから受けるだけ無駄
・文系に転向しても私立は行っても無駄
・理系の私立なんて元取れないし授業料払いたくない
・東大以外で下宿はさせない
・浪人はさせない

要は現役で地元の国公立大学に入るか東大に入るかの二択しかないということ。
ご存知の方も多いとは思うが、大抵の場合滑り止めで私立大学を複数受験するものだが、許されなかった。

落ちればフリーターとして働くしかない。
しかも医学部は難易度が高く、現役合格率は他の学部と比較して低い。
お金を稼げなければ、父のようになってしまう。

私は医学部を諦めた。
そんな大きなリスクを背負って戦えるほど強くはなかったのだ。
高卒フリーターよりは文系でも大学を出た方が「稼げる」と考えたのだ。

母は私の決断に不服だったようで、言葉の暴力がはじまった。
「出来損ないを持った私の身にもなれ」
「産まなきゃよかった」
「お前が死ねばよかったのに」(交通事故のニュースを見ながら)
などといった言葉を毎日毎日浴びせられた。
包丁を突きつけられたり、テレビのリモコンを投げられたりもした。

高校3年の夏。
全国模試の当日の朝だった。
私は過呼吸をおこし、足に力が入らなくなり、外に出ることが怖くなった。

その数週間後、知人が病院に連れて行ってくれ「パニック障害」と診断された。
病院から薬とともに渡されたのは「虐待相談窓口」と書かれた1枚の紙だった。

5. 欠けていたピースを握りしめていたことに気付いたような気持ちだった

兄と離れて暮らすようになってから、いやもっと前から私は心のどこかで「おかしい」と思っていたはずだった。

母の顔にあるシワの動きから、母親の欲しがっている言葉を口にするのが幼稚園からの私の役割だった。
そうすれば家族はうまくいっていた。

正直、母の機嫌を損ねても飄々としている兄が羨ましかった。
けれど、どうして顔の動きを読もうとしないんだろうと不思議で仕方がなかった。
今ならわかる。それは子どもが担う役割ではないからだ。

走馬灯のようにありとあらゆる過去のワンシーンが再生され、もらった紙は涙と握力でクシャクシャになってしまった。

私は兄に助けを求め、大学受験よりも自活することを優先させることにした。
この時、はじめて母に憎しみを抱いた。

6. 卒業とその後

結果を言うと、高卒フリーターの道は教師と母の手によって閉ざされた。

虐待児だと自覚した時にはすっかり忘れていたのだが、母は何よりも世間体を気にする人間だった。
母は何らかの形で私が精神科に通っていることを知り、担任の教師に被害者ヅラで相談をしていたという。

高校3年の12月
私は担任の教師から放課後に呼び出しを受けた。
「今年、受験しないって本当? お母さんがすごく心配している。あなたなら現役で今からでもそこそこの大学、受かるよ。」

現役での進学を諦め、躁うつ状態でバイトで卒業後の家賃、家具家電の費用を貯めていた頃だったのできっぱり断った。

しばらく後に父が「大学の費用は心配しなくていいから」と家庭から逃げていた事に対する謝罪とともに伝えてきた。
これがとても大きな転機となった。

大学受験の条件も母の独断だったことがわかったのだ。
父は母に子育てを任せきりにしているという後ろめたさがあり、口出しして子どもたちを混乱させたく無かった、という言い分も何となく理解できた。

そして本当に「そこそこの私立大学」を受験し、合格。進学を決めた。
(センター試験は受けたものの、国公立大学の対策をしていなかった&バイトをしたかったので結果的に私大のみ受験)

7. さいごに

高校の同級生のうち何人かが来春から研修医として働くという。
もし私が高校1年の冬、医学部を諦めようとしている自分に会えたなら奨学金制度と返済プランについて知識をつけさせるだろう。
もし医学以外の分野に興味を持ったとしてもその知識はきっと役に立つ。

私は未だに理不尽な母の条件に屈した自分を受け入れられないでいる。
実力を出しきらず、妥協してしまったことが何よりも口惜しい。

精神的な虐待はニュースにならない。
だから虐待されていることに気付かないケースが山ほどあるのではないかと思う。
私も他の虐待児も過去に植え付けられた価値観に苦しめられ、選べなかった過去を悔やむことを一生続けるのだろう。

自分の思う道を歩くことができても深く、癒えることのない大きな傷を抱えていることに変わりはない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?