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信長の基礎を作った父と傅役

先日、谷俊彦さんの記事で、信長の傅役もりやく平手政秀ひらてまさひでゆかりの名所を訪ねて、彼への思いを馳せておられました。

彼の死の謎や信長との関りについて触れておられるのを読み、私自身もこの平手政秀にはかねてから様々な妄想を巡らせていたので、再度、考えさせられる機会を与えていただいたのです。

名古屋市にある綿わた神社」に政秀が奉納した自らの手彫り狛犬があったそうです。

金で買ったモノを奉納したわけでなく、「奇行・粗暴の平癒」を祈りながら齢六十過ぎた政秀自ら彫ったとは! 鑿のみに槌つちを振るっている情景などは、「諌死」自体より、鬼気迫るものを感じます。

上記記事より引用

そこから感じた政秀の思いを深く考察され、信長は「うつけ」だったのかと疑問を投げかけられています。

そこは私もずっと引っかかっていた事で、今に伝わる定説通りだったと思えないのです。

平手が手彫りしてまで願掛けしたのは、信長の奇行を憂いてのことだったのでしょうか?

信長という人格形成には、彼は必ず深く関わっていると思います。

今後、「どうする家康」でも家康に深く関わってくる織田信長という人間は、どのようにして出来上がったのか、私なりの勝手な妄想を記していきたいと思います。



政秀を抜擢した父・信秀とは

下層の織田家

信長の家は「織田弾正忠家だんじょうのちゅうけ」という「清州織田氏」に仕える「清州三奉行」のひとつにすぎませんでした。

いわば、一族の中では家臣筋にあたる下級武士の家柄なのです。

「応仁の乱」以降、同じ一族の「岩倉織田氏」との覇権争いが始まっていました。

盤石な経済基盤を作る

伊勢湾を臨む津島湊と熱田湊を掌握して貿易することで、下級の家柄でありながら、どの織田氏よりも、潤沢な資金を確保していました。

まるで織田氏の中の成金ですね。

今も当時も統治するためには「金」が全て。
信秀はその経済力で思い存分戦うことができたのです。


巧みな外交力

信秀はその金を有効的に利用します。

例えば以下のように献金したと記録にあります。
・伊勢神宮遷宮のため700貫(約1億5百万円)
・皇居の修繕費として4,000貫(約6億円)

もちろん、朝廷へも莫大な献金をし、当時の13代将軍・足利義輝にも謁見し、朝廷から「三河守みかわのかみ」という国司にまで任命されたのです。

信秀は圧倒的経済力を手に入れることで地位を上げ、本家の清州織田氏やかつての守護・斯波氏を凌ぐほどの急成長ぶりを見せたのです。


大きなピンチの最中に死去

・1544年:加納口の戦い
斎藤道三の稲葉山城攻めで、反撃を受け大敗。

・1548年第2次小豆坂の戦い
今川方の太原雪斎に大敗。

斎藤道三や今川義元に大手をかけられた上、織田一族や家臣の裏切りなどもある最中、
1552年に42歳で病死してしまいます。

破竹の勢いだった信秀は、まさしく絶対絶命の危機を迎えていた時でした。


傅役もりやく平手政秀ひらてまさひで

前半生は不明

平手政秀の生まれは明応元年(1492)年で、その前半生については史料が乏しく、いつ織田家に仕えたのかは不明なのです。

信長の父である織田信秀より10歳以上も年上であることを考えると、彼を見出したのはもう一代前の信長の祖父・織田信定だった可能性も考えられます。


戦国時代の傅役もりやくとは

天文3年(1534)に信長が誕生すると同時に、政秀は織田家の宿老と同時に嫡男である信長の傅役もりやくという重責も担っています。

そもそも傅役とは?
「傅役」の「もり」は「かしずく」と読み、大切に面倒を見るという基本的な意味があります。

親や親代わりの者が、子を大切に養い育てること。後見として大切に世話をやくこと。庇護者として手厚い保護を加えること。愛護。

コトバンク

しかし群雄割拠ぐんゆうかっきょの戦国の世において、ただ可愛がるだけの子守役ではありません。

主君の嫡男を教育するという事は、お家の将来をも左右する一族全員のことに関わり、実の親以上に重い役割でした。

将来の家の存続をかけて、学識ある優秀な家臣にわが子を託す必要があり、人間として、武将として、申し分ない教育を与えられる者でないと務まりません。

平手政秀は、抜け目のない織田信秀が嫡男の傅役として選んだ優秀な人間だったのです。


しかし、信長の父・信秀が病死した翌年1553年、家中がまだ騒然とする中、自刃して果ててしまうのです。


政秀が自刃した理由

主君が没して、これから自分が慈しみ育てた信長の一番肝心な時に、政秀はどうして自ら命を絶ったのか?

考えられる定説として残る理由は以下の通りです。

1悲観説
信長の奇行を憂い、将来を悲観し、自身の死をもって諌めた。

2家臣同士の対立説
家督相続に関して弟・信行につく重臣たちとの対立。

3不仲説
政秀の長男・五郎右衛門が、信長に自分の馬を所望されたが断ったことを信長が不快に思い、不仲になった。

4番目として「暗殺説」もあり

ドラマや歴史小説では、美談として都合の良い「1悲観説」が多いようですが、私はそうは思えません。

どうにもモヤモヤしていたら、石井あゆみ著の「信長協奏曲コンチェルト」ではこんな設定になっていました。

織田家への仕官を希望した今川の間者・田原伝二郎(後の羽柴秀吉)の正体を見抜き不採用とするが、そのために暗殺されてしまう(彼の名誉を尊重して諫死したことになった)。

Wikipedia

これだ!

たかがマンガで、現代人がタイムスリップして信長として戦国を過ごすというとんでもない話とはいえ、敵対している勢力により暗殺された可能性はあるのでは?

ここでの政秀は頭がキレッキレで、信長の奇行を心配しながらも、良き理解者でもあります。

尾張を調略しようとする敵対勢力から見たら、いつも信長の側で目を光らせている政秀は、「目の上のたんこぶ」ではなかったか?

この時期は、外的な敵だけではなく、同じ織田一族の内にも敵がいて、誰に暗殺されても不思議ではない状態でした。




父と傅役の資質を受け継いだ

経済政策、軍事・知略に長けた父・織田信秀。
高い教養と慧眼の持ち主だった傅役・平手政秀。

この二人は、信長の人格形成に深く関わっている。

重臣でさえも見限るほどの信長の「うつけ」ぶりは、内外の敵を欺くための信秀と政秀が仕掛けた戦略だったのではないか?


「うつけ」はカモフラージュ

「うつけ」とは、中身がない空っぽという意味で、その言動には何も意図がなく、ただのバカだと言うこと。


このことに関して、第二次世界大戦の敗戦の教訓の一例として過去に拙書で力説したことがあります。

小さな織田家が、周りの大国を相手に生き残っていくためには、味方から欺く必要がありました。
利発であれば、暗殺されてしまう可能性も高まり、「うつけ」を隠れ蓑にしておけば、内からも外からもノーマークとなるからです。

奥の枝道 其の二「大阪編」

信秀には、同じ母を持つ信行をはじめ、側室たちに産ませた多くの男子の中には長子の信広もいます。

にもかかわらず、家臣たちも反対する中、どうして信長を嫡男と定めたか?

信長の資質を見抜いて幼い頃より嫡子と定め、「うつけ」を装わせて敵も味方も欺きながら、陰では跡継ぎとして相応しいあらゆる教育を与えていたのではないか。


織田弾正忠家だんじょうのちゅうけの独特な教育方針

だからこそ信秀は、深い教養と自分の意図を最もくみ取れる政秀に嫡男を託したのだと考えます。

~利発さを表に出すことはご法度~

これが弾正忠家における信長養育の絶対条件だったはずです。

幼いころから、
不良たちと野山を駆け回ったのも、
父の葬儀で抹香を位牌に投げつけたのも、
奇抜で汚ない服装も、
作法を無視した言動も、

全て二人の指示のもと、すべての敵対勢力を欺くためのものだったと見ています。


平手政秀にもっと着目すべき

1983年の滝田栄主演の大河「徳川家康」では戸浦六宏とうらろっこうさんがが演じておられました。

悲観説を取っていて、
「じい、なぜ死んだ!」と信長(役所広司)が泣くシーンもありました。

なのに、今年の「どうする家康」ではカケラも登場させなくてどうする??

2020年の「麒麟が来る」では、政秀(上杉祥三)だけでなく、信秀(高橋克典)も信長の理解者ではありませんでした。

有名作家による歴史小説でも、美談の「悲観説」が多いのです。

私はそんなはずはないと思っています。


冒頭の綿神社での手掘りの狛犬に込めて政秀が祈願したことは、決して信長の奇行癖が治るようにではなく、立派な戦国武将としての成長だったと思うのです。

むしろそうなることを楽しみにしていたはず。

だからこそ、「桶狭間の戦い」をこの二人に見てほしかったと心から残念に思わずにはいられません。


昨年、レキジョークルで名古屋へ紀行しましたが、また行きたくなりました。
今度は綿神社にもぜひ立ち寄りたいものです。



※記事中の役者名は敬称を略しています。


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【参考文献】
織田信秀の歴史
戦国ヒストリー
奥の枝道 其の二 大阪編

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