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【東洋のシンドラー】杉原千畝の生涯

みなさんは、ナチス・ドイツによって迫害された多くのユダヤ人を救い、「東洋のシンドラー」と呼ばれた外交官、杉原千畝をご存知でしょうか?

杉原は、第二次世界大戦中、赴任先のリトアニアにおいて、ナチスの迫害から逃れてきたユダヤ人に独断でビザを発給し、多くの命を救いました。

今回は、戦時中でありながら人道主義に基づき自らの正義を貫いた外交官・杉原千畝の生涯を解説します。

【生い立ち】

杉原は1900年(明治33年)、現在の岐阜県美濃市に生まれました。

父が税務署に勤めていた関係で転勤が多く、各地を転々とする幼少期を過ごします。

1912年、尋常小学校を優秀な成績で卒業し、旧制愛知県立第五中学校に入学しました。

卒業後、将来は英語教師になることを目指していた杉原は、1918年(大正7年)に早稲田大学高等師範部英語科(現:早稲田大学教育学部英語英文学科)に入学します。

ただ、杉原の父は、杉原に医師になって欲しいと思っていました。

しかし、杉原がそれに反して英語教師を志したため、仕送りを満足にもらえませんでした。

生活が苦しくなった杉原は、公費で勉強ができる外交官留学生試験の存在を知り、図書館にこもって勉強に励みます。

猛勉強の末試験に合格した杉原は、早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生となりました。

ロシア語研修生となった杉原は、官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学びました。

ハルビン

そして、1924年(大正13年)に外務省書記生として採用された杉原は、外交官としての一歩を踏み出すこととなります。

【リトアニア赴任】

流暢なロシア語を操る杉原は、若くして外務省内で頭角を現します。

1932年(昭和7年)に満州国の建国が宣言されると、ハルビンの日本総領事館にいた杉原は満洲国外交部に出向しました。

出典:杉原千畝記念館  https://www.town.yaotsu.lg.jp/6916.htm

関東軍のやり方に疑問を持った杉原は、1935年(昭和10年)、満洲国外交部を退官します。

1937年(昭和12年)、杉原はソ連の日本大使館に赴任する予定でしたが、ソ連側がペルソナ・ノン・グラータを発動したため、フィンランドの日本公使館に赴任することとなりました。

ペルソナ・ノン・グラータとは、相手国が外交官の入国を拒否する措置で、「好ましからざる人物」を意味します。

ソ連が杉原を警戒していたことがわかります。

フィンランドのヘルシンキに勤務した杉原は、1939年(昭和14年)、リトアニアの在カウナス日本領事館に領事代理として赴任しました。

このリトアニアで、杉原は後の人生を変える大きな出来事に直面します。

【ホロコーストとユダヤ人】

杉原がリトアニアに着任した直後の1939年(昭和14年)9月、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発しました。

さらに、独ソ不可侵条約の秘密議定書によりソ連もポーランドに侵攻しました。

1933年にナチスが政権を獲得したドイツでは、反ユダヤ主義が国是となり、様々な「ユダヤ人排斥運動」が展開されていました。

アドルフ・ヒトラー(出典:ドイツ連邦公文書館 https://www.bild.bundesarchiv.de/dba/de/search/?query=Bild+183-S33882)

最終的に、ナチスのホロコースト(民族の大量虐殺)によって、当時ヨーロッパにいたユダヤ人の3分の2にあたる約600万人が命を落としたと言われています。

出典:ドイツ連邦公文書館  https://www.bild.bundesarchiv.de/dba/de/search/?query=Bild+183-N0827-318

ナチス・ドイツに占領された当時のポーランドでは、ヨーロッパ最大級のユダヤ系社会が形成されていました。

しかし、ナチスによる迫害が始まったために多くのユダヤ人がリトアニアへ逃れました。

また、ナチス・ドイツはポーランドのみならず、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ルクセンブルク、フランスなどに次々侵攻しました。

各地で多数の避難民が発生しましたが、戦争という緊迫した状況により、避難民の脱出ルートには限りがありました。

数少ない脱出ルートの1つに、シベリア経由で日本に渡り、そこから第三国を目指す、というものがありました。

杉原はリトアニアに着任して早々、このような切迫した状況に直面したのです。

【命のビザ】

杉原が勤務した在カウナス日本領事館には、日本通過ビザを得るためにユダヤ人が殺到しました。

当時の日本の外国人入国令では、日本通過ビザの発給には「パスポートの所持、行先国の入国許可、十分な旅費の所持」が主たる要件となっていました。

しかし、ビザを求めてやってきた避難民はいずれの要件も充たしていない者がほとんどでした。

対応に窮した杉原は、2度に渡り、本国の外務省に通過ビザ発給の可否に関する電報を送っています。

ただ、本省はあくまで規則を優先し、資格を持たないユダヤ人へのビザ発給許可を出すことはありませんでした。

杉原は、外交官としての服務規律と人命救助の間で葛藤することになります。

しかし、最終的には独自の判断により、要件を満たしていない避難民に対してもビザを大量に発給しました。

杉原千畝が作成した通過ビザ

ビザの発給を受けた避難民はシベリア経由で日本へ渡り、そこからアメリカ大陸などに渡ってホロコーストを逃れました。

この時の様子について杉原の手記には、こう書かれています。

「苦慮、煩悶の揚句、私はついに、人道、博愛精神第一という結論を得た。
そして私は、何も恐るることなく、職を賭して忠実にこれを実行し了えたと、今も確信している」

大量のビザを手書きすることとなった杉原は、一日が終わるとぐったり疲れてそのままベッドに倒れ込み、動かなくなった腕を夫人にマッサージしてもらう生活を送ったと言われています。

1940年(昭和45年)7月に親ソ政権が誕生し、ソ連の影響下に入ったリトアニアでは、ソ連の要請により各国の公館が次々と閉館させられていました。

日本領事館が閉館されるまでの間、杉原は寝る間も惜しんでビザの発給を続けました。

領事館が閉鎖され、ベルリン行きの汽車に乗った杉原は、車窓から手渡しされたビザを汽車が発車するまで書き続けました。

汽車が走り出すと杉原は、「許して下さい、私にはもう書けない。みなさんのご無事を祈っています」と頭を下げたと言われています。

杉原が1か月で発給したビザは2000通を超えました。

【戦後の杉原】

第二次世界大戦後、日本に引きあげた杉原は、独断でビザを発給したことによる責任として外務省から辞職勧告を受けました。

47歳で退官した杉原は、職を転々として糊口をしのいでいました。

1968年(昭和43年)8月、一人の男が杉原のもとに現れました。

その男は、杉原の「命のビザ」によって迫害から逃れ、イスラエル大使館に勤務するニシュリというユダヤ人参事官でした。

ニシュリはボロボロになった当時のビザを手にし、涙をこぼしながら「ミスター・スギハラ、私たちはあなたのことを忘れたことはありません」と杉原に感謝の言葉を述べました。

ビザによって命を救われたユダヤ人たちは、戦後、恩人である杉原をずっと探していました。

1969年(昭和44年)には、同じく杉原から「命のビザ」の発給を受けたイスラエルの宗教大臣・バルハフティクと面会しました。

杉原とバルハフティク(出典:杉原千畝記念館  https://www.town.yaotsu.lg.jp/6934.htm)

当時の杉原が独断でビザの発給を行ったと知ったバルハフティクは驚愕し、後のインタビューでこのように述べました。
「日本政府の許可なしであったことを私たちが知ったのは、1969年に杉原氏とイスラエルで再会した時である。杉原氏が訓命に背いてまで、ビザを出し続けてくれたなんてことは、再会するまで考えられなかったので、とても驚いたことを覚えている。杉原氏の免官は疑問である。日本政府がすばらしい方に対して何もしていないことに疑問を感じる」

そして1985年(昭和60年)、多くのユダヤ人を救った功績により、日本人初で唯一となる「ヤド・バシェム賞(諸国民の中の正義の人)」を受賞しました。

イスラエルのホロコースト追悼記念館「ヤド・ヴァシェム」前庭(© Yoshi Canopus https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Chiune_Sugihara%27s_Plaque_at_Yad_Vashem,_Jerusalem.jpg)

受賞の翌年、杉原は鎌倉にて86歳で生涯を閉じました。

杉原の死から10年以上経った2000年(平成12年)、日本政府によって公式に杉原の名誉回復が行われました。

外交史料館には、「勇気ある人道的行為を行った外交官杉原千畝氏を讃えて」と記された顕彰プレートが設置されています。

【東洋のシンドラー】

多くのユダヤ人の命を救った杉原は「東洋のシンドラー」と呼ばれるようになりました。

「シンドラー」とは、第二次世界大戦末期に多くのユダヤ人を救った実業家、オスカー・シンドラーのことです。

オスカー・シンドラー

シンドラーは、ナチス占領下のポーランドにおいて、自ら経営する軍需工場にユダヤ人を雇い、身柄を保護した人物です。

シンドラーによって救われたユダヤ人は1200人にのぼるとされ、ユダヤ人労働者の保護を申請するために作成したリストは「シンドラーのリスト」と呼ばれています。

杉原の行った行為は、このシンドラーになぞらえて「東洋のシンドラー」と呼ばれるようになりました。

ユダヤ人へのビザ発給は日本以外の領事館でも行われましたが、それらのなかには、発給の際に高額な代金を要求したり、決して人道的とは言えないビザ発給の実態がありました。

そんななか、本国に背いて力の限りビザを発給し続け、ユダヤ人を救おうとした杉原の姿は、高い評価を受けています。

2004年(平成16年)、リトアニアでは杉原の記念切手が発行されました。

リトアニアと日本の首脳が会談した際には、杉原の話題が上がることも少なくありません。

2016年(平成28年)には、杉原の没後30年を記念してイスラエルに「スギハラチウネ通り」が造られました。

外交官・杉原千畝は、この世を去ってもなお日本外交に貢献し続けています。

以上、本国に背く覚悟で多くの命を救い、自らの人道主義を貫いた外交官・杉原千畝の生涯を解説しました。

YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇


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