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村上龍『限りなく透明に近いブルー』(講談社文庫)

 村上龍が「限りなく透明に近いブルー」で第十九回群像新人文学賞(後に第七十五回芥川賞も)を取ったのは1976年。同年の「群像」6月号に同作が掲載された。家に同誌があったため、当時中学生の私は少し読み始めてみたが、これはどうももう少し大人になってから読んだ方がいいと思って、途中でやめた。登場人物の一人が葉脈標本を作った、と語るあたりまで読んだ記憶がある。この度、ついに通読。ずいぶん大人になってしまってからの通読だ。
 当時はこの性風俗と大胆な性描写、あるいは暴力やドラッグの描写が話題になったのだろうが、今読むと内容も文体もそれほどセンセーショナルではない。47年前の作品なのだから当たり前だが。したがって延々と続く性とドラッグの場面にかなり飽きる。扇情的というよりグロい感じがするのも、食傷気味になる一つの要素だった。しかし、基地の米人兵と乱交する主人公たちに、上の世代の戦争の影があることが、この小説が近代小説の系譜にあることの証左のように思った。

〈留置場でさあ、と脱脂綿をちぎりながら僕に話しかける。
「留置場でさあ、ずっと切れてただろ?恐い夢見ちゃってなあ、もう思い出せないけど俺の一番上の兄貴が出てきたんだよ。俺は四男だから、兄貴は知らないんだ。兄貴はオロクで戦死したからな、会ったことないんだけど、兄貴の写真もなくて仏壇に親父の描いた下手な絵があるだけなんだけどさ、その兄貴が夢に出てきたんだ、不思議だろ?変だよな」〉

〈もういいのよ、リュウ、もうたくさんだよ。レイ子は小さな声で言い、道の脇に植えられたポプラの葉を一枚ちぎった。
「ねえ?この細い線みたいの何て言うんだったっけ、これよ、リュウ、知ってる?」
半分にちぎれた葉は埃で汚れていた。
「葉脈じゃないのか?」
「あ、そう葉脈だ、レイ子、中学で生物部だったのよ、それでこれの標本作ったんだ。名前は忘れたけど薬品につけるとさあ、これだけ白く残ってあとの葉っぱは溶けちゃうのよ、きれいにこの葉脈だけ残るの」
(…)
「(…)レイ子、リュウに見せてやりたいなあ」
「何を?」
「標本よ、これの、いろいろな葉っぱを集めたのよ、(…)これ葉脈標本やってさ、先生から褒められたよ、賞もらって鹿児島まで行ったんだから、まだ机の引き出しに持ってるのよ、大事にしてるの、見せたいなあ」〉

〈「ドアーズの”水晶の船”昔演(や)っただろ?
あれ今聞くと涙出るな、あのピアノ聞くとまるで自分が弾いてるような気分になってさ、たまらなくなるよ。もうすぐ何聞いてもたまらなくなるようになるかも知れないな、みんななつかしいだけになってさ。もう俺はいやだよ、リュウはどうするんだ?もうすぐお互いにはたちになるんだからなあ、メグみたいになるのはいやだよ、メグみたいな奴をみるのももうごめんだな」
「またシューマン弾くのか?」
「そんなことはないさ、でもこんな汚ならしい生活とはもうおさらばしたいよ、何をしていいのかなんてわからないけどな」〉

〈肝臓を悪くして死んだ友達を思い出す。そいつがいつも言ってたこと。ああ俺は思うけど本当はいつも痛いんだ痛くない時だってただ忘れてるだけなんだ、痛いってことを忘れてるだけさ俺の腹におできできてるってそのせいじゃないよ、誰だっていつも痛いのさ。だからキリキリ痛みだすと何だか安心するね、自分に戻った感じでつらいけど、安心するんだ俺は。生まれた時からずっと腹が痛かったからなあ。〉
 
(解説 今井裕康
〈私、および私の行為はどのようにも意味づけられていない。私とは一個の眼であり、また感覚の塊にすぎないからである。ただ、全的に見ること全的に感じることによってのみ私は根拠づけられている。この、感覚を全開にした受動性は、近代から現代へいたる日本文学のもっとも中心的な主題である〈私〉意識の解体を、文体そのものにおいて、みごとに定着してみせたのである。ジャーナリズムの喧噪はこの重要な事実を見落としたままに過ぎていったといわなければならない。〉)日本文学の〈私〉意識というのはもちろん、短歌にも共通することだ。小説に関しては70年代のこの村上の作品が解体の一つのきっかけであったのかもしれない。もちろん、複数要素が絡み合ってのことと思われるが。

講談社文庫 1978.12. 定価230円(本体223円)


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