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エッセイ

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My Hometown

My Hometown

それは恐ろしい停滞だった。失われた三十年など問題にならない停滞だった。

変わらず広い道路を走る車が一変した。国産車、とりわけ電気自動車の姿が目立ち、トヨタやホンダはまばら、BMWやベンツはさらに少なく、土煙色の街に似合わぬオレンジ色のマセラティは一台だけだった。バスもほとんどすべて電動化され、なにより電動スクーターが、ここは東南アジアかと思われほどに増え、車道だろうと歩道だろうと、我が物顔で縦横

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旧暦卯年の元日に記す

旧暦卯年の元日に記す

旧暦のお正月を迎えるまでの数日間は、去年一年間を遡っても、指折りの散々な時間だった。

コロナに罹り、熱を出していたからだ。

それもかなりの高熱だった。コロナワクチンを打つたびに熱を出していたときは、いざというときに症状が軽くなるならこれくらい我慢我慢と自分に言い聞かせていたのだが、軽いどころか、39度台が二日間続き、完全に平熱になるまで四日もかかった。それでも、これが軽くなった方だという可能性

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十一年続けた仕事にピリオドを打つことをめぐるいくつかの断章

十一年続けた仕事にピリオドを打つことをめぐるいくつかの断章

一、
2022年10月26日、いやが上にもアラフォーを意識せざるを得なくなった誕生日から数日後、ぼくは十年と11ヶ月通い続けたとある仕事先を離れた。車に乗り込みエンジンを入れると、玉露を口に含んだような爽やかん気分が、エンジンサウンドとともに四肢を駆け巡った。もうここに来なくていい、もうあんな耳を濯ぎたくなるような文言を訳さなくてもいい、もう日頃の意地悪さが眉間に固着した非人間的な顔と睨めっこしな

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「きのう何食べた」を見て、幸せに浸る

「きのう何食べた」を見て、幸せに浸る

ぼくの今日の晩御飯は、炊き込みご飯だった。『きのう何食べた?』のシロさんが作っていたあれだ。

炊き込みご飯のレシピは何度も見たことあるが、実際に作ったのは1回しかなかった。それなのに、シロさんとケンジに出会ってからというもの、今月だけでもう2回も作っている。多分、これからも2週間に一回くらい作るだろう。簡単で、おいしくて、そしてそれを食べてケンジ同様に、「おいちい〜」と目を輝かせる妻を見るのが、

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百済観音

百済観音

その像を前にしたとき、ぼくは久しぶりに目を見張り、瞬きせずにいつまでも眺め、隅々まで脳裏に焼き付けたいと思った。

像はおよそぼくがイメージする仏像らしくない曲線を描いていた。光背からつま先まで幾度もうねりながら、背筋を真っすぐ伸ばした姿よりも遥かに安定感に富んでいた。水瓶を下げた左手にも全く力を込めておらず、水瓶を持っているというより、瓶の口の反りが指と指の間にひっかかり、摩擦力でかろうじてつな

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山河令を巡る騒動と救い難い中国のネットナショナリズム

山河令を巡る騒動と救い難い中国のネットナショナリズム

今年上半期、中国で最もヒットしたドラマは何かと聞かれれば、10人が10人迷わず武侠ドラマの「山河令」と答えるだろう。私は見ていないが、つい先日日本でも放送が開始したこのドラマはいわゆる「ブロマンス」モノで(注1)、男性同士のアツい関係を取り上げている。主役を演じた龔俊と張哲瀚は、いずれもこのドラマに出演するまでは大人気に程遠い俳優だったが、今やイベントに呼べば警察が出動する騒ぎ、CMに起用すればど

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