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【雑感】動機ってなんだ?

石を積む動機って?

 本記事トップ画像の河原にある石積み。誰が?何のために?とか考えると、途端につまらなくなる
 風ぐらいでは崩れないだろうけど、ちょっと流れが速くなったり、流れの方向が変わったりすれば、あっという間に崩れてしまうだろう。人間をはじめ動物がそばを通ったりしても、ましてや意図をもって崩そうと思えば、やはりあっという間だ。
 だからなのか、こんなに単純な造形物が奇跡のように見えてしまう。あり得ないものを具現化したかのようなインパクト。山道だか野原だか林だかの道を歩いて、開けた河原に出たと思ったら、結構な高さに積まれた石が。そんな光景に出会ったら私だったら「うおおお〜」と叫んでしまうと思う。奇跡と単純な中にある複雑な美しさに、たちまち魅入ってしまう。もし連れがいたら「しっ声が大きいんだから」と注意されること必至だ。「ホント単純なんだから」そんな声にならない声が聞こえてきそうだ。

不思議さに丸ごと対峙する

 そんな態度が相応しいと思う。この河原の石積みに出会い、共にいる、とはそういうことだろうと思う。
 ま、実際には誰かが結構な時間をかけて、この石積みを造った。石積みにはコツがいるらしい。熟練技。でもやっぱり、そんな知識は不要なのだ。この石積みと共にいるためには。

石を積む動機。何だろう?人によるんだろうけど。やっぱり「積みたいから積む」とか「そこに石があるから積む」になるんだろうか?それが自然な気がする。「人を驚かせたい」とか「あっと言わせたい」とか、なんか不純な気がしちゃう。私だけ??
 こうした石積みは熟練技が必要と言ったけど、そうじゃない。頭空っぽにして集中すること。手も目も皮膚感覚も、場合によっては聴覚も総動員して石のバランスに集中する。雑念が飛んでいく。どこかが静まり返り、どこかが澄み渡る。石積みってそういう体験なのでは⁉︎そう。ある種の空っぽ体験。ある種の瞑想体験。ある種のプチ悟り体験だ。
 それが、この河原という場に石積みという奇跡を出現させる。静かにたたずみ人を驚かせる。少しだけユーモラスな神の顕現。誰も傷つけない神。むしろ楽しい気分にさせる神。そんな言葉が相応しくないだろうか?

デモなどに参加する動機

私の場合

 ここ何週間かにわたって、デモに参加したり、講演会に出かけたり、パブコメしたり。外に働きかけたり、外から情報を吸収したり、をやってみた。内面ではなく外に重きを置いた活動。
 そして出会う、というほどでもなくて、何人かの人と話す機会があったのだけど…。みな感じのよい、さっぱりとした人たちばかりで、なかなか身近な人たちとはできない共通の話題で盛り上がって、お話しできてうれしかったのだけど…。

「こんなことしてて、なんか変わるんでしょうかねぇ」

と、おっしゃるわけですよ。そりゃ、無理もない。きっと2万人規模のデモをしても、20万人弱のパブコメが集まっても、マスコミはダンマリ。政権与党は数に任せて国会審議もせずに閣議決定程度でお茶を濁して通してしまうんでしょう。あるいはWHOは枠組条約化して白紙委任状を出させる形にするのかもしれない(詳しくは天之まめさんとかこーじさんとか我那覇真子さんのnoteを見てくださいませ)(あるいはこちらのデモThe Real Anthony Fauci 人類を裏切った男予告(上)(中)(下)の記事などご覧ください)。
 私にははっきりと、

孫の孫のそのまた孫の世代、7世代先、200年後の日本列島に住む日本人たちに恥じぬように。誇れるように

という動機がある。事態が動かなくても、ね。やり続けることが重要だし、知ることが重要だと思ってる。んー。それがなければ、何のために生まれてきたんだろう?と思う。なぜ?と問われると、今は「なぜでも」としか応えられない。

怒りが動機では疲れちゃうし続かない、のでは?

 「日本人よ、もっと怒りましょう。こんな草刈り場にされて、好き放題されてていいの?」という識者もいる。そういう識者にあおられて乗せられちゃう人たち。それから実際に身近な人に理解してもらおうとガンバって、でも全然理解してもらえなくて、燃え尽きちゃったり、怒っちゃったりしている人たち。
その人たちが悪いわけでは、ない。怒りが悪いわけでも、ない。識者に乗せられちゃうことですら、一概にイケナイとは言い難いと思う。煽る識者も悪いわけでは、ない。そういうきっかけだって、有り得る。煽り、煽られもね。それにこういう活動には、何がしかの怒りはつきものだと思うし。怒りかなければ、多分、立ち上がる必要も、ない。怒りがなければ「必要ないものを押し付けられている」「理不尽なことがなされている」と気づくことすらできない、とも思う。
 古代シナの王様は吊るした肝を舐めて「敵をやっつける!」という怒りの炎を燃やし続けた、という。
 だけど、多分、現代日本人に「怒りを燃やし続けろ」と言っても無理なんだよ。そんなこと疲れちゃうし楽しくない。あっというまに燃え尽きちゃう
 じゃあ、無気力になってうつになるの?あるいは、何もせずに、やられるままにするの?
 それも違うよね。
 「じゃあ、どうすればいいのよっ」ってなる。
 事態を動かしたいのに、動かない。動かそうと努力しても、その努力が報われない。その無力感たるや。まして理解を得られない相手が身近な人であれば。

今自分がやることを(粛々と淡々と)やる

 きっとこれに尽きるんだと思う。今自分がやることを(粛々と淡々と)やる
Lizzyさんとやまと経営者連盟 古賀真さんの対談動画で、Lizzyさんが、私と同じように、「子どもや孫の世代に…」と言いかけたら、「ボクはそれも違うと思うんだよね」と。「今自分がやることを積み重ねていくだけだ」と。「自分の役割、自分のお役目を(引き受けて)していく」。(私による要約なので文言などの違いはご容赦願います)。
 なるほどね〜。そうかもね。
 彼はもう一つね、「仲間とつながる」ってことを言っていた。それもきっと大事なこと。楽しいこともある。あるいは楽しいことの中に包含されている活動。あるいは「祭り」のなかに包含されている活動。まつりごと祭りごと。誰かが、多分YouTuberのTOLANDVLOGサム氏が言っていたのだけれど記紀(=日本の神話)にある『スサノオの狼藉』。その「スサノオの狼藉という戦いを収めたのは、結局はアメノウズメの踊り=祭りだった」。それってヒントになりませんかね?遠くの遠くにあるヒントかもしれないけれど。縄文的なヒントになっていたりしないだろうか?
ゆっくりと温めるような気持ちで持っていれば、そして待っていれば、いつかどこかでひらいていく。そんなヒント。

 今は、はっきりと見えていないけど、あるいは自分が満足するほどにはっきりしていないけど。あるいは「自分の役目」なんてものがはっきりする時が来るんだろうか?
 ま、わかんないけど。

 「みんなが自分の役割をそれぞれ果たして、それがそのまま大調和」なのだ、と。

 いや〜、その通りだと思う。それは、彼だから、とか、彼の組織だから、とかじゃなくて、ある種の真理なんだと思う。それが縄文に通じるのだと。悟りとはそういうプロセスをることもある、と。あるいはある側面から見れば、それが悟りそのものである、と。
 こういう感覚って、多分日本人なら誰でも持っていて、多分日本語をしゃべらない人たちには分かりづらいんじゃないかなぁ、と推測してる。そして、わからない人にはこういう感覚自体が怖いんじゃないかな?と、これも推測する。「みんなが自分の役割をそれぞれ果たして、それがそのまま大調和」は、自分がなくなってしまうようで怖い。いやむしろ鋭敏になるんだけどね。個人として。全てが削ぎ落とされていく、そして気がつくと深い安心感。そういう感覚。悟りの1フェーズ。一側面。
 「仲間とつながる」はね、ここでnoteをゆるゆる書いているので。今のところはそれで十分。つながっている、とも、そうでない、とも言えるような、言えないような、そんな感じ。それで、今は十分なんだ。

 そんな気がしている。

(もちろん、記事を読んでくださったり、スキやコメントなど関わってくださっていることには感謝しています。ありがとうございます)。

あ、河原の石には

 無理やり戻らなくていいの。不思議は不思議のまま。置いておきましょう。今日はそんな気分。



おまけ:さらに見識を広げたり知識を深めたい方のために

ちょっと検索して気持ちに引っかかったものを載せてみます。
私もまだ読んでいない本もありますが、もしお役に立つようであればご参考までに。



下記2冊とも読んでいませんが、ヒントになるような気がしています。

下記も、ちょっと遠い??けど、ヒントになる?かも。


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