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■素敵な彼女に甘えっぱなしの日々


高校時代におつきあいしていた彼女がいました。同級生でしたが、彼女はずっと大人で、私が何をしても受け入れてくれる、許してくれる女性です。私は両親のしつけが厳しく、高校でもイケていない男子高校生でしたので、彼女にはずっと甘えっぱなしで、彼女のことは心のよりどころにしていました。そして彼女は現役で大学生になっていたのですが、私は一浪。それも私にとってはつらいことです。翌年には大学に合格することができましたが、私が受かったのは石川県にある地方医科大学。神奈川の横浜に住む彼女とは遠距離恋愛をすることになりました。遠距離恋愛になってからは、彼女が大学とバイトの合間をぬって、私にわざわざ会いに地方まで来てくれていました。

彼女は見た目も綺麗ですし、気立てもいい。どうしてこんなに素敵な女性が私と付き合ってくれるのだろうかといつも思っていました。だから、いつ捨てられても不思議ではないと思っていたので、私は彼女のやさしさに甘えて、どんどん嫌な自分になっていったのを覚えています。

「君も忙しいならそんなにこんな遠くまで来なくていいよ」
「うーん。でもまた来るからね。じゃあ連絡するね」

私の本心は、またすぐにでも来てほしい気持ちでいっぱいです。しかし、そんなことは格好悪くて言えません。それに「好き」とも言えません。そんなことを言えば、彼女を困らせることになるかもしれないからです。そう思ってはいるものの、彼女は私が何も言わなくても来てくれると信じていたので、急な都合で彼女が来られなくなった時に、私はつい意地悪なことを言ってしまいます。

「やっぱり遠距離恋愛って難しいよね?」

でも本当はそんなことを言いたいのではありません。私は、彼女に会いたくて会いたくて仕方がないのですから。ただ、急にこれなくなって、会えなくなって、寂しかったということを、伝えたかったのですが、大学生の私にはそんな言葉は言えません。そして、実際に会えない日々が続くと、この恋の終わりばかりを考えてしまうようになっていました。

■長い夏休みの後の結論


私の大学は金沢医科大学です。2人の地元の横浜からは、新横浜駅から米原駅まで東海道新幹線そこから北陸本線に乗り換えるか、東京駅から上越新幹線で長岡駅まで行き在来線で金沢駅まで行くか、上野駅から寝台列車で金沢駅まで行くか、上野駅から夜行バスといったルートがありました。夜行バスだと6時間から9時間かかることもあります。大学生ですので、新幹線にしょっちゅう乗るお金もなく、最終的に私も彼女も夜行バスを選びました。お金があれば、羽田空港から小松空港に飛行機で行く手段もありますが、そのルートを遣えるはずもありません。

大学1年生の夏。私は地元で、彼女とこれまでで一番一緒にいたと思います。だから夏休みの終わりが近づくにつれて、松田聖子の「赤いスィートピー」の歌詞のように、彼女が時計を見ていると泣きそうな気分になっていました。結局、夏休みの楽しさからの落差が大きすぎたのか、私は夏休みが終わった後は、ちょっとしたことで涙するような状態になってしまったのです。

全然楽しくない毎日……。いろいろ考え、自分なりの結論として、彼女のためにも6年間は待たせられない。しかもこれからは、もっと会えなくなるだろうと思うと考えると、そんな状態を私が耐えられるとは思いません。その結果、秋に私がわがままを言って、一方的に彼女に別れを告げました。

いつもなんでも許してくれる彼女が、目の前で泣いて「絶対に認めない」と言って引き留めてくれたのですが、私たちは別れました。それからは全くの音信不通で5年間。必死で別れたのは正解だった、私のためにも彼女のためにも仕方がないことだったと言い聞かせて、毎日を過ごしていました。

■同窓会で再開した元彼女


私が研修医になった夏、高校の同窓会がありました。私は早々に出席すると言っていたので、彼女がそれを聞いてきっと出席しないだろうなと思っていました。

ところが彼女は出席していたのです。しかも、彼女は私を見るなり、話しかけてくれました。まるで、二人の間に何もなかったかのように。

「久しぶり」
「うん。久しぶり」
「研修医だっけ? お医者さんになったんだね。すごいね」
「うん。小児科になったんだ。子どもたちのヒーローになりたいんだ」

久しぶりの彼女は綺麗で優しく、しかも話をしていても楽しい。そのせいか、つい色々話していました。もちろん周りは、私たちがつきあったのも、別れたのも知っていたので、それには触れないように、距離を置きつつ見守ってくれていました。

「そうか。医師になって。小児科か……。ずっと夢を追いかけているんだね。すごいね」
「うん。ありがとう」
彼女は大学を卒業してからは、会社員として働いているそうでした。

私は、その時にはおつきあいしている別の彼女がいたのですが、目の前にいる別れた彼女に未練がないと言えば噓です。でも、5年ぶりの彼女に優しい言葉をかけられて、私は彼女にこそ認められたかったのだと気づきました。彼女の言葉、しぐさ。私を褒めてくれる彼女。まさに天にも昇る気持ちでした。医師になってよかった、頑張ってよかった。まさに『医師人生最良の日』でした。

■彼女の本心を知って


お酒も入って、いい思い出とともに金沢へと帰りました。それから、研修医を終えて医師になるときに、金沢でおつきあいしていた彼女と結婚。東京に出て、国立小児病院で勉強を始めたものの続かず、埼玉で大学医局に入るなど、時はあっという間に過ぎて、それから5年。私は35歳になっていました。

そんな同級生の結婚式に出席していた時のこと。私はキャリアも積み子どもも2人できていました。ようやく医師人生のレールが、この先も見えるようになってきている頃です。彼女も、同級生の結婚式に出席していたのです。また5年ぶりの再会です。

「今は埼玉で勤務しているんだ」
「そういや。病気しているんだってね。知らなかったよ。身体には気をつけてね」
「そうなんだ。無理はできないんだよ」
「知らなかったな」

私は大学2年生のときに1型糖尿病にかかってしまい、それからすっかり無理はきかない身体になっていたのですが、時期的に彼女には言っていません。音信不通になっていたころの話だったというのもあります。

それから結婚式も終わり、友人たちと帰る時、友人にこんなことを言われたのです。
「お前の元カノさぁ。別れたのがショックで結婚しない、もう誰ともつきあわないんだってさ」
「え? そんなこと一言も……」
「まっ。元カレのお前には言えないよな。でも知っておいた方がいいかなって思ってさ」
周りから聞けば、彼女は私に一方的にフラれた、そしてそのことが忘れられないと言っているそうなのでした。思い出してみれば、確かに彼女は絶対に認めないと言っていました……。

「でもお前さあ、医師になれればそれでいいわけ? 彼女を冷たくフッたのにさ」
そう告げて、友人は去っていきました。

まさしく『医師人生最悪の日』です。

■自分のふがいなさを思い知った日


彼女は私によって傷つけられたのです。しかし、今の私にはどうすることもできません。その傷を癒すこともできません。なぜなら私は既婚者だからです。彼女と再会をして、彼女から認められたと思って喜んでいたのに。私の前にいる彼女はいつも優しく、笑顔で話してくれていたのに。その裏で彼女は泣いていたのでしょう。

仕事が手につかないほど落ち込みました。何日も悩みましたが、私の出した結論は、もう一度彼女に会って話をすること。私が連絡をすると、彼女は応じてくれました。

私は友人から聞いたことを、言葉を選びながら話しました。すると彼女は、悲しそうな表情をして微笑んだのです。

「そうだね。別れたばっかりの時は落ち込んだよ。でもそれは、あなたも一緒でしょ? お互いに好き合っていたんだから。自分勝手だなとは思ったけどね」
「でも、こういう話ができて嬉しいよ。今も、あなたの中には私が、私の中にはあなたがいるという証拠だもんね」

お互いに黙っていては、何も伝わりません。だから言葉があるのです。それを、大学生だった私たちは、ちゃんとは理解していなかったということなのでしょう。一番伝えなければいけない言葉。その言葉を相手に伝えられなかった。だから、私たちは別れたのです。

「久しぶり会ったらさ、あなたってば昔と変わっていなくって。ふふ、また友だちから関係をやり直せたらなって思って声をかけちゃったよ。それに、あなたが頑張っている話を、他の友だちからも聞くんだけど、それも何か嬉しくって。私、別れても、あなたのことが好きだって思えるの。これってきっと、幸せなことだよね」

いまだに女心をちゃんとは理解できていない私には、彼女の本心はわかりません。でも確かなのは、大学生の頃、一方的に彼女に別れを告げ、勝手に心を閉ざした私がいたということ。そして、今現在、微笑みながらも涙を流している彼女がいること。

彼女は私のこと一番に考えてくれる人でした。そんな彼女と話ができて、私自身は彼女の思い出を人に話すことができるようになりました。でもきっと、あの話し合いの後は、彼女も私のことを人に話せるようになったのではないかと思います。

最後に流した涙。
あの涙は、私たちが私たちの思い出を過去にするためには必要だったもの。

そう感じるのです。

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