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ヤスヒコおじさん②

人生は色々なモノで出来ている

「一人の時間と広い世界」

つくづく父は脆い人だったと思う。
母が亡くなってしまった事に絶えられなかったのだ。割れた鏡が元に戻らないのと同じ様に父の心は砕け散ったままだったのかもしれない。

やがて父はその破片で傷を付けるかの様に些細な事で怒り、あり得ない暴言を吐くようになった。ちょっとでも気に入らないと無視をする。
お酒を飲んでは怒鳴り、暴力を振り物を投げるようになっていた。
お約束の様に女性関係にもだらしなくなっていく。商売をしていたので金回りが良かったようで簡単に言えばモテていたようだ。その反面「お父さんはお母さんを愛していたんだ。」と言う。
思春期真っ只中の私は叔母に「お父さんやだ~。本当に気持ち悪い。それに言っている事とやっている事が合ってないじゃん。」と陰口を叩いていた。

今の私は「気持ち悪い」と感じた言葉が父の本心であるのは分かっているつもりだ。何故なら結局父は誰とも再婚をしなかったし、亡くなるまで母の事を話していたのも事実なのだから。

更に私は父の歴代の彼女数人に意地悪をされたり嫌味を言われる。全く酷い話である。彼氏の娘と張り合うなんてとんでもない人だと呆れる。またなんでそういう事を平気でする人と付き合うのか心底理解が出来なかったし、内心馬鹿にもしていた。
こちらもやはり今なら察しがつく。
父は寂しい気持ちを埋めるために誰かが必要だったのだ。
必死のあまり冷静な判断力を何処か遠い地の果てに置いてきてしまったのだろう。ついでに娘である私の存在も薄くなってしまったのかもしれない。更には自分を振り返る事すらも出来なかったのだろう。
お陰様で私は夫が早くに急逝したにも関わらず「再婚」という二文字が全く頭に浮かぶ事はなかった。むしろ嫌悪感を覚えるのはこれらの出来事のせいだろうと踏んでいる。

父が一生懸命に女性の元へ通う間、私は一人で過ごしていた。

母が残した沢山の本をひたすら読む。
歴史物、推理小説、太平洋戦争やカンボジア内戦、ベトナム戦争の本も読んだ。絵本も図鑑も雑誌も家中にある本に毎朝届く新聞にも隅々まで目を通す。


多分中学3年生だった頃かもしれない。
私は母が亡くなった当初に父に買ってもらったオーディオセットでラジオを聞いていた。
ある日、偶然英語しか聞こえないラジオ局に出合う。
やがて日本語で何かを話すだろうと待ってみるがいつまで経っても英語のままだ。
時々テレビで聞いた事があるような外国の曲が流れたりもする。
良く分からないがスポーツ観戦の番組も流しているようだ。

これが私の「FEN(Far East Network)」(在日米軍向けの放送)との出会いである。(今は「AFN」と名前が変更されている)

このラジオ局との出会いは私を夢中にさせた。
一生懸命に知っている英単語を聞いて拾う。分からないと辞書で調べてみる。訳が分からないのに真似て喋ったり歌ったりしていた。
母が亡くなり成績は下がる一方だったが英語だけは回復傾向を見せた。
そして英語の問題集だけは解くのがとても楽しかった。
洋楽にどんどんはまりレンタルレコード店に頻繁に通うにもなる。

高校は父の反対を押し切って東京の都心にある女子高を選んだ。猛反対をする父を説得してくれたのはもちろん親戚一同である。
この高校の選択が大正解だったと私は今も思っているし、露骨に嫌な顔をしながらも高い学費を出してくれた父には感謝しかない。
神奈川の小さな田舎から片道2時間をかけて学校まで通う。
私は小さな世界から広い世界に飛び出した様な眼の前が開けたようなそんな気分だった。

懐かしいオーディオセット

その日は機嫌が良かったのだろうか。高校2年生のある日に父が母の妹一家が住む「タイ」に行こうと私に声をかけてきた。
何が何だか良く分からないが一緒に行く事にし、パスポートを受け取り父とバンコクへと飛び立つ。
人生初の飛行機と海外旅行。入国審査で私の英語が通じた時のあの感動、胸が高鳴ると表現したら良いのだろうか。簡単な単語ではあったが踊り出したい位に嬉しかったのを良く覚えている。
私は父のおかげでその後高校在籍中に2回、バンコクへと行く事が出来た。
高校にしろバンコク行きにしろ最終的には私の主張が通る事が多かったような気がする。父はどこかで私への後ろめたさと父なりの私への思いがあったのかもしれない。

バンコクのワット・ポー

私が20代前半頃までは父は威勢だけは良かった。
しかしなんだかんだとやらかしながらも徐々に大人しくなっていく。
でも最後まで壊れた鏡はそのまま放置されてしまったと私は思っている。


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