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無駄にこそ意味はある

林伸次さんのこちらのnoteを読んだ。

「恋愛」って、豊かになって時間もたっぷりできた「人類」の「すごく高度な知的コミュニケーション」だと思います。

とのこと。わかる気もする。
でもこう、例えば源氏物語なんかで、その頃から男女は、いとをかし、的なことで、歌を詠み合って愛を伝えたりしてたわけでしょ?
大昔でも、そんな情緒面の成熟はあったのじゃないかなと思う。
源氏物語なんて、やたらと恋愛体質な人ばかりの印象あるし。

恐らく本能しかなかっただろう原始時代なんかに比べたら、もちろん平安時代なんてごく最近のことだし
貴族の時代は「退屈な時代」と言われるほどに平和な時代だったわけで。
つまり先ほどの林さんの言う「豊かで時間もたっぷりある人類」ではある。

文化や文学、芸術の類いは、世の中が安定していて平和で生活に余裕がある時代に発展しやすい。
恋愛もそのひとつなのかもしれない。
生殖は生活と直結しているが、恋愛はそうではないから。
(皮肉なもので恋愛と生殖は結びついてしまうけれど)

今の時代、若者の貧困問題なんかもあって、生活に余裕がないから恋愛なんてする気になれない、というのが正直なところなのかもしれない。
日々の生活に精一杯だと本を読んだり音楽を嗜んだり、趣味を楽しむ気になれないのと同じ。
余計なことをしている暇も、考えている暇もない、と。
「恋愛はコスパが悪い」なんて発想になるのは、その最たる例のような気がする。

恋愛、確かにいろんな意味で消耗するもの。
でもなぁ。悲しくない?人を好きにならないの。
無駄なんてないんだよ。
むしろ無駄にこそ意味があるんだよ

私が大学時代に在籍していた比較文化のゼミでは、近代日本文学を扱うことが多かった。
現在は作家としても活動している恩師であるゼミの教授は、私たちの卒業前、最後のゼミで、こんな話をしてくれた。

「私たちがやってきた文化や文学というのは、生活に直接関係はないもので、それがなければ生きていけないというものではない。
無駄と言われても仕方ないものかもしれない。
けれど、その無駄を大事にすることに意味がある、無駄があるからこそ、人生はおもしろい、そんなことを忘れないでほしい」

だいたいこんなようなお言葉だったと思う。(ザックリだけど…)

生きていて誰かと関わっていくなかで、ちょっとモヤモヤするときの気持ちとか、ちょっと通じ合えたときの嬉しい気持ちとか、そういう些細な感情も同じ。
そんなのない方が楽だし、ない方が単純明快だし、無駄な感情といえばそうなんだけど、でもそれこそが人間らしさだったりするじゃないか、と思うのだ。

生活に余裕がなくて現実は辛いことばかりだけど、そのなかでも人は恋をする、恋をする幸せがあってもいい、ということを描いたドラマがある。
坂元裕二脚本の「いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう」だ。

生い立ちも環境も辛いことばかりの若者が上京してきて、東京ではうまく馴染めず、でも懸命に生きているなかでの恋愛ドラマ。

親がいない、頼るものがない、お金がない、仕事はブラック、同僚ともうまくいかない。
つらみ×100で生きている男女が出会って、恋をして、苦しい現実のなかでもささやかな幸せを共有してゆく。互いのことを大事に思う。

結末はそこそこリアリティのある、それでいて救いはそれなりにある、という絶妙なラインだったと思う。
ほんのすこしでも光を持ち続けることのできるラストだったことは、視聴者としては救いだった。

こういうドラマも、現実の恋愛も、コスパでいったら最悪の一言なのは間違いない。
相手の言葉に一喜一憂したり、何時間も考え込んだのに結局行動には移さなかったり、小さなことにいちいち思い悩んだり、相手の何気ない態度に振り回されたり。

でもそういう、無駄な部分でこそ、他では味わうことのできない感情を体験することができる。
もちろん身体的な意味で「生きる」ために、生活に必要なことを重視するのは当然だけれど、精神的な意味で「生きてるなぁ」と思えるのって、そういう一見無駄な、でも心に刺さる、グッとくる感情があってこそ、なんじゃないかな。

ただただコスパのいい日々を生きるのがダメだってわけじゃない。
でも一回くらい、めちゃめちゃコスパの悪い恋に落ちてみるのも捨てたもんじゃないよ、と、オーバー30の主婦は、思うのです。

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