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文学と健康④~終わりに

テクノロジーと意識の変化


前回の記事で、私は長々と自分の体験を語りました。体験自体は、長い割にあんまり要約できなかったかもしれません。

要するに何がいいたいかというと、現代の日本の社会はものすごく医療が発達していますし、救急治療や命を守る医療が、(病気にもよりますが)かなり高い確率で成功してしまうということです。

その「人命優先」「安全優先」の方針は、実際に入院してしまうと、もう
医療スタッフの意識から徹底されているなと感じます。患者の意思などよりも、命や安全を守るほうが優先される傾向があると思います。三大疾病といわれているところだけでも、(「がん」はわからないけど)心臓や脳が詰まるのは部位の違いだけで、血管の問題であるのは変わらないので、変な話最悪、心臓にペースメーカーつけたりとか、生存率を上げる方法は確立してるんですよね。

もちろん事前説明がどのくらい丁寧かにもよりますが、いきなり倒れても、医療を受ける側である私たち患者側が、想像もつかないような方法で命は助かってしまうけど、極端な話、たとえば私の場合、50%詰まってる血管をもとに戻すとか、一度失った機能をとりかえすとかは全くできないです。

もう一度失ってしまったものは回復はできない。

腎臓がなくなったら腎臓がないまま、ペースメーカーを埋めたら埋めたままで、命は助かるけど、生活の質は確実には下がるんですよね。それが残酷なところかもしれません。

そういうふうに医療技術自体は進歩していますし、予防というか、そういうふうにならないように、生活の質を高めるノウハウもいろいろ蓄積はしていると思うんですが、なかなか個人個人の健康そのものへの興味関心を、一律に高めることはできません。

健康を「意識して気をつけている」人もいれば、「あまり関心がない」人もいるし、「むしろ不健康が好きな」人もいるというふうに、ほんと関心には様々なバリエーションがあるし、

寿命と生活の質についても、「長生きできればできるだけしたい」とか、「ほどほどでおだやかな生活がいい」とか、「短命でもいいから濃密な人生がいい」とか、好みも人の数だけあると思うんです。

でも、そういう関心や好みを無視してこの国の医療は無慈悲なほど平等なんです。

よくあるんですけど、自殺しようとして「いまの睡眠薬では死ねない」のを知らず、大量に服用した結果、救急車を呼ばれてしまい、思いもよらずごぼごぼと胃に管を入れられて、胃洗浄になるという話、聞いたことありますよね。すごい苦しいものらしいですが…。

死にたい人でも、長生きしたい人でも、こっちの意志なんて関係なく助けられてしまうのがいまの日本です。

わたしが祖母を看取ったときもそうでした。最悪自分自身の意識がなくなっても、家族の同意や要望さえあれば肋骨折れるまで人工呼吸はしてくれます。そのくらい「死なせないぞ」という意欲とか技術って上がってるんだなといまさらながら思います。

もう医師や看護師は、ぼくがどんな人間で、どんな個性があって、どういう希望があって、なんてこと当たり前ですがまったく考慮しないです。特に循環器内科なんて患者さんも多いですし、入れ代わり立ち代わり患者さんが入院して来るので、そんなこと把握してる暇ないですし...。医療従事者は仕事柄、まず命を助けることが優先になっちゃうんですよね。

(たまに輸血だめとか、宗教的な理由で、という人がいるのも事実ですが…)

技術がすっかり進歩しているのに、めったに行かないし、普段はあんまり見ないところだから、「いまどうなってるのか」なんてよっぽどの「医療オタク(そんなオタクがいるのか)」でもない限り把握してないと思います...。

ただ人間である都合上、「生きたくてももう生きれない」人もいるし、「死にたくても死ねない人」もいる、こういったミスマッチは必ず起こるので、不本意なことになってもいいように、ちょっと意識を変えるだけで、だいぶ「生き方への意識」って変わらないか? と思いました。

もちろん、いまの状況に「賛成」とか「反対」とか考え方はあると思います。

でも技術が進歩してたり、なんやかんやで日本は福祉が充実している国であることは否定はできない事実だと思います。

どちらが無慈悲か(技術や制度の違いについて)


たとえばこんな例もあります。昔ドキュメンタリーでみたのですが、カンボジアに救急車をはじめとした救急システムを日本人の元救急救命士が導入したという話。カンボジアは非常に交通事故が多いので、「助かる命も助からない」みたいな状況が続いていました。

(動画はいまもうないみたいですね...)

いまはどうなっているかわかりませんが、当然、日本人を中心とした救急スタッフは無料ですぐに現場に駆けつけます。バイク事故を起こして意識がなくなった青年を病院にすぐに搬送しました。

ところが病院に搬送されても、病院は何もしません。ぐたーっとしたまま横になっている青年をみているだけのスタッフが映し出されました。

「えっ」とそれをみていた私は面食らったのですが、その後の医療スタッフの質問に私はさらに愕然としたのを覚えています。

「この人、レントゲンをとったとして、レントゲン代を払える見込みはあるんですかね…」

え、そこーー! みたいな…。

実際、病院に運ぶまではできても、医療が受けられないケースがあるということに衝撃を受けてしまい、「日本では貧富の差などに関わらず、とりあえず助けようとするよなあ」と感じてしまいました。

でも、お金があるかどうかわからないと助けないってものすごくゲンキンな...。と思って唖然とした覚えがあります。(意識がなかったらわからないじゃん…。)

こういうスタンスもあります。どっちがいいなんてわからないですが、もうその場その場で私たちは現実がこうなっているというのを、認識して、ある程度受け入れていくしかないんだろうなあ、と感じます。

もちろん私のアプローチは、人に「健康は大事だよ」とか「死んだら自己責任」とか主張するものじゃないです。若いうちはそんな事考えないけど、「いつか自分にも必ずその瞬間が訪れる」ので、それがいつになっても後悔がないように、その後のことだけではなく、「助けられる可能性」とかいろいろ考えておいたほうがいいかな、ということかもしれません。

さて、この辺で健康について考えたこと、の概要はおしまいです。

あといろいろオプションと言うか、具体的な私の経験に基づいた健康法をいくつか。

「やめようとしてもなかなかやめられなかった煙草を、ぼくがやめた方法」

とか...。

「いまどんな生活してるの」

とか…

なんかあんまり「短歌」関係ないじゃないか、という声もあるかもしれないですが、そうなんです。わたし、実はもう歌人のフリをするのをそもそもやめました。

そのことについてもお話したいです。

というか、ちょっとプロフィールも変えますので、また、そのことも追ってお話します!

またどうぞよろしくです!!

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