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たとえば愛と呼ばれるものについて



人を“愛さなければならない”という幻想が、わたしの奥の方にモヤモヤと残っていたようで、たまたま見つけたある方の記事を読んで、堰を切ったように抑え込まれていたものが溢れ出した。

うれしくて、声をあげて泣いた。ものすごくスッキリした。

無意識に自分によくわからない縛りを設けて、責めてしまっているというのは、よくあること。

当たり前のようにまかり通っている、この世界で生きていくためのルールみたいなものに、自らはまり込もうとしている。

社会、そして家族という型の中に生きていると、時折、○○しなければならない、こうならなければならないという、よくわからないプレッシャーを感じてしまうことは、少なくない。

わたしは、流れる風景に迎えられ、自然の中に身を置くと、心底安堵する。

その安堵感は、涙となって込み上げ、自分の内側のエネルギーが広がっていくのを感じる。

これを人は、たとえば愛と呼んだりする。

愛は、内側から自然と湧き上がるもので、それは主張するものでも、固定されるものでもなく、特定の誰かと渡し合うだけのものでもなく、ただ循環している。

人にも出来事にも、変わらない固定された思いというものを、わたしは持ち続けることができない。ただ溢れてくる、その瞬間の純粋なものだけを感じていたいから、あとは流れるままがいい。

“愛してる”っていうのは、誰かに向けられる言葉として使われているのをよく見聞きするが、本来それはとても静かな在り方のようなものであって、研ぎ澄まされた感覚とともに、時空に広がっていく。

本当は誰かを愛する必要も愛される必要もない。

愛を行為にしてしまうと、愛さなければならない、愛されなければならない、愛せない、愛されない、になって、苦しみが生まれる。

それぞれが愛という名のエネルギー体であるという意識を持っているだけでよかったのに、いつから【行為】だけが切り取られてしまうようになったのだろう?

世間的によかれと言われる行為を“しなければならない”というプレッシャーが、わたしはいつも苦痛であり窮屈だった。

身体を別々に持っている人間である以上、愛の表現はさまざまだ。

それは、書くことだったり、奏でることだったり、描くことだったり、仕事やお金を通して表現されるものだったり、家族や恋人、あらゆる人間関係の中での交流だったり。

その中で、得意なこと、好みのカタチ、その時々で選んでやっていけばいいんじゃないかなって思う。

わたしは過去、仕事を通じて言葉やファッションで表現するのが好きだったし、今は絵を描いたり音を奏でたりするのが楽しい。

うれしい、悲しい、楽しい、心地よい、そんな素直な感覚でいられる瞬間、内から溢れる、たとえば愛と呼ばれるエネルギーを放射しているんだってことに気付いたら、カタチに対するこだわりもなくなる。


“愛してる”の感覚が湧き上がってきた瞬間、わたしはそばにいてくれるあなたに、すべてに、ただ感謝する。






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