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たとえば愛と呼ばれるもの、そのディティールについて


前回の記事より前に書いていたものを、詳細の記録として。


過去、誰かとお付き合いする時、大体いつも選べない感じがしていた。

存在感を持って、目の前に現れてくれた人と付き合う、みたいな。

選択の余地はない、ピンときてる、覚悟を決めなければ、的な。

めっちゃ好きで好きでたまらない、だから付き合う、とか、そんな甘いスタートなんて殆どなかった。

目の前に差し出されたものを受け取る。肚をくくりきれずに逃げたくなる。逃げても追っかけてくる。印象的な恋愛は、おおむねそんな感じだった。

だから、誤解を恐れずに言うなら、“愛してる”とか“あなただけ”って言う感覚がずっとよくわからなかった。

好きだし、夢中になる瞬間ももちろんたくさんある。でも、そういう時はやっぱりエゴ的で、溺れていて、冷静になると、あなただけを愛してるっていう気持ちが、やっぱりわからなくなった。

わたしは薄情なのかな?本当に人を好きになったことあるのかな?人のこと愛せないのかな?そんな風に自分を責めたり、相手に問い詰められたり、相手を責めたり、執着したり、されたり、思い返すと、問題の根本の原因、ぜんぶ “愛してるがわからない”ことからくるものだったのかもしれない。

でも、そもそも、個人対個人の狭い世界での愛してる風のやりとりは、わたしにとってはどこか窮屈で、虚構の世界みたいで、リアルではないように感じて、いつも逃げ出したくなっていたんじゃないかなって思う。


これは、後で気付いたことだけど、“愛してる”っていうのは、自分の意識状態を表す言葉であって、特定の誰かに対しての想いではなかった。

過去の記事でも書いたけど、

“愛してる”って、“愛、してます”ってことなんだよね。わたしにとっては。

“わたしは今、愛溢れてます”ってこと。自分の状態、在り方を宣言してるってこと。

だから、細かいようだけど、“あなたを愛してる”って言うのとは、微妙にニュアンスが違う。

誰かを、何かを、愛しいと思う瞬間はもちろんあるけれど、それは、わたしの内側が愛そのものとして、イキイキと存在してる瞬間だったり、相手から溢れる愛に触れた瞬間だったりする。ただただシンプルな循環の中に身を置けている瞬間なのかなって思う。

むしろ、そばにいてくれて、愛を表現させてくれて、触れさせてくれて、感じさせてくれて、共有してくれて、ありがとうっていう感謝の気持ちを、目の前の相手を通して体験させてもらえていること。気付かされること。共有することで悦びのエネルギーがふくらむ。それがうれしくて一緒にいる。でもそれも、方向性を間違えたら、苦しみにもなる。でも、そのカラクリ知るために、一緒にいる。一言で言うなら共同創造になるのかな。

そんな学びを携えて、何を警戒することなく、心をひらき、ただただ安心感の中で、純粋な愛を放流させられる場所。学びの場所。それが家族だったり、恋人だったり、友人だったり、ペットだったり、SNSの中の人間関係だったり、自然のなかで過ごすことだったり、アートや音楽表現だったり、書くことだったり、ビジネスだったりするのだと思う。

イキイキと表現するとき、人は愛と悦びの中にいられるから。

たとえその全部がうまくまわっていないように思えるときがあったとしても、自然の中に身を置けば、どんな存在とも比較にならない、包まれるような安堵感を抱けること、涙が込み上げ、愛しさがそこはかとなく溢れてくることを、きっと誰もがわかっていたりする。

だから、どんなに追い詰められても、愛の源泉は内側にあるから大丈夫だよっていう、自然からのメッセージだったんだなって思う。自然はいつもわたしたちの可能性を示唆して、サポートしてくれているんだ。


また、この世界で、敢えて限られた人たちと密に暮らしたり、過ごすってことを、当たり前のように選んで、何の疑いもなくそうしちゃっているのは、相手を個人的に愛してるからっていう限定的な視野によるものではなく、ただ愛に還るための宇宙の計らいでありギフトだった。

それはご縁だったり、学びのためだったり、奇跡や循環と言われたり。いろんな言い方があるけれど、いちばんは、やっぱり宇宙の計らい。与えられたギフト。抗えない“ナニカ”。流れに身を任せるしかない境地を知ることだったりする。


どんな人間関係も出来事も、流れるままに風通しよくしておくことで、まるで風景のように、自然の緑や花を愛でるように、目の前の人を見つめ、出来事を見つめ、愛の中で過ごす時間が増えてきているように感じている。

そして、ピンとくるとか、見つけてくれたんだねってことがわかる、そんな存在感抜群の出逢いの瞬間は、いつもわたしの奥の魂は最高にワクワクしてる気がする。

たとえ自我が恐れ逃げたがったとしてもね。

宇宙の計らいに【気付く】【受け取る】その瞬間は、きっと魂の深い悦びなのだろう。

この先、エゴのわたしが、気付くことから目を背け、逃げたがることがあったとしても、魂は分かっている。目を背けたものからは、逃げられないこと。だって、それはいつも、違う姿、カタチをした自分の内側なのだから。

だから、どんな時も、できるだけ深遠なまなざしで目の前のものを見つめられる、そんなわたしでいたい。ただただ内側から溢れる、愛と平安と悦びの中にいたい。

特定の誰かを愛さなければならないという幻想は、愛せないという幻想をも同時に生み出していて、それは愛されたい=愛されないという幻想でもあり、嫉妬や争い、束縛を生み、外側ありきで生きようとしてしまう、人間の苦しみの根源にもなってしまっている。

そんなトリックを超えて、相手ありきじゃない、ただ存在してるだけで、生きてるだけで愛なんだから、そのままでいいって、愛に還るってそういうことなんだと思う。

誰かのエネルギーあてにすると、光はどうしても弱まってしまう。愛はここから溢れてるから、本当はそれに気付くだけでよかった。

やっと望む在り方をはっきりと自覚出来た気がする。

これは、そばにいる人を愛していないということではない。ひとりで生きていけるということでもない。

もはや、愛してるとか愛してないとか、そういう次元の話ではなく、愛は誰の中にも源泉があるから、共鳴した相手となら、いつでも素敵なハーモニー奏でられるし、循環させられるよってことだ。

そして、わたしにとっての家族や友人は、内から溢れるエネルギーで、悦びの世界を共同創造していくための、いちばんそばにいてくれる仲間であり、心地よいハーモニーの基盤になってくれている人たちだ。

だから、そばにいてくれる人、差し出されたものすべては宇宙からのギフトなのだ。

距離が近いと素直になるのが難しいこともある。だからこそ学び気付き、助け合い支え合い、許し合える、如何様にも変わっていける、心強いサポーター。

何より、人間という愛としての在り方、その根本的な部分を、最も示唆してくれているのが、愛そのものである赤ちゃん、無邪気な子どもたちの存在なのだなと思う。


この世界に、掴めるものは

何一つなくて、

素直な表現の先に

生まれてくるものがあるだけ。


たとえばそれを人は【創造】と呼ぶ。


表現すればするほど

共鳴は重なり

愛と呼ばれるエネルギーも膨張する。


そうやって、

目に見えないところから

創造の世界は広がってゆく。


共鳴するあなたに出逢える。

ハーモニーを奏でられる。

新しいナニカが生み出される。

それって最高にしあわせな循環だね。




あなたに出逢えてうれしいです。ありがとう。







最後までお読みくださり、ありがとうございます✨



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