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共感することと、尊重すること──多様性の時代にむけた私のアプローチ

私にとって「共感と尊重」はとても大切なものだ。親友の言葉に触れて、それを再認識し、あいまいさを受け入れることの重要性にも気づいた話。

「共感」と「尊重」

しばらくnoteを書いていなかった。仕事が忙しく、家庭の都合もあるなか、友人とのやり取りも頻繁にあったためだ。

そんなある日、親友に言われた。

「ちなみちゃんは、共感してくれへんときとか、否定も肯定もせえへんときがあるけど、私の言うことはいつも尊重してくれるもんね」

さすが親友!と思わされたのはこちらのほうだった。私がもっとも大切にしているキーワード「共感と尊重」をズビシと言い当ててくれたのだから。

「救われるわぁ」という親友の言葉に、私も救われた。

共感が置き去りにするもの

ライターは「共感を得られる文章を書きなさい」と言われることが多いし、私もそうしようと心がけている。読者の共感を勝ち取るためのテクニックを説く人も、世の中ひとりやふたりではない。

しかし、共感を求めて文章を書いていると、ふと思うことがある。

「共感ってそこまで大切なものだった?」

私の仕事、全否定だ。けれど、やっぱり思う。誰かの共感を得ることを目的にすると、当然ながらそこから置き去りにされる人が発生する。共感にはターゲットが必要なのだから、必然的にそうなる。

共感とは、それが可能な人どうしのつながりを深めるものだ。私にとって共感は「ある集団が内に内にと収斂していくために必要なもの」のイメージである。集団は共感によって結束力を高め、個人を守る。

LGBTの人々が語りあう心情を、私は本当の意味で理解することはできないだろう。真の共感は、私の内部に生まれない。私は当事者ではないからだ。このとき「置き去りにされる」のは私だ。

同じように、私が男女の愛情にまつわる悲喜こもごもを語ったとしても、LGBT当事者の人たちから真の共感を得られることはないかもしれない。このとき、彼・彼女たちは「置き去りにされた」存在になり得る。

「共感」は、対象以外の人々を置き去りにし、その気持ちを取りこぼす可能性をいつもはらんでいる。

ただ、この例でいくと、私の場合、彼・彼女たちを尊重したい、傷つけたくない、という気持ちは本物だ。もちろん、私も尊重されたいし、傷つけられたくない。互いにひとりの人間だから。

「真実はシンプルだ」の限界

だから、私は取りこぼした心情や、置き去りにされた人たちを「そのままで尊重」したいと考えている。

本当の意味で共感できないことがあったとしても、否定せず、排除せず、その人たちがいちばん自然でいられる形で尊重したい。

冒頭に登場してくれた親友は、ときどき私には共感しがたいことを言ったりしたりするけれど、それが彼女のやり方だから尊重している。「私にはできないけど、そういうことがあってもいいと思う!」と言い合える関係を、私は気に入っている。

「真実はシンプルだ」なんて、あまりにもよく持ち出される言葉だけれど、本当のところ、真実はシンプルではない。名探偵コナンには申し訳ないけれど、真実はひとつでもないだろう。

「竹を割ったような性格」が好ましいとか「白黒はっきりつけて生きましょう」とか、世の中にはシンプル志向も健在だ。性急に「で? 白なの? 黒なの?」と問われることも少なくない。

しかし、現実世界には竹をスパッと割ったときのようにくっきりと整理できる事象は少ない。白にも黒にも寄らない中間色を含んでいることがほとんどだろう。アラフォーになってみて、つくづくそう思う。

物事をシンプルに白と黒で片づけようとすれば、必ずグレーやベージュは排除される。もしくは、無理やり白または黒という両極にまとめられる。

でも、もうそういう時代ではないのではないかと思う私がいるのだ。「真実はシンプルだ」で押し通すには、世界は多様性に満ちすぎている(ことに多くの人が気づいている)。

世の中を「共感できないもの」「共感できるもの」の二極に分けないことが大切なのだろうと思っている。真実も価値観も、たくさんある。

幸せな共生のために

人間だから、一人ひとり考え方や感じ方が違うことを大前提として、それぞれの「ありのまま」を尊重する。それが個人の集合体である「社会」の幸せに向かうのではないかと思うことがある。

共感できないこと、白黒つけられないことも「そのままに」ともに生きること。

相容れない人であっても排除せず、多様な価値観を受け入れること(それらが反社会的である場合は除く)。

グレーやベージュのあいまいさを許すこと。

あいまいさを認めることが「ダイバーシティアンドインクルージョン」における包摂(インクルージョン)のベースをつくるのだと思う。

誰も排除されない社会にするためには、共感だけを人とつながるよすがにしないことだと思う。人とのつながりに共感以外の要素を求めることで、世界はぐっと豊かな多様性を持ち、深みを見せてくれるだろう。私の場合、その共感以外の要素が「尊重」というキーワードに回収されていく気がしている。

だから、自分のテーマを「共感と尊重」に据えている。共感されない/しない人生は寂しい。かと言って、共感できないものを排除することはしたくない。

多様性に彩られた世界は、今のところ混沌として、雑然としたものなのかもしれない。でも、それもまたガチャガチャと楽しそうに思える。解決すべき課題は山積みだろうけれど、ありのままの他者を尊重する姿勢は保ち続けたいと思う。


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