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子育てについて——子どもの視点から


 1.はじめに

 これは、筆者が心の苦しみから抜け出すために勉強したことや筆者自身の経験を基に、子育てについて考えてみたものである。プロフィールには書いていないが、筆者は現在学生である。そのため、ここで書いたことは、子を育てる経験のない若造が持つ一つの理想論の域を出ない。それでも、子どもであった経験から、子どもの視点に立つことはできると思っている。予めご留意願いたい。

 2.無価値感に苦しむ人

 ⑴.「自分には価値がない」という思考

 「無価値感」という心情がある。「自分には存在価値がない」と思う心の状態である。これに伴って、「自分なんかが生きていて申し訳ない」という心情に至る。「罪責感」である。

 ⑵.無価値感が劣等感による苦しみを生む

 無価値感に苦しんでいる人間は、自分の存在価値を感じるために、自分が所属しているコミュニティにおいてなるべく高く評価される条件を備えようとする。学校や塾ではなるべく良い成績をとろうとするし、部活や習い事ではその道においてなるべく熟達した状態(いわゆる「上手な人」「強い人」「試合に勝てる人」など)であろうとする。

 しかし、自己価値の認識をこのような方法に頼っていては、その人の頭の中には、「人間の存在価値=コミュニティにおける評価の高さ」という枠組みが確立してしまう。だから、自分よりも優れた人間が同じコミュニティ内にいると、「自分よりもその人の方が存在価値がある」「その人に比べて自分には存在価値がない」という思考に至り、劣等感で心が苦しくなる。そして、そうなると、その人はどんな域に達したとしても心が安らぐことはない。完全でない限り、不足しているものがある限り、その分の自分の存在価値の欠如が目に付いてしまう一方で、人間はそもそも完全な生き物ではないからである。

 3.人を育てることは簡単なことではない

 ⑴.子が親に求めているもの

 わけても子どもは、身近にいる大人に依存しなければ存在や生活が成り立たない存在である。したがって、身近にいる大人から「存在価値なし」の烙印を押されることは、子どもにとっては死に匹敵するほどの恐怖になる。子どもが親に求めているのは、上手であろうと下手であろうと、上機嫌であろうと不機嫌であろうと、どんな自分であろうとその現実を受け入れてくれ、愛してくれることである。自分を一人の人間として尊重してくれ、いつも大切にしてくれることである。

 家の外の競争に満ちた世界を生きるので、子どもの心はただでさえ疲弊しているのである。それなのに、家の中でも外界と同じような扱いを受けたのでは、子どもが心から羽を休めることのできる場所はついになくなってしまう。その産物が、2で書いたような深刻な無価値感に苦しむ人である。好成績な子、上手な子、善良な子であることを家でも求められれば、その子どもは、「それに適わなければ、自分は家の中にさえも居場所を失ってしまう」と考える。「家族さえも、ありのままの自分の味方であってはくれない」。

 ⑵.子の心に対する虐待——心理的虐待

 「弱い立場にある者に対して強い立場を利用してひどい(むごい)扱いをすること」を「虐待」という(『新明解国語辞典』三省堂、第7版小型版、357頁)。この言葉は、とくに親の立場を利用して子にひどいことをする場合を指して使われる。子の肉体に対して不当な暴力を働けば「肉体的虐待」であるし、子の性活動に対して不当な介入を行えば「性的虐待」であるし、子の心に不当に傷を負わせれば「心理的虐待」である。

 これらは、相互排他的な関係にはない。親から不当な肉体的・性的暴力を受ければ、子の心も当然ひどく傷つく。しかし、肉体的暴力や性的暴力がなくても、子の心だけを傷つけることも十分可能である。「心理的虐待」が独立した虐待類型とされる所以である。

 例えば、子どもが不機嫌であるときに、それが気に入らないからその子を怒鳴って萎縮させる。本当に子を愛して、大切に思っているなら、親はその不機嫌な子を見て「何か嫌なことがあったのだろうか、大丈夫かな」と心配するはずである。子どもの側も、親の前で不機嫌になれるのは、親なら自分に寄り添ってくれると信じているからである。それなのに、「なんだその態度は!」と怒鳴られでもしたら、その子の心は、信じていた親に見放されたショックで深く傷つく。まして、「次やったら外に出すぞ」や「お利口さんじゃなければ怖いところに連れていくよ」などと脅されでもしたら尚更である。しかも、このとき親は、「親は感謝すべき存在であり、親に悪態をつくなどありえない」という道徳規範を持ち出すことで、「自分が気に入らないから」という本当の理由を無意識に追いやって隠し、自分を正当化するのである。

 これは別に、単に子が不機嫌である時に限らない。例えば、テストで低い点数を取ってしまったときに、その点数だけを見て怒られる。「習い事をやめたい」と言ったら、理由も聞かずに「だめ! 最後まで続けなさい!」と怒られる。このように、親が自分に向き合ってくれない、親が自分に関心を持ってくれないということを身をもって経験することは、本来親の関心がなければ生きていけない子どもという存在にとっては、深刻なダメージになる。やがて、子は親の顔色をもうかがいながら生きていくほかなくなる。

 ⑶.心理的虐待の恐ろしさ

 肉体的虐待や性的虐待であれば、被害者の苦しみは理解されやすい。これに対して、心理的虐待の被害者が持つ苦しみは理解されにくい。心の傷は目に見えないし、被害者(子)も加害者(親)も、自分たちの間にある虐待の存在にそもそも気付けないことが多いからである。明らかに毒だとわかるような親であれば別だが、そうではない一見普通の親が心理的虐待を働くこともある。筆者の親は、まさにその例である。

 自分の周りにいる他人が各々の家庭でどのようにして育てられているのかを子が知ることは基本的に無く、子は、自分の育てられ方を当然のものとして受け入れざるを得ない。それは親が子であったときも同様であり、親も自分の育てられ方を当然のものとして受け入れている。そして、親は基本的に、自分が育てられたのと同じやり方で自分の子を育てる。したがって、心理的虐待を働く親は、自分も子どものときから心理的虐待を受けていることが多く、そのことに親自身が気づいていない。

 ともかくその結果、親は「自分は子を愛している」と本気で思っているし、子も「親は自分を愛してくれている」と本気で思っている。しかしその実、両者の認識に反して、子の心には無意識の傷がどんどん蓄積されていっているのである。その行く末に子が授かるものなど、深刻な精神的不調くらいしかない。

 これに加えて、世の中では「親は感謝すべき存在である。親を憎むなどありえない。子は親に孝行すべきである」という道徳が人口に膾炙している。仮に心理的虐待の存在に気づいても、子はその社会的道徳によって、自分の心を殺した張本人である親を恨むことさえ責められる。まさに救いが一切ない状態である。

 ⑷.子育ての難しさ

 子育ては、単に衣食住を与え、肉体的な健康を保つようにさせればそれでよいというものではない。血がつながっているとはいえ、子は親とは別個独立の人格を持った存在である。だから、親の側からみれば理解できない行動や、気に入らない行動を子がとることも当然ある。そのような子の現実を受け入れず、自分が理解できる範囲、自分が気に入る範囲に子が収まるように仕向けるのは、子に対する単なる支配である。子の人格を全くもって尊重していないし、子に対するこれ以上の侮蔑はない。

 フロムも言っているように、未熟な愛が「愛されるから愛する」という原則に従うのに対して、成熟した愛は「愛するから愛される」という原則に従う(フロム・著、鈴木晶・訳『愛するということ』紀伊國屋書店、2020年、67頁)。親が子を理解し、子に寄り添う努力を尽くして、全力で子を愛そうとしてくれれば、子の側も自然に親を愛するようになる。その努力を怠っておいて、子に対しては「親の気に入る行動をとれ」というのは、精神的に未熟な親の思い上がりであり、子に対する甘えである(親子の役割逆転)。

 子を支配する親は、子を愛してなどいない。自分のストレスを子にぶつける親も同様である。それにもかかわらず、実際にはそのような親ほど、「自分は愛情深い偉大な親だ」などという思い上がった幻想に臆面もなく陶酔し、また、子に対して「お前のことは愛しているよ。お前はかわいい子だ」などという寝言を吐くのである。「厚顔無恥」とはまさにこのことである。

 4.親子の信頼関係を築く

 ⑴.親の影響力を自覚すること

 子は、親との関係を通して、自己認識や対人関係の基礎を学ぶ。したがって、親との関係が上に述べたような恐怖による支配関係であれば、子は親以外の人間に対しても、親に対して持っているのと同じような恐怖感を見出すようになる。これが対人恐怖である。また、親が子の現実を受け入れてあげなければ、子も、自分で自分の現実を受け入れられなくなる。これが、自己肯定感の欠如である。

 親は、自分という存在が子の人生に対して与える影響力の大きさを自覚しなければならない。" I was born" が受動態であるように、生まれてきたことの責任は子にはない。子を産んだことは親の責任である。親はこのことを自覚すべきである。

 ⑵.謙虚になること

 親は子を一人の完全な人格として尊重し、子に対して謙虚になる必要がある。例えば、子が親に対してなかなか悩みを打ち明けられず、時間がたってから勇気を出してようやく悩みを打ち明ける。このとき、「なんでもっと早く言わなかったんだ」とか「もっと早く言ってくれればいいのに」という親がいる。しかし、それは思い上がりである。子が親に対してなかなか悩みを打ち明けられなかったということは、親が子どもとの間に、子どもが安心して悩みを打ち明けることができるだけの信頼関係を築けていなかったということである。「もっと早く言いなさい」と子を責めるより、「自分はその程度の親だったのだ」ということを反省すべきである。

 他にも、「心配だから」などという理由で子に対し過剰に干渉するのも、子の自由を奪い、自立心を摘み取る行為である。親が先ず子を信頼し、子の主体性を尊重しなければならない。親が子を助けるのは、よほど破滅的な方向へ子が進んで行こうとしている場合や、子の生命身体に関わるような重大な場合等を除いては、原則として子が助けを求めてきたときだけである。いざというときに助けられるように、親は子を優しく見守っていればそれでいい。

 ⑶.子の現実をありのままに受け入れること

 親の任務は、子どもの心の底に基本的な安心感を築き上げることである。そのためには、子どものありのままの姿を受け入れ、愛する努力をしなければならない。子どもが何かに成功したとしても、失敗したとしても、「あなたには価値がある」ということを教えてやらなければならない。⑵とも関連するが、まずは自分が子を愛せるようになることである。

 一度、「その人にはその人なりの愛し方がある」という内容を見たことがある。しかし、これは虐待を正当化する論理である。不当な暴力で子どもを傷つけている親がいても、「これが私なりの愛し方ですので、口を出さないでください」と言われれば何も言えなくなってしまう(現に、中国的人権論と同じ論理である)。この意味で、愛は一義的なものであると考えるべきである。子が親に求める愛の形は一つである。それを謙虚に学ばなければならない。

 ⑷.子どもをよく見ていること

 子は、「親は自分のことをよく理解してくれている。何があっても親が守ってくれる」という安心感を求めている。子は、心の底にこのような安心感があるからこそ、色々なことに挑戦できるのである。些細なことにも臆病になってしまう人は、この基本的な安心感が欠如している。

 子は、たとえ親であっても、自分の味方でない人間ならば尊敬しないし、信頼もできない。子の味方であるためには、子のことをよく見ていて、子の変化に敏感でなければならない。そして、⑵⑶とも関連するが、親は子の変化に寛容でなければならない。人間はもとより変わる生き物である。それなのに、「いつまでも子どもは変わらない」「昨日と一緒だ」と思っていては、子どもに対して人間でないことを要求しているようなものである。そのような親に対して信頼や尊敬を寄せるほど、子どもという存在は愚かではない。

 5.おわりに

 冒頭で、ここで書いた内容は一学生の理想論の域を出ないと書いた。しかし、これは同時に、筆者自身が将来、自分の親のような誤った子育てをしないために、自分自身に向けて暫定的に書いたものでもある。

 筆者が願っているのは、心理的虐待に対する理解が今よりもっと浸透することである。衣食住は問題なく与えられ、教育も十分に受けさせてもらっているという事実のあることが、かえって、その人が実は苦しんでいるという実態を覆い隠し、その人を非難の対象にしてしまう。これでは救いがない。

 それに、先に見たように、「親を憎むなどありえない」という道徳もある。「感謝すべきだ」「憎むなどありえない」と思わせてくれるような親の下に生まれ、愛情に恵まれた環境で育つことができた幸福な人間にとっては、これは確かに正しい。しかし、この道徳規範は、決して普遍的妥当性を有するものではない。筆者のように、親のせいで心が死んでいった人間もいるのである。

 ここで書いたことを実践するには、様々な障害があると思われる。第一、親の方に精神的な余裕がなければならない。子育てにはお金も多くかかる。社会的な育児支援などについても考慮しなければならない。ともかく、筆者には今後も色々と勉強が必要である。最後になるが、このような拙稿を少しでもお読みになってくれた方がいらっしゃれば、心から感謝の意を申し上げる。


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