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遠野クイーンズメドウ・カントリーハウス「馬と花を通してわたしを観る」_プログラム後記

はじめに


煌々と輝く栗名月・十三夜の満月
夜竊(ひそか)に虫は月下の栗を穿(うが)つ
松尾芭蕉

栗名月と言われる十三夜の満月と重なる10月8~10日、岩手県遠野にあるクイーンズメドウ・カントリーハウス(QMCH)で「馬と花を通してわたしを観る ~馬や花との関係から観える自己・パラダイムシフト~」をテーマに2泊3日の場づくりを行った。

いつも豊かな時間を支えてくれるQMCHという場と、テーマだけでは伝わりづらいプログラムの中身を色んな人に届けたいと思い、どんなところで、どんなことをやってきたかを書き記しておこうと思う。

 なぜ遠野、QMCHなのか

QMCHとランドスケープ


QMCHと暮らし
ロゴス(※)のみによって処理しがたい経験の典型は、<いのち>、生きることの現実である。<いのち>とは、一言でいえば他との関係性である。自己と他者、一と多、心と身体、といったものは、二元論的思考では分断されてしまうが、生きたもののうちでは一つである。
(※)ロゴスとは、言語、論理、理性といった物事を区別する思考の働き
木岡伸夫(2014), 『<あいだ>を開く レンマの地平』, 世界思想社, p.ⅳ
(※)部分は同書中の表現を参考にオリジナルで作成

ぼくはこれまで様々な地域で場づくりをしてきた。大切にしてきたのは、その地域、その場でしかできない体験を土台にして対話と内省を深めていくことで、自分本来の自己観や大切にしたい価値観を再認識・再構築し、「その人として」生きるきっかけになる場をつくることだ。

対話や内省の深まりは、様々な要素の複合的な交わりによって左右されるのだけど、要素の一つとして、その場所を最も感じることができる「なまの体験」を基にプログラムをデザインすることが大切だと思っている。

五感や身体を通してその場所で感じられることが、最も身体に残る。

「学びは身体に宿る。」

今回の場であるQMCHは、豊かな森に囲まれ、「馬と人とが共にある暮らしを営んでいく」ということをコンセプトに山一帯をフィールドに山岳馬が放牧されている場所だ。

QMと馬

ここでは20年以上、只その場所で、人が馬を支配するのではなく、いのち対いのちの関係性の中で、共に生きていくためのあり方が探究されてきた。

「ホース・ファースト」

基本的に、馬は放し飼いで、広大な敷地内の森や草原を自由気ままに移動する。人間の生活する空間に入ってきたかと思うと、気がついたらもう森へ駆け抜けている。使役動物としての馬と共存する以前の風景や、人と馬との関係性を現代に再現しているかのように、お互いがともに暮らす景色がそこにある。

この場所の人と馬の関係の在り方や、この場をずっと守ってきた人たちの歴史や想いに触れると、心の中で何かがうごめく。現代において他では味わえない体験や体感が、人間として大切な”何か”を呼び覚ましてくれるような感覚になる。

また、QMCH一帯に広がる豊かな自然やさまざまないのちに囲まれたその空間も素敵で、身を置くだけで、からだが自然のリズムに呼応し始め、心地よい余白を体内に取り込むことができ、徐々に「自分時間」が取り戻される。日常の時間感覚や直線的で機械的なペース、日常抱いている自分像が溶けて、いつの間にか本来の自己に還っていくような体験だ。

「その場には、生きた世界がある。」

そんなQMCHだからこそ、馬と非言語でのコミュニケーションやその空間全体を通して多くのことをからだを通して感じ取ることができ、それが、共にあることの本質や生き物としての在り方、自己観を深く見つめるきっかけを与えてくれる。

今回のプログラムは、QMCHの豊かな余白を味わいながら、華道家の吉田祥子さんとともに、馬をモチーフにした「馬と関係性ワークショップ」とQMCHの森を舞台に直観的に花を生ける「草花インスタレーション」・「花占い」を行った。馬と花それぞれとわたし(自分)との関係から、その瞬間瞬間に立ち上がる感覚を、言葉や表現に落とし込みながら自己をみつめる2泊3日の時間だった。

3日間の流れ

今回実施した3日間の主な流れはこんな感じ。(案内チラシもぜひ。)

「馬と花を通してわたしを観る」プログラムの流れ

以降は、3日間の記録とぼくの心象スケッチ。

DAY1:馬と出会う。からだをゆるめる。

荒川高原と馬たち
生きづらさとは、社会から要求される自己統御を行い、絶えず身体を型にはめ緊張させこわばらせるその息苦しさから生じる。
板橋勇仁(2021), 『こわばる身体がほどけるとき』, 現代書館, p.193

プログラム初日。参加者全員が初めて顔を合わせる。

初日は、特に何をするということを設けずに余白時間を多く取る。普段、社会生活の中でつくり出している自分像(ペルソナ)や、新しい環境や初対面の人との出会いの中で無意識にこわばっている心身が、自然とゆるんでいくような時間をデザインする。

一つだけ決めていたのは、荒川高原で馬と出会うこと。

遠野三山早池峰山の南麓に広がる荒川高原は標高約700mから1,000mで、広さは約2.500haの広大な高原です。中世に採草地として、近世には牧場として遠野の基幹産業だった馬産を支えました。今でも夏は放牧の場所として利用されています。時期になると、馬の生産者や農家から100頭ほどの馬が放牧され、馬産地遠野ならでは風景は必見です。
出典:一般社団法人東北観光推進機構, 
"旅東北", https://www.tohokukanko.jp/attractions/detail_1005681.html (2022/10/18アクセス) 

荒川高原には、QMCHの牝馬たちもこの時期はここで生活をしている。(牡馬はQMCHの森で暮らしている。)

ここは日本でも有数、というか他にあるのか?と思うくらい特別な場所。曇りがかった灰色の空を背景に、冬の訪れを思わせる少し肌寒い風にたなびく草原を馬たちが自由に走り回る風景は、日本ではないどこかを思わせる。とても神秘的で、昔アイルランドでみた光景がぱあっとフラッシュバックした。

「圧倒的な場は、いるだけでからだと心をひらいていく。」

今回参加してくれたみんなで、広大な高原を歩き、馬と触れあいながら過ごす。初日最初に、この場の非日常感を肌で感じると、壮大な自然の中で只々自然にからだと心が開いていく。それだけで、何も必要ない。

荒川高原を歩く

たくさんの馬たちといると面白い。

”馬”と一言で言っても、人懐っこく近づいて鼻を擦りつけてくるものや、近づいてくるけど触れようとするとさっとその場から離れるもの、そもそも人間に興味なしというようにずっと草をもしゃもしゃと食べ続けるものなど、その性格は千差万別。様々な”個”を体感することができる。

その瞬間瞬間に交わされる馬とのやり取りは、慣れるまではどこかおっかなびっくりな感じもありつつも、他意も忖度もない馬の在り様にどこか安心感を感じた。

じっとこちらを見つめる馬

この日は少雨もあり寒かったので、高原での時間は小一時間で切り上げて一路QMCHに向かう。高原からQMCHに向かう途中、鹿を2頭とたぬき(テン?)がひょっこり顔を出してくれた。たくさんの動物や生き物たちがこの土地で暮らしているんだよと、ぼくたちに教えてくれるようだった。

QMCHに着いた後は、暖炉の前でチェックイン。

チェックインとは、ワークショップや対話の場づくりをする際に初めに、「これから場に入りますよ」と意識をチェンジするために行う儀式のようなもの。やることはいたってシンプルで、参加者一人一人が順番に、今感じて
いることをシェアし合いお互い知り合うだけ。

「とりあえず、感じていることをそのまま出してみる。」

とりあえず発話することで、肩の力が抜け、無意識にこわばっていたからだが落ち着いていく感覚になる。ぼくはこの時間を大切にしている。

進め方も、いきなり話始めるのではなく、「チーン」と澄んだ音色を奏でるパワーチャイムという楽器?を使って、1~2分間、沈黙の中で自分自身が今何を感じているかに意識を向ける時間から始める。

1人の時間から始めるのは意図として、思いつくままに挙げると、、、

・(無意識だった)自分の心身のコンディションに気づく
・思考(頭で考える)モードから感覚(からだと心で感じる)モードにシフトする
・日常の時間軸・ペースが切断され、自分の時間軸に戻る
・今この瞬間に意識が向く 等
1人の沈黙時間を通して起こること

「あれやって、これやって。」、「明日これがあるから、今日のうちにあれやんないとな・・・」、「さっきメールが来てた件、早めに処理しないとな・・・」等、多くの人は常に思考に支配されている。

このように無意識のうちに外側の時間に合わせながらあれこれ思考しているペースから、沈黙の時間を介して、自分の状態を感じ取りながら自分のリズムを取り戻し、”今この瞬間”に意識を向けていくプロセスがチェックインの時間なのだと思う。

「余白や沈黙を通して、ひととき、自分に還る時間」

チェックインがひと段落した後は、料理人の橋本玲奈さんお手製の料理を堪能。玲奈さんの作る料理は、目も舌もお腹もすべて満たしてくれる。本当の意味で「食べた」感覚がして、からだが元気になる。みんなで食卓を囲んで食事を取るのも楽しくて、心身ともに満たされる。
玲奈さんの記事はこちら
※写真は今回取り忘れてしまったので以前のもの。

玲奈さん料理①
玲奈さん料理②

食後は、お酒を飲みながら和気藹々と話を深める。馬と出会い、からだをゆるめる初日はこれにて終了。

初日に大切なことは、場(QMCH)に流れる空気や、その場にいる人との距離感を自分のペースで掴んでいくこと。余白をもって、急くことなく、自然な流れで自分の体感覚に意識を向けていくような時間をつくること。

「Less Is More. (少ない方が豊かである。)」

じわじわと、からだが場に馴染んでいく初日。

DAY2:馬や花との関係性から自己をみつめる。「馬と関係性ワークショップ」

馬と関係性ワークショップ

2日目、晴れ。想像していたより暖かい。温かいスープに、のパンでしっかり朝食を食べて、コーヒーを飲んでゆっくりとチェックイン。

この日は、今回のプログラムのメイン。まず午前中に「馬と関係性ワークショップ」を行った。

「馬は鏡。馬に自分が投影される。」

馬と関係性ワークショップとは、馬とともにいる、歩く、遊ぶとき、その瞬間にお互いの関係の間で起こっていること(目には見えない何か)を五感を通してキャッチし、馬との間に起きた現象を鏡として自分を見つめるワーク。

ぼくは馬のスペシャリストでも何でもないので、たいそうなことは言えないが、馬と関わるとき、何気ない一挙手一投足の中に、その人の人間性や普段の人との接し方が洩れ出るように思う。

今回は、馬と一緒に森の中を歩き、少し標高の高いところまで移動する時間を持った。文字で書くと大したことなさそうに感じるが、どっこいこれが上手くいかない。お互い心地よいペースで歩きたいと思っても、なかなかできないのだ。(そもそも、できる・できないということではないのだけど。)

お互いのその瞬間に生まれる「関係」が成り立たないと、ともにいることすらできず、一緒に歩くことは増して難しくなる。歩かずに草をむしゃむしゃ食べているか。歩いているが馬に一方的に引っ張られて終わるか。

人と馬、その瞬間、どちらがどちらをリードするのか?
どのように関係を結ぶのか?
そもそもお互いに信頼関係はあるのか?

人間の約10倍も体重のある馬は、当然無理やり引っ張ってもびくともしない。むしろ力づくで立ち向かおうとすると、相手もそれを察知し、パワーで応戦してくる。かといって、どうしていいか分からずこちらの指示が曖昧になると、馬もきょとんと「ねえ、どうしたいってのさ?」と言わんが如く馬も戸惑いを見せる。まさに、自分の内面が馬にありありと現れるのだ。

「馬と関係しているとき、自分の在り方が顔を出す。」

各々が馬と接している姿を観察していると、その人の特徴や意外な一面、徐々に自分なりの関係の築き方を掴んでお互いリラックスした関係でいられるようになっていく様などが見えて面白い。

この日ぼくもリードしたが、道中うまく関係を築けなくなった瞬間があった。その時、突然小走りになった馬をどうすることもできなくなってリード(綱)を離し、そのまま森の中を走って先へ行き見えなくなった。その時の自分は、歩くスピードが速くなったのをどうにかしようと力で手綱をグッと引っ張ったが、それに反作用するようにグググっと引っ張られた感じだった。(馬は少し先でむしゃむしゃ草を食べていた。よかった。。)

馬と関係しているその瞬間に、起こったことは自分そのもの。そういった視点で自分を見つめてみると何が見えてくるのだろう?馬とともに目的地に着いた後に、森の中で温かいお茶を飲みながらリフレクションする。

馬との体験を振り返る

午前中ずっと歩きっぱなしでお腹も空いていたので、軽めに馬との体験を振り返る。ゆっくりと一人ひとり振り返って対話する時間は持てなかったが、この時間を通して記憶に残っている言葉。

「馬とのやり取りの中で、人間にとって、上手くいったとかいかなかったとか、つまり”何かが起こった”ということは、実は馬にとっては”何も起こっていない”。勝手に人間が”何か起こった”、そう思っているだけ。」
某氏の言葉1
「馬を”馬”として接しないこと。”馬”と概念化して理解しようとしない。目の前の個体、目の前に起こったその瞬間に向き合う姿勢が大切。」
某氏の言葉2

さまざまな物事や現象に対して、バイアスを通して認知しているという事実や、知らず知らずのうちに言葉で一般化、概念化して対象をひとくくりに認知、理解しようとすることの罠に気づかされた。刻一刻と変化する場や、関係性に普段どれだけ意識を向け感じられているのだろうか。

DAY2:馬や花との関係性から自己をみつめる。「草花インスタレーション・花占い」

花を通して自己をみる・草花インスタレーション
秘儀に云わく。そもそも、一切は陰・陽の和する所の境を、成就とは知るべし。
世阿弥(1958), 『風姿花伝』, 岩波文庫, p.41

ゆっくりめのランチをとった後、コーヒーを飲んだり、少し昼寝をしながら、午後のメイン「花を通して自己をみる」を行った。この場は、祥子さんに委ねてぼくも一参加者としてワークに加わった。この時間、とても面白かった。

やったことは、QMCHの森全域を舞台にして「自分がいいと思った場所に、森の中で出会った草花を生ける」というもの。森中でのインスタレーションを通して、自己を表現するというものだ。

一時間くらい自由な時間があり、各々森を散策しながらピンとくる場所、草花を探して彷徨う。この時間がとても心地よい。意識しないと気づかなかった森の風景や草木花たち、鳥の重層的な鳴き声も等、気づかなかった様々なものたちがからだに沁みこんできた。

当てなく歩いていると、人の手がほどよく入った気持ちの場所にあった切り株に目が留まった。切り株にはキノコ(菌類)が群生していて、よくよく見ると切り株から新たな木の芽がにょっきっと顔を出していた。地面の腐葉土を嗅ぐととてもいい香りがして土壌の豊かさを感じた。ここをベースに生けようと直観した。

いのち(生)を感じるその場を見ながら、朽ちゆくもの(死)のイメージが湧いてきたので、近くに群生していた枯れゆく草をそっとその場に生けた。

草花インスタレーション・自分の表現

全員の作品が出来上がった後は、森の中を移動しながら、みんなの作品を見て回った。歩きながら各々の体験や思考のプロセスを追体験し、結果として出来上がった作品に触れる。普段アート鑑賞するときとは違った面白さがあった。

全員の作品の鑑賞が終わると、作品を持ち帰って「花占い」を行った。花占いとは、古来華道の世界で受け継がれてきた、花の構図や材、材の質感を通して体系化された知恵を基に見えてきたことを言葉に落とし、花を生けた人に見えたものを返していくというもの。その構図や花の選び方、生け方を総合的に見ていくと、生けた人の特徴がそこに浮かび上がってくるらしい。

草花インスタレーション・作品集

祥子さんからの花を介した言葉のフィードバックが秀逸で、花の世界の理論と目の前にあるものとの対話から生まれる即興・感性が入り混じった言葉は、今の自分にとても当てはまっていて驚いた。

これはほんと、他に人にはできないであろうと思った。もらった言葉から、今の自分の立ち位置やこれまでの自分に思いを馳せた。他のみんなもその言葉をじっくり聞いていた。じんわり染み入る夜だった。

昨日の賑やかさとは違った雰囲気の中で、ゆるやかに夜が更けていった。

DAY3:自分を物語る。ギフトを渡す。

自分を物語る・ハイポイントインタビュー
人が他人や自然と調和して暮らすには、誰もが自分の考え方にいつまでも固執したりそれを擁護しない創造的な活動において、自由にコミュニケートすることが必要なのは明白である。-(中略)- 他人の話に耳を傾けようとしない人とは、コミュニケートするのは難しい。
デヴィット・ボーム(2007), 『ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ』, 英治出版, p.40

最終日、それまで何とか持っていた天気とは一転して大雨。

この日は、室内で自分史を語る対話だけの時間。野外での活動が多かった前日まで、天気が味方してくれたように感じた。外の景色は一変し、窓から臨む雨と湿った森の質感がとても綺麗だった。

この日やることはいたってシンプル。直観的に話したいと思った人同士でペアを組んで、お互いの生まれてこの方の自分史を語りあい、自分にとっての豊かだった時・瞬間を思い出しながら、自分の大切にしていた想いや価値観に触れていくといったもの。

これは、アプリシエイティブ・インクワイアリー (AI)と呼ばれる対話型組織開発の中で行われるハイポイントインタビューという対話の手法を応用したもので、相手からの問いかけに沿って、自分史を振り返りながら、ポジティブ・コアと呼ばれる、その人の本来持つ活力の源に触れていくプロセスである。

時間はゆったり1人1時間を目安に、片方がもう片方の相手に問いかけながら「生まれてこの方のストーリー」「最も豊かだった瞬間」「今思う豊かな未来のイメージ」について聴いていき、終わったら交代してまた1時間を目安に聴いていくというものだ。

この時に大切なことは、相手の話を「聴く」ことだ。

dialogue -AND THE ART OF THINKING TOGETHER-』の著者であるウィリアム・アイザックスは、対話に臨むにあたって、”Listening(聴く・耳を澄ませる)”・”Respecting(尊重する)”・”Suspending(保留する)”・”Voicing(声に出す)”の4つの振る舞い、姿勢が重要であると言っている。

ついつい人は、相手の話に対して「ああこういうこと言いたいのね」と先読みしたり、自分の思考のフィルターを通して誤った解釈をしてしまいがち。だから少し意識して、相手の言葉を頭で理解するのではなく、言葉が纏っている想いや気持ちを心で感じながら、そのまま受け取る姿勢が必要だ。聴くことはテクニックではなくセンスだと思う。

「自分の解釈フィルターを通さず、そのまま言葉や言葉の源に耳を澄ませる」

今回参加してくれたある方から聞いた、相手の話を「聴く」際に起こっていることや「聴く」姿勢についての整理がとても分かりやすく本質的だと思った。

聴くまたはそのプロセスを「感覚-感情-思考」に整理すると、
①話を受け取った瞬間に言葉を感覚する (心に響く、違和感を感じる等)
②反応的に感情が立ち上がる (じわじわ、どきどき、そわそわ等)
③そこから少し遅れてその言葉を思考して頭で理解する
それぞれ、感覚-身体/感情-心?/思考-頭の関係になる。
聴くということ

このとき「聴く」にとって大切なことは”感覚”で、感覚で言葉を受け取るということは、身体を通して今この瞬間と向き合うことだ。”思考”は身体で受け取った後に時間差で起こること、つまり少し過去であり、思考が入るということは、そこに解釈の余地が生まれる。解釈の余地が入ることは、相手不在の理解になる可能性があるということでもある。

「その人の話を聴くということは、今この瞬間にともに在るということ」

その時、人は言葉を本当の意味で受け取ってくれていると思えるし、そこに心地よいコミュニケーションが生まれるように思う。

ともに在るという感覚をからだで感じる。人も、馬も、大切なことはそういうコミュニケーションであり、在り方なのかもしれない。

対話の風景を眺めていると、3日間ともに過ごして出来上がった関係性や心理的安全の中で、飾らない本来の自分の姿でリラックスして対話しているように見えた。初日にはなかった柔和な表情や自然体の笑顔が印象的だった。

雨は時間が経つにつれて弱くなっていき、ペア対話が終わる正午頃には小雨になっていた。強めの雨が対話の深まりをお膳立てし、お互いに語りあっていくにつれて、徐々にすっきりと解放的になる様に呼応するように、雨は次第に弱まっていた。

しとしと降る雨の中外へ出ると、どこからともなくイモリのこどもがひょっこり顔を出していた。近づいても動じることなく、その場でじっとこちらを見つめていた。

こちらを見つめるイモリ

対話が終わったあとは、最後の昼食を取って、チェックアウトとして3日間の体験や今感じていることを共有しあった。その際、対話したペアの人へのギフトとして、話を聴いてどんな人だと感じたかを共有してもらった。

自分のことについて深く話す機会自体あまりない中で、じっくり話を聴いてもらった相手から、自分のことを話してもらうことなんて増してないと思う。

安心安全な関係性の中で語りあった言葉やその時の空気を、相手の言葉を介して自分にリフレクトする。ペア相手からの言葉に耳を傾けているもう片方のペアの方は、少し気恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに聴いていた。

安心できる相手からの受容(他者受容)が、そのまま即、自己受容につながる。短い時間ながら深く知り合った相手からの言葉は、受容感をさらに高め、ストレートに心に届いていく。共有される内容を聞いている周りにも、その温度は伝播し、温かな空気が場を満たしていく。それぞれの本来の自己がそこに立ち現れる。

「受容で場が満たされる世界で、ありのままの自己が立つ」

今回のQMCHの3日間はこれにて終了。
だいぶ書いた。おしまい。



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