回復・克服・楽になる・人生を心地良くする・鎖を手放し自由を獲得する「覚悟」

ふと思ったが、もしかしたらこれも、私がしばしばクライアントさんに「心理でのブラックジャック」と呼ばれる所以のひとつかもしれない。いつか記事にも書いたことなど、所以自体は複数あるのかもしれないが…それに私自身が手塚治虫氏のその作品に詳しくはないのだが。

なかなか思わない人が多いかもしれないが…
人生というのは、例え何をするにも、どんなことをするにも、覚悟(勇気・決意という言い方もできるかもしれない)が要る。

たのしいことや嬉しいこと、日常の僅かな当たり前の行動などにそんなものは要らないと思うかもしれないが、それは「自覚」をしないまま通り過ぎてしまっているだけで、実は必ず、覚悟(この記事ではこの単語で統一してみる)の段階がある。

そして、ひと(顕在意識と潜在意識)は、必ず、すべての行動、人生の一大決心から何気ない言動行動に至るまで、「目的」があって動いている。


そして、精神疾患や病、風邪やウイルス性のものや、がんなどであっても、身体や細胞は、必ずわかっている。
…と、現代、どんなに少なくとも、催眠療法の領域ではそのように考える。
必ず理由と目的があり、もしそこでセラピー技法を使って聞いてみると、必ずそれを身体は答えるからだ。それで身体の細胞と交渉をして、症状を別の方法(本人が困らない、寧ろ助かる方法)に変えてもらったり、症状を手放してもらうという技法すらあるくらいである。

つまり、あらゆる疾患は、顕在意識でまでは自覚しておらずとも、その人がその時「その疾患を罹患していた方が適応しやすい・有利である」と判断して、起こっているのである。
しかし、同時に、疾患というのは苦しい。もちろん顕在意識も苦しければ、身体も苦しい。結局自分の首を絞めることになる。なるのだが、それでも、罹患していた方が(もしくは”罹患していなければ”)、と思い込んでしまっているその理由がある。

これは、私自身も当事者として痛感してきた。
解離性同一性障害などは、それこそ、催眠療法家ではない医師やセラピストたちもがはっきりと、「そうするしかなくて起こしている、理由がある、必然で現れている現象(疾患)」であると言っているような精神疾患である。
更に言えば、その本人の交代人格達までが「俺がいないとね~…」などと、その理由(疾患の存在理由や二次利得)すらわかっている場合すらある。

長引く疾患は特に、原因だけではないのだ。
原因だけではなく、罹患している”今”その利得がある。

今こんなことを書いている私(達)ですら、当時はそれは苦しかった。
日常にも身体にも精神にもありとあらゆる支障が出た。
顕在意識では、やはり「健康」を望んだ。


しかしながら、
回復する
克服する
楽になる
人生を心地良くする
自分を雁字搦めにしている鎖を手放し自分を解き放ち、本当の人生の自律と自由を獲得する

ということにもまた、実は「覚悟」が要る。


今、セラピストである私のもとには、
「本当に自分の問題を解消し克服する覚悟がない人」は来ない。

もしくは、来ても、だんだん離れていく。
(これは、例え顕在意識では必死で求めているような言動をしていても、来なくなる)

逆に、本当に自分の抱えている問題を卒業・克服すると決めた人、もしくは私とのカウンセリングの中でそちらを決めた人は、面白いことに、顕在意識ではどんなに私を恨んだり憎んだり楯突いたり(転移感情を抱くことを)しても、必ず自分で次を予約してくる。

これは、裏を返せば、潜在意識が「このセラピスト、このセラピー手法は本当に効果がある」とお墨付きをくれている証拠でもあるとありがたく感じている。

基本的に私は”セラピーに通うこと(それ自体)”を目的としている人(非常に端的に言ってしまえばセラピストもしくはセラピーに依存して回復・克服できないことが目的の人)は相手にしない(できない)ので、それが目的のクライアントさんの潜在意識には、わかるのだろう。
私も私で、カウンセリングをしているとその人のそのようなプログラムや心理ゲームは視えてしまうので、カウンセリングをしながらその人の潜在意識に尋ねる。「あなたはこの心理ゲームをしてしまうプログラム自体を解きたいのか、そのためにいらしたのか?」
そこで、そうだという応えが返ってくれば(これがもちろん顕在意識に聞いてしまうとクライアントはまるで理解ができないかもしくは「解決したいから来ている、当たり前じゃないか」となってしまうので、あくまで”潜在意識の言葉で潜在意識に”聞く)、そのプログラム自体を解いていくためのカウンセリング、そしてクライアントさんが”本当に自分の問題自体から脱却する、克服する決意”を持つことができるようになるためのカウンセリングに切り替える。


自分の問題を本当に手放したいのか、本当に解放され自由になるという決意を持つことができること、これこそが、セラピーの最初の一歩であると思う。
(逆に、これができなければ、もしくはセラピストがこれを見極めることができずに次の段階へ進んでしまえば、どんなセラピーも意味がないどころか、別の目的で使われたり逆効果にすらなってしまう)

そして、私は恩師に、これは言語でも教わったが何よりも身体で教えられてきた、そして一番大きなことであったようにも感じる。


私だって、顕在意識で具体的には、まさか交代やら内部世界の概念までがなくなるなどとは想像もできなかった。
なぜなら、我々は最初から内部世界から確立していたと言って良いほど、当たり前に前提である世界で、解離性同一性障害でない状態をそもそも知らなかったのだから。
しかしながら、それらを含めてすべてから卒業をして、今この器の人生に不適応・不利になっている(がこれが利得・もしくはこうしておらねばならないと思い込んでしまっている)ものをすべて手放して、確実に着実にこの世界で生きてみせる、この人生の舵を、責任も含めてすべての自由を享受し掴み取っていこうと、恩師のもとで、確かに”決める””覚悟する”ことができたのだった。

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