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【知られざるアーティストの記憶】第38話 長男と彼

Illustration by 宮﨑英麻

全編収録マガジン
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第6章 プラトニックな日々
 第38話 長男と彼

「あのチョコのパン、すごく美味しかったよ。あんな美味しいもの、どこで売ってるの?」
彼の退院祝いにパティシエの友人が焼いた卵黄抜きガトーショコラを届けた翌日、彼の弟のマサちゃんことマサユキさんはマリにそう訊いた。彼自身はそのお祝いに対するお礼も、味に関しても何一つ言ってこなかったが、ちゃんと弟とも分け合って食べていることがわかり、ホッとした。

もっとも、マリは彼の弟を「マサちゃん」などと当人の前で呼んだことはなく、それは自分の心の中で呼んでいたに過ぎなかった。彼は弟のことを、少し他人行儀に「マサさん」と呼んだので、マリも彼の前で話題にするときにはそれに合わせてそう呼んだ。しかしマサちゃんはどちらかと言えば「ちゃん」付けで呼びたくなるようなキャラクターであった。

マサちゃんがマリに対して明るく愛想よく振る舞ったのは、このときがたぶん最後であった。

彼は大工仕事が終わるまでの間、彼の部屋のマリの家の方向を向いた掃き出し窓の雨戸を毎日開けていた。その窓はマリの家からもよく見え、マリは初めのうち、それが開いているときはいつでも来ていいよという彼の合図のように感じていたが、彼はただ、作業のために開けていたに過ぎなかった。作業が一段落すると、それはまた毎日閉ざされたままとなった。

彼の部屋が明るく開かれていたときに一度、マリは彼の縁側に長男を伴った。彼に対しては、
「今度、長男をつれて来ますから、いつものようにいろんな話を聴かせてあげてください。将来を迷っている長男には、あなたの生き方や考え方がきっと何かの刺激になると思うから。」
と話していて、彼もそのことを快諾していた。

マリの長男は小中学生の頃の不登校時代を手探りで渡ってきた中で、母親であるマリの提案を道しるべとし、可能な限りまずは受け入れみるという関係がマリとの間にできあがっていた。マリは長男に対し、こんな場所があるよ、こんな体験があるよ、こんな人がいるよと押し付けずにただ情報を与えてきた。長男は自らの感性でそれらを丁寧に取捨選択し、様々な出会いや体験を通して自分の個性と意思を見つけ出していった。

高校生になり、自ら選び取った居場所を通して社会と積極的な関係を築くようになった今、その関係は自然と薄まってはいたが、母親の言うことには一応耳を貸した。マリは、自分と彼との関係とは別個のものとして、長男が彼との人間関係を築いてもよいし、そうならなくてもよいと考えていた。それまでにしてきた子育ての気楽な種まきの一つとして、試しに彼と長男を会わせてみたのだ。

開け放たれた縁側の窓から中を覗くと、彼は指定席の肘掛け椅子に座り、首をガクッと折って居眠りをしていた。青いトランクス一枚しか身に付けていなかった。マリは長男と顔を見合わせ、出直そうかと迷いながら、
「ワダさん・・・・・・?」
と小声で呼び掛けた。目を開けた彼は二人の姿を見て
「うわぁ。」
と驚き、奥に引っ込んだかと思うと一瞬でズボンとランニングシャツを着て戻ってきた。

椅子に座り直しながら、一瞬だけ目を白黒させ、長男に話す内容を頭の中でまとめたようだった。彼はすぐさま話し始めたが、その切り出し方も展開もいつも通り唐突で、ついてゆくのが難しく、マリは長男を気にかけた。長男は黙って聞いていた。彼が話したのはいつものような芸術論だったが、毎回引き合いに出す作家の名前は少しずつ違っていて、アニメ好きの長男に対してはアニメ作品の話を多く例に出したようだった。

マリは彼の家のすぐ下の川で下二人の息子たちを遊ばせている途中で、友人に見守りを頼んで抜け出して来たところだったので、彼の話の出だしのところだけを聞いてから、彼と長男を二人きりにした。小一時間ほどして戻ると、二人は先ほどと寸分違わぬ姿勢のまま話し続けていた。マリが戻ってきたことで、彼はやっと話のまとめに入った。
「そういうわけなので、お互いに頑張りましょう。」
と彼は最後に長男への話を締めくくった。
「ありがとうございました。」
とマリがにっこり微笑むと、彼は安堵したように微笑み返した。

「あれ?マサさんは家にいます?」
「ああ、上に居るよ。」
「長男が京都に自転車旅に行っている間中、マサさんが毎日のように関西の天気予報を調べて教えてくれたりしたから、もしよかったら長男にも挨拶させたいのだけど。」
「ええ?私の弟が?」
彼はすごく意外だという反応をしてみせたが、「今はちょっと……」という感じで二階にいる弟に声をかけようともしなかったので、マリもそれ以上は追求しなかった。

「ねえ、どうだった?どんなこと話してた?意味わかんなかったでしょ?母ちゃんもいつも、ワダさんの言ってることの2割ぐらいしか理解できないから。」
「話すって言っても、俺はほとんど何も話さなかったよ。」
長男は不服そうにマリに言った。長男はいつも、必要以上に人に対する批判を口にする子ではない。この一言で、彼が長男に口を挟ませずに一人で話し続けたことが長男には気に入らなかったのだと理解するのに十分であった。マリはそれ以上は何も訊かなかった。

「長男くんは私にちゃんと反論をしたよ。それでいいんだよ。」
次の日、彼は嬉しそうな顔でマリに報告をした。このときが、彼と長男の最初で最後の直接的な交流となった。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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