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#2 写真についての愛を語る

 唐突に今、自分が誰かといる瞬間をファインダーに収めたいなと思う。自分が見た、心揺さぶられた景色を撮りたいと感じる。カシャンと音が鳴るたびザワザワとした気持ちになり、いてもたってもいられなくなる。気がつけばポケットに小さなカメラを忍ばせて、いつでもふっと心が動いた時に構える準備はできていた。

 わたし自身は昔から何かを記録することにこだわっていて、それが単純にライフワークになっていたということもある。だから、「日常を残す」という意味で言うと、カメラに手を伸ばすことは必然だったと言っても過言ではない。

 あとは今振り返ると、「ただ、君を愛してる」という映画が写真を始める間接的なきっかけだった。当時付き合っていた子と観に行ったのだが、たぶん今もう一度観たとしたら、あまりにもベッタベタすぎて直視できない気がする。でもその時は、命を削りながらも写真で今を残そうとしたヒロインの姿が、なんとも輝いて見えたのである。淡い、青春の1ページだ。

 その時見た映画の光景を必死に描き出そうとしているのだが、あれは果たしてタイトル通り愛だったのだろうか。今もってわからない。

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 映画を見たのは高校2年の時だったのだが、当時わたしは部活に明け暮れる生活を送っていたので、本格的に写真を撮り始めるようになったのは大学2年生の頃だった。親から譲り受けたゴツゴツとした形のフィルムカメラを手にして、暇があれば写真を撮っていた。

 大学3年になって、夏に何か今しかできないことをやろうと思って、急遽思いついたのが地元から北海道までを自転車で巡る旅だった。

 夏休みを使って3ヶ月くらい自転車を漕ぎ、暑い日差しの中をただただ進んだ。道ゆく人たちは皆優しくて、わたしの姿を見ると心配しておにぎりやらリンゴやらをくれたことを思い出す。思えば、平和な日常がそこにあった。

 過去の写真を引っ張り出した時に、本当に構図も何もあったものではない。でも確かにわたしは、その時自分が感じたことを残そうと悪戦苦闘していたのだ。

 その後、カメラ熱は一旦冷めて棚の奥の方へと追いやられていた。自転車の旅から半年ほどして、わたしは海外へ留学し、その時カメラも一緒に持って行くことに。その時にも結局、「日常の記録」としてシャッターを押すに過ぎなかった。

 大学には意図的に人より長く居座ることになり、卒業を間近に控えて思い切って親からお金を借りて3ヶ月ほど20カ国くらいを練り歩いた。その時にももちろんカメラを帯同していたわけだが、相変わらずオートで撮り続けていたので、技術の方はさっぱりだった。

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 やがて社会人になり、同期と台湾へ行ったり四国を旅したり、やたらと手にしたお金をそのまま旅へ注ぎ込むようになり、写真を撮る機会が増えた。

 漫然と自分の写真を見返した時、あまりにも構図も色使いもお粗末だったため、カメラ技法に関する本を読んでああでもないこうでもないと言いながら、勉強したわけである(その間、独学だったので何度も挫折しかけた)。

※ちなみに、これからカメラを勉強したいという方は、写真家の中井 精也さんが出している本がおすすめです。

 それからは人との交流に飢えていたこともあり、2つくらい写真サークルに入って、再びひたすら写真を撮っていた。やがてもう少し写真を撮る上での考え方について学びたいと思い、写真家の瀬戸正人さんがやっている「夜の写真学校」に通った。今でも振り返ると驚くのだが、その頃はほぼ毎日1,000枚くらいの写真を撮っていた。その情熱は一体どこからやってきたのか。

 さらに月日は流れ、やがて自分自身でも何か人を集めて誰かと写真を撮りたいと思うようになり、写真サークルを作る。作った当初は、2つの写真サークルを通じてモヤモヤとしていた部分を解消すべく、試行錯誤しながら活動をしていた。最初10人くらいの規模だったのが、じわじわと人が増え始めて最終的に100人規模の団体になった。

 不思議なことに、最初何かを始める時ってとても楽しいのだけど、それがだんだん大きくなるにつれて次第に見えないプレッシャーを感じるようになる。結局、まるっと3年間サークルを続けたが、コロナがちょうど流行り始めたこともあり、自然と休止という形となった。またいつか、もう少し落ち着いた段階で再開できたらなと淡い希望を抱いている。

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 さて、話が少しずれたけれど、今でも変わらず写真は撮り続けていて、それでも何が正しい写真なのかな、と五里霧中の体でシャッターを押し続けている。シャッターを押すたびに鳴る小気味よい音は、わたしの心を落ち着かせてくれる。気持ちが凪いで、その瞬間だけ余りある悩みから解放される。なくてはならない存在。こうした存在は、愛と呼べるのだろうか。

 それと写真を撮っている中で、これがよかったなと思ったことは、世界の見え方が広がったということである。確実に、広がった。ただ何を考えるでもなくいつもの街を歩いてカメラを構えると、思わぬところで小さな変化に気がつくのである。

 ちょっとした看板のずれも気になるし、路上に雑然と放置されたゴミ袋もなんだか心に引っ掛かる。大きな図体をしたカラスの鈍い目の光も怖かったし、誰も人がいない道路を歩いている自分が奇妙な存在に思えた。そんな風にして自分の身の回りの光景を再定義し、そして自分自身が何者かを深く考えるきっかけを与えてくれたように思う。

 この記事を書いている間も、じわじわと落ち着かない気分になってくる。迫り上がった感情を、ファインダーを覗くことで客観的な視点から俯瞰することができる。

 そうやって日常から些細でも、わたしが愛おしいと思う何かを探してる。

↓過去に写真について書いた記事をまとめてます。

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