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朝靄と霧の中で音楽が聴こえる

 ここ半年くらい、深い眠りに就くことができない。前の日に、たとえば万全の体制で眠ろうとする。ブルーライトも受けない、テレビも観ない、カフェインも摂らない。歯磨きをして本を読み、少し眠くなったと思った時に布団の中に入る。生活音も何もない中で眠りの奥へ奥へと誘われる。

 これで深く眠ることができるはずだ、と思っても結局次の日には4時ごろに目が醒める。しんとした静けさの中、眠いはずなのに頭が冴えてしまう。どうしようもなくなって、むくりと起き出し、カーテンを開ける。暗闇の最中から、ゆっくりと日が昇る。秋の季節の朝焼けは、なんとも言えないグラデーションに包まれていて、私はそれだけでうっとりしてしまう。この後、不確かな眠気が襲ってくることも知っている。

 朝と夜は上着がないと寒いくらいなのに、日中はまだ残暑なのではないかと思ってしまうほどじんわりと体が熱くなる。道端に咲いていた金木犀の花はいつの間にか地面に侘しく散っている。毎朝6時半、バスに乗って東京駅へと向かう。乗る人はまばらだ。ゆらゆらと揺られて到着した最終駅の周辺には、瞼の腫れた人たちの渦で蠢いている。

*

 日々、なんの変化もないようでいて、少しずついろんなことが変化している。コロナ前くらいに無邪気に一緒に遊んでいた人たちは、気がつけばその殆どが結婚して、中には子どもがいる人もいる。世間一般的には、そうやって、それなりの年齢になればみんな家庭を持つことが普通なのかもしれない。私はそういう意味で言うと、世間の「普通」というレールから外れてしまった人間なのだろう。「最近いい人いないの?」という言葉をもらうたび、それとなくお茶を濁す。たぶん社交辞令のようなものだということはわかっているつもりだし、私が何て答えたところで、おそらく無難な返答が来ることもわかっている。

 過去、結婚したいなと思った人もいたし、今もそういう人がいないわけではないのだけれど、時々周囲の人たちとの関わりの中で、何が正解なのだろう、と頭に靄がかかって混乱してしまうことがある。頭ではわかっているんだけどね、誰かが隣にいることの満ち足りた時間。これが半永久的に続くことの素晴らしさも、本能的に理解しているつもりなんだけれど。

 でもね、きっと誰といたところで、夜になったらふとした瞬間に寂しさを感じてしまう時がある。メローな音楽を聴いて、お酒を飲みながら、誰かと喋っているその時であっても。むしろ、誰かといる時の方が寂しさが助長される。楽しいはずなのに、満たされているはずなのに。矛盾している。私は目の前にいる人が楽しそうに喋っている中で、その瞳の中に自分と同じ寂しさがないかどうか、必死に探り当てようとしている。そして、早く朝が来ないかな、ということを心の中で思っている。

 みんなライフステージが変わっていく中で、私は自然と昔よりも休日ひとりで過ごす時間が増えた。ひと呼吸、大きく息をする。先日何気なく図書館で手にした綾瀬まるの『眠れない夜は体を脱いで』という本がものすごく自分の中でしっくりきて、思わず実際に買ってしまった。手元に置いておいて、ことあるごとに読みたくなる。

 私が、私であるということに、違和感を持つ人たちの物語だった。自分が思う自分に対してすれ違っていて、その息苦しさは他者との関わりにも関連していて。そんな時に、彼らはネットの海でふと目にした、「手」の画像に心奪われる。そこには間違いなく、一人一人が生きてきた歴史や背景がしっかりと年輪のように刻まれていて、気がつけば登場人物たちも自分の手をアップしている。物語が、見えないながらも、連綿と続いている。

 思わず私も、自分の手をじっとり眺めた。

 思うことはたくさんある。自分の指の長さや太さ、色。手のひらに散りばめられた黒点。昔よりも、手に刻まれた手相の本数が増えている気がする。この中に、結婚線はあるのだろうか。幸せの基準なんて、人それぞれだと明石家さんまが言った。布団に潜り込んでも、ずっと私がこれまで出会った人たちの手の姿を想像した。手相からその人の人生がわかるというが、それは本当に彼ら一人一人の姿をきちんと表しているものなのだろうか。

 一旦考え始めると、後から後からいろんな考えが浮かんでは消え、不埒な泡にそのまま顔を埋めたくなる。それからまた朝になって、カーテンを開けると、新しい一日と共にグラデーションに彩られた朝焼けが顔を出す。きっと、この空は見る人によってその色を変えるに違いない。朝にベランダに出て植物に水をあげようとすると、カメムシが苦しそうにバタバタとその場でもがいている。衝動的に近場にあったスコップで掬い上げて、空の彼方へポン、と放ってしまった。

*

 つと、顔の輪郭の外側から、讃美歌が聞こえてきた。昔カナダへ留学していたときに、日曜日の朝早い時間に教会へ足繁く通ったことを思い出した。皆一心に祈りを捧げている姿がとても美しく、ステンドガラスから差し込む光は眩しかった。朝は空気が澄んでいて、道を歩くたびに枯れ葉がチリチリと音を立てる。その音楽は軽やかで、何ものにも囚われない美しさと余韻を持っていた。

 私の他にあまり若い人たちの姿はおらず、おまけに日本人なもんだから、朝のお祈りが終わって、信者の人たちと対話する際にはいろんな人たちから声をかけてもらった。当時、異国に来たばかりで心許なかった私は、その人たちと話をすることで気持ちがずいぶん楽になった。

 今も時々、朝靄がかかった時に、そのことを思い出すのだ。


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