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究極の純粋性とは?ミニマルアートの旗手ドナルド・ジャッドが辿り着いた境地

彫刻家の大黒貴之です。

今回はミニマルアートについての話をします。

ミニマルアートとは、1960年代前半から70年代初頭にかけてアメリカに台頭してきました。作品の素材や作家の手跡などを徹底的に排除して鑑賞者の目前にある作品を「モノ」として提示し、作品自体の純粋性を問いかけたアート概念です。

その例として、ミニマルアートの旗手ともいえるドナルド・ジャッドを紹介したいと思います。ジャッドが1965年に発表した「スペシィフィック・オブジェクト」という概念は彼の思想が凝縮されたものだと言えます。

スペシィフィック・オブジェクトという舌を噛みそうな言葉を初めて聞かれる方も多いのではないかと思います。

この言葉は、作品の形や色を最小限にまで切り詰めた後に残った「絵画でも彫刻でもないある一つの物体」という概念です。鑑賞者の目の前にあるその物体が「今、ただここにある」ということが美しいとするものなのです。

またジャッドの作品は、作家の痕跡すらも残さないという考えの下、大量生産された規格品の工業素材を使用し、作品の多くは外注によって制作されています。

「彫刻の構成とか絵画の色彩とかいうけれど、俺のスペシィフィック・オブジェクトは、その全てを削ぎ取って最後に残ったギリギリの状態にあるんだ。それ以上での以下でもないんだ。今、あなたの目の前にあるこのモノをただ見てくれ!」

そのような本当に純粋な塊となったモノがドナルド・ジャッドの作品なのです。

もう少し突っ込んだ話。実はミニマルアートは「純粋な物体」ではない?

抽象表現主義の最終形といわれるミニマルアートですが、マイケル・フリードという評論家が「演劇的」という言葉を用いて批判します。

「えっ、ミニマルアートって、形や色を極限まで削ぎ取って最後に残ったモノだと言っているけど、鑑賞者が作品の周囲を動いたら素材の表面に映る光や影とか見る角度によって刻々と光景が変化するんじゃないの?」

また「瞬間的な無時間性(いつ見ても同じ体験を得ることができる)」
という言葉を用いて「むしろ、いつ見ても同じ構図や色に映る古典絵画やマネやセザンヌの作品のほうがいつも ”いま・ここ” にあるんじゃないの?」
とも批評しています。

そして、この「演劇的」と「瞬間的な無時間性」に対する問題意識は、
のちにリチャード・セラなどの彫刻家たちに継承されていくことになるのです。

同時にそれまでの「絵画ための絵画」と言われる作品や「芸術(アート)とはこのようなものである!」と声高に叫ぶ○○主義や○○イムズと言われる大きな動きは終わりを告げ、「これもアートなんじゃないの?」という小さな個人の物語的な表現が起こり始める時代へ突入していくことになるのです。



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参考文献

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