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「男と女」

2019年7月5日金曜日。
映画「モデル 雅子 を追う旅」公開21日前。

雅子が筆頭に挙げる、お気に入りの映画だ。
あらためて、自宅で観た。
この年齢になって、
一本作ったあとだからこそ、
気づくことが山程ある。

映画記録係の女・アンヌ。
レーシングドライバーのジャン=ルイ。

シーンごとにカラーとセピアが入れ替わる手法も、寄りからぐーっと引くカメラワークも、ほんの一瞬インサートしては逃げるカットワークも、時代を超えてモダンだ。

ドーヴィルの潟と海と空、その光と陰、波と風、フィルムに捉えられた全てが、まるでそこにいるかのように迫る。原風景たる力を備えた美しさがある。

そして60年代のレーシングシーン。70〜80年代、子供の頃に数々のテレビCMの向こう側に透かして見えた、ヨーロッパの自動車ロマン。荒れ気味の舗装のテストコース、重く冷たい曇り空を切り裂いてカッ飛ばすフォード・マスタング。ここにも既に、カースポーツ映画の撮影における、基本と王道が同居している。

海と空、荒れた道と車、子供の頃から憧れていたものが、飾りなく悠々とそこにあり、その様が美しい。とてもいい。

ダンディの極致たるトランティニヤンが、モンテカルロからパリ、パリからドーヴィルを走り抜ける中でそのダンディズムを脱ぎ捨て、少年のように期待を爆発させる。

アヌーク・エーメが、言葉が失うほど美しい。この造形でこの表情。海辺に駆け付けたジャン=ルイと抱き合ったときの確かな質感。風になびく髪の一本一本まで、煙草を挟む指の先まで、飾らないままに、徹底して美しい。

物語は、描く人間のそれまでの人生と、彼/彼女の想像力との掛け合わせ。ルルーシュは若干28歳でこれを撮った。どれほどの人生と想像力を備えていたのだろう。そして彼は「こうあれば美しい、こうあればカッコいい」という、表層的ではない、感情と衝動から湧き出る「美」を具現化させた。エーメとトランティニヤンなんて美の権化を連れて来れたなんて、ある意味奇跡だ。

浜辺を往く男と犬。穏やかな日はゆるりと歩き、二人が抱き合う瞬間に犬ははしゃいで走り回り、二人が別れるときにはよろよろと小雨に打たれる。「芸術より人生」と語らせるルルーシュ自身が、芸術的なカットで二人の内面を描き出す。カメラはただそこにあり、観る側の目を二人の目にしている。

互いに伴侶の死を背負って生きる。時々にその死は深い影を落とす。しかしそれを背負ったままでも、各々が生への衝動を開花させる。列車内のアンヌと車中のジャン=ルイのカットバック、積み上がる感情。

あくまで物語をリードするのはジャン=ルイ。僕が観るに、これは男の映画。愛とロマンを追う男の映画。なのに雅子はこの映画をお気に入りの筆頭に選んでいる。なんてことだ。なんて映画なのだ。ただ美しいだけで、女性である雅子は魅せられたのか。その美しさの奥に何かがあるとして、雅子はそれを何だと感じたのだろう。聞きたいことがまた増えた。どうすれば良いんだ。

男と女の背後にあるのがたまたまレースと映画だが、それを例えば会社仕事と医療の仕事に入れ替えても、本質は変わらない。時代が変わっても、ドーヴィルの海と空は変わらない。そして男と女の間の感情も変わらない。変わりゆくものの中で、変わらないものを拾い出して組み合わせて描き、感情と感覚に訴える、それが物語の役割なのかもしれなくて、ルルーシュは「男と女」を作ることでそれに気づいたのではないか。

映像が励起する、感情と感覚。60年代の風景と風俗だからこそ、訴えかけてくる身体感覚。美味そうな煙草、分厚くて重いが温もりがありそうな衣服、寒そうな風景の中息を弾ませて歩き走り抱き合う。人間の生き物としての感覚が、観る側に励起する。あの場にいて、肌寒いヨーロッパの風を受けながら歩きたくなる。

雅子が若い頃、パリからドーヴィルまで一人車で旅した、と言っていた。
その衝動がよく分かる。
それをしたいがために免許を取ったとまで言っていた。

雅子は東京では、ヨロヨロ発進で車庫入れも怪しかったのだが。

映画「モデル 雅子 を追う旅」公式サイト

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