村上龍「69」 忘れてはならないもの

僕は疲れたときや、何か悩み事があると村上龍の「69」を読むことにしている。なぜなら、僕が忘れてはいけないものが書いてあるからだ。

忘れてはいけないものとはなにか?

怖いもの知らずの無鉄砲さからくる反骨心、そして楽しさに忠実であることだ。

この話の時代背景は安田講堂事件があったころ、つまり学生運動の最盛期だ。主人公の矢崎は佐世保という米軍基地のある街でその時代の影響を受けながら、ロックや詩を語るような高校生だ。彼の行動原理は「モテたい」であったり、「周りの大人への反骨心」であったりする。そういう彼が愉快な仲間たちと、「反戦」や「反権力」といったものと自分たちの馬鹿な行動原理とエネルギーをミックスして学校史上に残る大事件を起こすのだ。しかし、それは「モテたい」とか「周りの大人への反骨心」から起こしたことであり、決してそこに「反戦」や「反権力」といった思想があるわけではない。その事件の是非はともかく、彼らは思い立てばすぐ行動する。そして、それをとにかく楽しんでいる。この作品はそういった無垢で、エネルギーがあって、とにかく楽しんで生きている人々を描いた話なのだ。

彼らの怖い者知らずの無鉄砲さからくる反骨心とすさまじいエネルギーと行動力、そして楽しむことへの忠実性これが組み合わされば最強なのだ。人生において考えることや悩むことは無駄なことなのではないかこの小説は僕をそういった気にさせる。とにかく、なにか行動したくなるのだ。楽しいことをしたくなるのだ。

僕は、彼らのようなすさまじいエネルギーと行動力をもって過ごす激動の青春は経験していないし、彼らが過ごした学生運動の最盛期がどのようなものかもわからない。しかし、彼らと通ずるなにかはある。あの頃はとにかくモテたかったし、周りの大人や社会への反骨心はあったし、将来に怯えず今を楽しみたかった。そして、自分なりに楽しんでいた。大人に従順な人々があほらしくも見えた時でもあった。そして、小説とか思想書とかそんなに読んでないのにあたかも読んだかのようにロマンチックに語ってみたかった。今思ってみれば、馬鹿らしくも尊くも思えるのだ。

僕が疲れる時。それは、自分がわからなくなったときや将来への漠然とした不安、本当に自分はこれで良いのかなんて考えて、それでも答えが出ず、沈み込んでその場で停滞してしまうときだ。あの頃の思いを忘れてしまうのである。

そんなときに69を読むと思う。僕は、自分が本来持っていた反骨心や楽しむことへの忠実性をどこか悪いもの、甘えとしていつしか避けるようになってしまっていたのではないかということである。確かに、周りの大人や賢明な人は汗水流し、嫌なことでもやって歯を食いしばって生きている。そんななかで反骨心や楽しむことに罪悪感を覚えるのは当たり前だ。しかし、それはよく考えると相対化による罪悪感であってこの登場人物のように反骨心や楽しむことへの忠実な気持ちを持って生きてもよいのである。僕たちはもっと絶対的にエネルギッシュに、無垢に生きられるのだ。

69それは、反骨心や楽しむことを忘れ、エネルギーを失った僕に再びガソリンを注いでくれるような作品だ。だから、僕は疲れて日常がフラットになりそうになった時にこれを読むのだ。

僕は、あの頃抱いた思いを「あんなときもあったな。」なんて、冷笑はしたくない。あの頃抱いた大切な思いを今も共に生きていたいのだ。

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