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私の両親は共働きでした。
幼稚園児の頃から家で待ってくれているのは、同居していた父方の祖父でした。(私が通っていた幼稚園はお迎え不要で、集団で帰宅していました)

祖父は毎日玄関まで出てきてくれました。

「お~帰ってきたか。美味しい菓子があるよ。」

祖父の部屋に入ると、煎茶と和菓子を用意してくれていました。
当時私は、ほぼ毎日和菓子を食べていました。
今でもケーキよりも「あんこ」派です。

ある日、いつものように祖父がいる和室でのんびり和菓子を食べていると、突然祖父が涙を浮かべてこう言いました。

「2回目の奥さんを馬車の駅まで送って行ってなぁ……
さようなら、さようならと、見えなくなるまで手を振って別れたんや。」

このセリフ、50年以上前に聞いたのですが、今でもハッキリと記憶にあります。

 ↑  ↑
馬車鉄道というそうです。祖父が言う 大正時代の光景は、このようなものだったかと思います。

2回目?別れ?

幼稚園児だった私には意味がわかりませんでした。
しかし、祖父にとても悲しい事があったのだというのは感じました。


「何も聞かないほうが良いのかな?」と感じました。

その後何年も立ってから私の父が言うには、
祖父の母親は、嫁に対してとても厳しい人だったそうです。
1番め、2番めの嫁は気に入らなくて、無理やり離婚させたのだとか…。

そして祖父の母親が亡くなった後に嫁いできた3番めの嫁は、2人の娘を残して、26歳の若さで病気で亡くなったそうです。

その後、4番めに嫁いできたのが私の祖母です。

祖父は商才に長(た)けた人だったそうです。先代が始めた商売の後を継ぎ、大きく広げました。
引退して10年以上過ぎた85歳の時、外で倒れて病院に運ばれ、そのまま意識が戻らず亡くなりました。脳卒中だったそうです。
私は15歳(高1)になっていました。

幼稚園児の私の前で、涙ながらに思い出を話してくれた祖父。誰にも言えない気持ちが抑えきれなくなって、茶のみ友達の私に思わずこぼしてくれたのでしょうか?

祖父の死は、私にとって物心ついてから初めての家族の死でした。

「おじいちゃんは100歳まで生きる!」と信じていましたので、大ショックでした。

祖父のお葬式の日、家族の焼香で立ち上がる時です。
私はバ~ン!と派手に転んでしまいました。

足のしびれ!
痛さと恥ずかしさで、しばらく動けませんでした……

たおたおってこういう者です。↓  ↓

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