見出し画像

【古典ゼミレポート】ウィトゲンシュタイン『哲学探究』#04~06 言語を習得することは、対象に名前を付けることである?【ソトのガクエン】

皆さま、こんにちは。ソトのガクエンの小林です。

古典ゼミのレポートがすっかりおろそかになってしまいました。前回の7月8日ですでに第6回目が終わり、『哲学探究』も第二章に突入いたしました。とはいえ、ページ数で言えば一ヶ月かけて20ページ進んだだけなので、『哲学探究』第一部に限っても、全体が345ページほどありますので、単純計算であと17ヶ月かかることになります...。どこかで区切りをつけますが、しばらくはゆっくり読み進めることにしましょう。

前回、7月8日(土)は第二章「「名」と「単純なもの」ー『論考』形而上学の中心概念の批判的吟味(26‐64)」に入りました。本書の小タイトル、小見出し、要約等はすべて訳者によるものですが、本章で『論理哲学論考』の言語観への自己批判が始まるということになります。今回、パラグラフ番号でいうと、26~28節まで読みました。

今回読んだ箇所の要点としては、言語を習得することは、対象に名前を付けていく作業であり、これは語を使用するための準備であると言われます。では、「語を使用するための準備」とははたして何のための準備なのかということがさらに問われます(このあたりの読み方も色々解釈できそうで、当日も議論になりましたが、一応、こう読むことにしておきます)。

ここでウィトゲンシュタインは、対象に名前をつけるといえども、「水!」「失せろ!」「ああ!」「助けて!」といった、とても対象の名とは呼べないような言語使用を持ち出し、私たちの言語使用の多様さを指摘します。そして、名を指し示しによって説明するという行為もまたひとつの言語ゲームであると述べます。
さらに、指し示しによる説明、すなわち直示的説明もまた、無数に解釈可能であり、指示対象が不確定であることが述べられます。たとえば、ナッツを二つ並べて数2を教え、これを理解したとしても、「数2」がナッツが二つ並んでいることの名前として理解した場合、リンゴが二つ並んでいるのを見ても、それが何か答えることができません。このとき、数2を数詞としてではなく、ナッツという物の集合の名前として学習してしまっていることになります。このように、私たちは、人名、色名、物質名、数詞、方角名などを直示的に定義することができると直観的に理解していますが、「直示的定義というものには、どんな場合にも様々に解釈される可能性がある」ということが分かります。ただ、ウィトゲンシュタインは、この議論を受けて、ナッツの集まりが2と呼ばれるのだと思うかもしれないが、実際にはおそらくそうは思わないだろうと但し書きしているのが面白いですね。

当日の議論としては、ウィトゲンシュタインの文章そのものの理解についての他、物に名前を付けるということがはたして語の習得であると考えて良いのか等、さまざまな論点が議論されました。興味深かったのは、ある参加者の方が、対象に名をつけるためには、それに先立って、対象を他の対象から区別できていなければならないのではないかと疑問を呈しておられたことでした。言いかえると、言語的区別以前に認知的な区別があるのではないかということですが、いわゆる「言分け」と「見分け」構造の区別と関係を巡っては、後者が前者に先立つ、前者が後者に影響する、前者と後者が同時等々、さまざまな論点と可能性があるということについてお話ししました。ただ、言語獲得以前に、環境からの刺激を受け、何かしらの応答をしている、ある種の「ファジー」な状態があるはずで、そこからいかに「見分け」や「言分け」構造が発生するのかという論点について皆さんと興味深い議論ができました。これに関して、昔読んで勉強になった、郡司ペギオ‐幸夫『生きていることの科学』(講談社現代新書)を紹介しました。その場でAmazonを確認すると、kindle版が357円で売っていて、現時点(7/11)でもまだこの値段で買えるようなので、この機会にぜひおすすめします。


次回は、7月15日(土)22時から、43ページの29節「ひょっとすると、「この数が2」だのように言わないと」から読んでいきましょう!

*****

ソトのガクエンが実施しています、現代思想コース/哲学的思考養成ゼミでは、月定額で、基礎力向上ゼミ、古典読解ゼミ、サブゼミ、原書ゼミ、自主勉強会のすべてに自由にご参加いただけます。毎回のゼミの様子は録画しており、アーカイブとしていつでもご覧いただけます。現在、メンバーを募集しておりますので、興味・ご関心お持ちのかたは、ソトのガクエンのHPをご覧ください。

皆様のご参加をお待ちしております。
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?