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読んだだけでは駄目だ。眺めるのが大事なのだ。

文学というものは、君が考えているほど文学ではないだとか、文学を解するには、読んだだけでは駄目で、実は眺めるのが大事なのだ、という妙な言葉で、人に語った事がある。

『井伏君の「貸間あり」』「小林秀雄全作品」第23集p59

「読んだだけでは駄目で、実は眺めるのが大事なのだ」とは、いったい、どういうことだろうか。

これが、「眺めているだけでは駄目で、よく読むことが大事なのだ」とあれば、何ものどにつかえることなく飲み込める。またもや小林秀雄によく見られる逆説表現なのだろうか。

「という妙な言葉で、人に語った事がある」について、脚注では『コメディ・リテレール 小林秀雄を囲んで(座談)』『対談/伝統と反逆 坂口安吾・小林秀雄』(いずれも「小林秀雄全作品」第15集)とある。だが、「文学というものは、君が考えているほど文学ではない」に相当する発言はあるものの、「読んだだけ…」に相当する文言は確かめられない。

『私の人生観』から『対談/人間の建設 岡潔・小林秀雄』へ、さらに『地主さんの絵Ⅰ』と進み、『井伏君の「貸間あり」』と話が連なった。ここで、起点となった『私の人生観』に戻ろう。もともとは「美の問題」について小林秀雄は語っていたはずだ。

「美」とあるとき、最終的にたどりつくのはいつだって『美を求める心』(「小林秀雄全作品」第21集)である。すると早速「見ることも聴くことも、考えることと同じように、むずかしい、努力を要する仕事なのです」(p244)とある。

私達が、普通、私達の生活の中で、どんな具体に眼を働かせているかを考えてみるとよい。特になんの目的もなく物の形だとか色合いだとか、その調和の美しさだとか、を見るという事、わば、ただ物を見るために物を見る、そういうふうに眼を働かすという事が、どんなにすくないかにすぐ気が附くでしょう。

『美を求める心』「小林秀雄全作品」第21集p245

われわれが文学を解する、すなわちわかるために、「物の形」「色合い」「調和の美しさ」を、本当に眺めているだろうか。それは難しく、努力を要する仕事のはず。ただ「読む」という行為はしていても、「物を見るために物を見る」というように眼を働かせているだろうか。

「読んだだけでは駄目で、実は眺めるのが大事なのだ」とは、いったい、どういうことなのか。そう考えていることがすでに、難しい仕事で努力を要し、「物を見る」ように眼を働かせている。

さらに『美を求める心』では、山部赤人の歌を例に引いている。歌人は、日常の言葉を綿密に選択し、さまざまに組み合わせ、はっきりした歌の姿、詩の形を作り上げる。言葉には、意味だけでなく、姿や形というものもある。赤人は、感動を言葉に現したというより、言葉によって、感動に姿を与えたと小林秀雄はいう。

美しいと思うことは、物の美しい姿を感じる事です。美を求める心とは、物の美しい姿を求める心です。絵だけが姿を見せるのではない。音楽は音の姿を耳に伝えます。文学の姿は、心が感じます。だから、姿とは、そういう意味合いの言葉で、ただ普通に言う物の形とは、恰好とかいうことではない。(中略)姿がそのまま、これを作り出した人の心を語っているのです。

『美を求める心』「小林秀雄全作品」第21集p252

「文学を解するには、読んだだけでは駄目で、実は眺めるのが大事なのだ」という、この言葉そのものに「姿」があるのだ。そのまま、小林秀雄の心を語っているのだ。

サクサク読める。リーダビリティがいい。1時間で一気に読んでしまった。読書に、そんな言葉が被せられて久しい。年間○○冊読む私のオススメとか、一日一冊毎日書評といった、数字で読書を表す輩も多い。かつて小林秀雄は本居宣長の連載について「あんまりはやく書いたら、恥ずかしい」ということを述べていたが、小林秀雄の心持ちを思い浮かべるなら「あんまりはやく読んだら、恥ずかしい」とでも言って、心ゆくまで熟読玩味するだろう。

読んだだけでは駄目なのだ。「姿」があらわれるまで眺めるのが大事なのだ。

(つづく)

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