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アゴタ・クリストフ『第三の嘘』

少し感傷的になりながら、アゴタ・クリストフ『第三の嘘』を読む。『悪童日記』『ふたりの証拠』に続く三部作の完結編である。

アゴタ・クリストフの母国であるハンガリーを思わせる国のはずれが舞台となり、第二次世界大戦の戦火を双子の少年たちが生き抜いた『悪童日記』。その双子の一人が成長した青年リュカが、亡き母親に似た女性を慕いつつ、血のつながらない不具の少年に情愛をかける『ふたりの証拠』。

そして、ベルリンの壁が崩壊し、西側と東側で行き来ができるようになった時代を思わせる『第三の嘘』では、第一部で、中年となった双子のもう一人、「クラウス」が語り手となり、かつて疎開した<小さな町>に向かう。中央広場の向かいにある書籍文具店を訪れた後で、さらに疎開前の幼い子ども時代まで記憶をたどり、自らの来し方を述懐する。第二部では、やはり中年期を迎えた「リュカ」が語り手となり、「クラウス」と再会したときに手渡されたあの大きな帳面を読んだあとで、自らの物語を書き足していく。

双子であっても、「リュカ」と「クラウス」と名前が明かされ、それぞれの個が描かれるようになってから、戦火に追われた幼い頃のとらえ方や、お互いに抱く感情は食い違ったり、すれ違ったりする。「ぼくら」と語り一心同体だった『悪童日記』とは対照的に、二人の名前を、ここではわざわざ「リュカ」と「クラウス」というように、括弧つきで記さなければらなないほど、お互いを深くもとめているのに、求めれば求めるほど溝の深さがあらわとなり、それぞれの孤独も深まっていく。もともと装飾を排し、淡々と単文を連ねていく文体ゆえ、その寂しさが重くのしかかる。読み進めるほど、いったん本を閉じ、物思いに耽ることが多くなる。結末で、「クラウス」がとった行動は、「リュカ」が<いい考えだな>とつぶやくようなものではない。三部作をとおして双子の生き方をたどり、本書で二人の来し方をともに生きてきた読者として、終幕はさらに寂しさが深まる。

なぜ、二人はそんなに孤独なのだろう。『悪童日記』で描かれた、ナチスドイツと、それを支援する同胞たち。そして『ふたりの証拠』で描かれた、ナチス排除後のソビエトによる共産主義体制と、それを支持する同胞たち。そんな支配者たちを、もはや信用することができないのは、よく分かる。そうやって社会とのつながりを拒み、地域に暮らす人々との交わりを最低限にして、裡にうちにと篭っていく。安易に迎合することなく、精神性を強く保とうとする気高さは第一作から変わりないが、それで二人はより孤独感に苛まれ、孤立していく。読んでいて痛ましいのは、こちらに心当たりがあるからか。既視感を覚えるからか。

そして、著者アゴタ・クリストフは、『第三の嘘』は自伝的な作品であるといっても過言ではなく、「クラウス」は著者自らの来し方を意識し、「リュカ」は著者の兄を意識して書いたと語っている。創作はあくまでも創作であり、いくら自分をモデルにした小説だとしても、登場人物と著者を同一視する読み方は、まかりならぬものだ。

それでも、心を鷲掴みにする物語に出会うと、それを書いたのはどんな人物だろうか。どんなことが筆者を創作に駆り立てたのか。物語は人生を変えるのか、救うのかといった、作家そのものに関心が向く。祖国ハンガリーの、戦中戦後の不安定な時期を生き、難民となってスイスに逃れてから、母語ではないフランス語で『悪童日記』を書いた心持ちというのも気になる。どうやら自伝はあるようだ。ひょんなことから始まった読書が、みずから力を得て、歩き出す。

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