大河ファンタジー小説『月獅』32 第3幕:第10章「星夜見の塔」(1)
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第3幕「迷宮」
第10章「星夜見の塔」(1)
群青の闇を月がうすく照らしていた。
シキは星夜見の塔へと続く石段を、銀水を満たした手桶を提げてあがる。塔までの石段は「星の径」と称し、石英のかけらが埋め込まれている。それらは星の位置によって光る場所が変わる。塔までの道は幾筋も枝分かれしながら螺旋でのぼる迷路になっている。光が示す道しるべに従って登壇しなければならない。あやまてば、銀水はたちまち蒸発し霧散する。シキはときどき夜空を見あげ星の位置をたしかめながら径をたどる。闇が怖くなくなったのは、いつからだっただろう。こうして闇夜をたどっても、もう震えることはない。青いローブの丈は膝上までと短く、その下に短袴を履いているから歩きやすくはあるのだが、肩から下がっている前垂が時おり突風にあおられ、顔を塞ぐのがやっかいだった。風に乱されぬようシキは総髪に切りそろえた黒髪を頭の高い位置で結っている。きつく結ったつもりだったが、後れ毛が顔に貼りつく。急いでいたため鬢油を塗り忘れた。
ラザール星司長様はきっと今夜も星夜見をなさるだろう。星盤に注ぐ銀水は欠かせない。急がなければ。このところまた不穏なことが続いている。
二年前に星が四つ、次つぎに流れた。それと前後して、レルム・ハン国には厄災が続いている。
一つの災いが次の災いを招き、それがまた次の綻びを生み、互いに縺れ連なる鎖となって、この国の中枢をがんじがらめにしていく――そのような予感がしてならないのだよ、とラザール様はおっしゃり、常にも増して星夜見に精勤されるようになった。
かれこれ五日も塔に籠られたきりである。シキはこの国の行く末よりも、五十をとうに超えているラザール様のお体のほうが心配だった。もうたいせつな人を失うのは嫌だ。
五年前の七歳の夏にシキはラザールに拾われた。
シキが七歳になってまもない頃、村が賊に襲われた。
母はありったけのパンと革袋に入ったミルクをシキに持たせ、怖がらないようにと父はシキの耳に綿を詰めて塞ぐと、シキを床下の甕に隠した。
「けっして声を立てるな。怖くてもそこから出るな。床の上が静かになっても、パンとミルクがなくなるまでは出るんじゃないぞ」
父と母にきつく抱きしめられた。母がシキの顔じゅうにキスをする。その手が震えていた。「生きるのよ、シキ」と、頬ずりした母の涙がシキの頬をしめらせた。
父がシキを甕に降ろし、蓋が閉じられ、シキは闇に閉じ込められた。
木蓋にはところどころ隙間があり微かな光が漏れていたが、シキは固く目をつぶった。ほのかな明かりはかえって、暗くて狭い甕に閉じ込められていることを思い起こさせる。目を閉じていれば忘れられる。シキはひたすらに祈り、眠った。どのくらいの時間がたったのか、いや、何日がたったのかもわからなかった。シキは目を開けずに手探りでパンをかじりミルクを飲んで、また眠った。
父さんの言いつけを守り、パンとミルクが底をつくまで甕のなかで膝をかかえてうずくまっていた。ずっとそうしていたかった。床の上がどうなっているかを知るのが怖かった。
――生きるのよ、シキ。
母さんの声がどこか遠くで聞こえたように思った。空腹が聞かせた幻聴かもしれない。だが、それが朦朧と怯えるシキの背を押した。
つぶっていた目を開けた。蓋の隙間から弱よわしい光がこぼれている。埃がそのかすかな光の筋をくるくると回ってのぼる。
シキは甕の縁に手をかけて立ちあがった。頭に押されて蓋が落ちる。そのまま上体を引きあげ、甕から這い出た。甕は床下の土に半分埋められている。シキは耳に詰めていた綿をはずし、床上の物音をうかがう。
ピチチチチ。鳥のさえずりが聞こえた。ネズミだろうか。小動物が走る細かな足音がした。他に物音はない。父さんや母さんの声や足音は聞こえなかった。
シキは頭上の床板をそろりと持ち上げ、床上に顔を出した。
突然の闖入者に驚いたネズミたちが、いっせいに走り出し壁の穴から姿を消した。床には小麦粉が撒き散らされ、棚に並べてあった瓶類を薙ぎはらったのだろう、割れたガラスが散乱し、酢漬けの汁だろうか、べとべとしていた。父と母の姿はない。人のけはいはなかった。
表の扉が開いていて、ぎぎーっと風に軋んでいた。
シキはガラスのかけらを踏まないように気をつけながら戸口に近寄り、開いた隙間から外をうかがった。三メートルほど先に若草色の衣の裾が見えた。別れるまぎわ母は若草色の長衣を着ていた。
シキは扉を大きく開けた。久しぶりの光に目がちかちかする。
瞳を眇めて地面をなぞりながら、若草色の衣へと視線を走らせる。こげ茶の短衣にズボン姿の父が母をかばうように折り重なっていた。父と母はシキを守るために、わざと家から出て賊の注意を自分たちに引き付けたのだろう。
シキは裸足でよろよろと近づく。
父の背は肩から腰にかけて斜めに袈裟斬りにされ、赤黒く血が固まっていた。母はどこを斬られたのだろうか。伏せたまま流れた血は土と混じって、わからなかった。母の左手を両手で胸にとると、シキは、ぐうっ、ぐふっ、ぐうっと奥歯を噛みしめながら泣いた。空を見あげ、唇を嚙みしめ声をたてずに泣きじゃくった。
――生きるのよ、シキ。
風にのって母の声が聞こえた気がした。
シキは涙でかすむ目で辺りを見回した。村人が幾人も斬られ土をつかんで倒れている。柳が風に揺れていた。村には人のけはいがなかった。もう誰もいないのかもしれない。
七歳のシキに墓を掘る力はない。
いつか戻って来たときにわかるようにと、ドングリを植えた。花を摘めるだけ摘んで両親の亡骸の上から降らせた。
「父さん、母さん。ごめん、ごめんね」
父と母の服からボタンを一つずつ引きちぎり、たいせつにポケットにしまい込んだ。
そうして家に戻ると、わずかに残っていた食料を袋に詰め込み、シキは家を出た。
生きようと思った。父と母が守ってくれた命を生きようと。涙でぐしゃぐしゃの顔で決意した。
見あげた空には、雲がひと筋まっすぐに伸びていた。
――あの雲の指す方へ行こう。
(to be continued)
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