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大河ファンタジー小説『月獅』第1幕「ルチル」<全文>

天、裁定の矢を放つ。
光、清き乙女に宿りて天卵となす。
孵りしものは、混沌なり、統べる者なり。
正しき導きにはごととなり、
悪しきいざないには禍玉まがたまとならむ。 

『黎明の書』「巻一 月獅珀伝」より跋

第1幕「ルチル」

第1章「白の森」

 ヴェスピオラ火山の火口から、何かがまっすぐに天に向かって弾丸のように飛びたった。

 同じ鷹の翼を大きく広げ、ライオンの下肢をもったグリフィンが一頭、鋭いひとみを光らせ、天界と下界をつなぐ雲の裂けめでホバリングしながら仲間の飛来を待っていた。
「ようやくのお目覚めか」
「どれだけ経った?」
「五百と五十年だ」
「五百五十年か。下界はどうなった?」
「あいかわらずさ。行くのか」
「ああ。今度こそ黄金を守りぬく」
 言うが早いか、ビュイックはまた弾丸と化して下界へと急降下した。
 愚かな人間のためにビュイックが二度と傷つかぬよう、アズールは波打つ雲の海原の一点をみつめて願った。そうして、翼をひと振りすると天へと還っていった。

* * * * *

 はぁ、はぁ、はぁ。
 男物の緑のマントをはおり頭巾で顔を隠した女が、息も絶え絶えに白の森の樹々のあいだを時おり天を仰ぎながら走る。肩から大きな布の包みを胸の前に斜めに架けていた。地面を裸足で踏みしめたことなど、ほとんどなかった柔らかな足裏は、盛りあがった根や落ちた小枝、栗のいがやごつごつした石に傷つけられ、裂けて血が滲んでいた。なめし革の靴はとうに破け、脱ぎ捨てた。
 白の森の王はご無事だろうか。
 頼るのではなかった。森の力が弱まっている。

* * * * *

 かつては人が足を踏み入れることなどかなわないほど樹木や蔓草が生い茂り、白銀の葉が上へ上へと重なり、日の光はそれらの間を縫って幾筋も降りそそいでは白肌の樹皮に反射して神々しかった。光の森。そう讃えられることがふさわしいほど森は輝いていた。森の奥にある王の玉座は「萌えのしとね」と呼ばれ、王が横たわると色とりどりの若草や花がよろこびの声をあげて芽を伸ばし絡まり王をもてなす。王が踏みしめた地面からは草が生い、息を吹きかけると真珠色の花が咲く。森は王の気力と精神を反映する。クッションよりもふかふかと弾力のあった褥も、今や銀苔は剝げ落ち若芽は枯れ、ところどころ黒ずんだ土壌が露わになっている。
 それでも白の王は毅然として在り、おのれに助けを求める生命を褥に受け入れ庇護する。それがたとえ、森の力を削ぐ元凶となっている人族に属するものであろうとも。

 
 ルチルは幼き日に迷い込んだ白の森をめざした。
 ときどき立ち止まってこちらを振り返るトビモグラの背を追いながら、暗い地下の穴道を駆ける。もう一匹がルチルの背後を護っている。追手をかわすため父が用意してくれた案内人たちだ。縦横無尽に張り巡らされた地下迷路は、彼らにとっては慣れた道でも、灯りも乏しく随所に石や根が走っていてルチルは何度もつまづき、転びそうになった。
 ――白の森の王なら助けてくださるかもしれない。私はどうなってもいい。この卵だけでも森が護ってくれるなら。
 森の入り口は蔓や樹々によって閉じられている。立ち入ろうとすると、いっせいに枝が伸び搦めとられ排除される。入れてもらうには、ひざまずいて祈るしかない。心からの祈りが王へ届けば、森は開かれる。

 
 ルチルは六歳の夏の日を思い返した。その夏いちばんの暑さの日だった。
太陽がぎらぎらと照りつけるさなか、優しいけれど口うるさいナニー(世話係兼教育係)のカシの目を盗んでオビ川べりの草原に出かけた。こっそりと屋敷を抜け出たものだから、帽子をかぶるのを忘れた。

「白の森に用もなく近づいてはならぬ」
 もの心ついた頃からおとなたちに諭されてきた。古くからの掟なのだと。
 広大な白の森を囲うように四つの村がある。北にノルテ村、西にオクシ村、南にスール村。そして東にあるのがエステ村だ。
 森に害をなさなければ満月の夜に森の恵みは、村ごとに築かれた遥拝殿に山と積まれる。それを日の出とともに人びとは恭しくいただき、感謝の祈りを奉げる。人はむやみに森に近づかない。かわりに森はその恵みを等しく分け与える。互いに互いの領分を犯さないことで、白の森と人は千年あまりつつましく幸せをわかちあってきた。
 ルチルの家はエステ村の領主だ。
 古くは小さな村の村長むらおさにすぎなかった。それがレルム・ハン国が白の森とその周囲の四村も治めるようになった五百年あまり前に、税を納める代わりに領主となり、王国の貴族の末席に名を連ねることとなった。だからといって、大きく何かが変わったわけではない。与えられたのは貴族の称号だけで、税を取り立てられるぶん村の暮らしは厳しくなったといっていい。それでも、つつましくあれば平穏だった。
 太陽の昇る東のなだらかな丘陵地にあるエステ村は、果樹や畑の実りに恵まれていた。領主の邸宅は陽当たりのよい丘の上ではなく、丘の麓の白の森の近くにあった。代々の領主が村人や村の実りを何よりもたいせつにし、自分たちの役割は村と白の森を護り、森への祈りを奉げることであるとしてきたからだ。古くは東の遥拝殿を護るように、その脇に屋敷をかまえていた。だが、五代前のあるとき、領主が森の恵みを独占しているという噂がたった。そんなことはないと反論する村人のほうが多かったし、お館様が少しくらい多く取るのは当然だという者もいた。だが、それが村を二分するほどの論戦となり、噂を噂として放置できなくなった。

 村の平安を重んじた五代前の領主イカルは、屋敷をオビ川の対岸に移した。およそ三百年前のことだ。
 村には北のノリエンダ山脈から川が流れている。ノリエンダ山の豊富な雪解け水を集めた小川は、白の森の北の先端で二本に分かれ、一本は森の東に沿って流れオビ川となる。もう一本は森の西側を迂回するイビ川だ。だが、実は三本あると云われている。いにしえには、川は三本に分かれていて、真ん中の一本は白の森へと流れ込んでいたそうだ。ところが、川をつたって白の森に侵入し、毛皮を求めて毛ものたちを乱獲するやからが後を絶たず、怒った森の王は川を地中深くに沈めたという。その川、かつてのルビ川が今はどうなっているかを知る者はいない。
 イカルは邸宅を移すと同時に、今後このような争いが起きないように、また、森を護るためにも、森のまわりに緩衝地帯を設けることを決めた。オビ川と白の森の間は村の土地とし、そこに家を建てることを禁じた。以来、オビ川と森のあいだには草原が広がっている。牛たちが草をはみ、鳥が河原でさえずる。子どもたちにとって、かっこうの遊び場だった。

 草原は広く、川と森に沿って長い。
 オビ川には橋が五本架かっている。一本は遥拝殿の参道へとつづき、その南に一本、北に三本の橋がある。子どもたちはたいてい参道より北側の一本目か二本目の橋をわたった原で遊ぶ。
 その日、ナニーのカシに見つからず屋敷を抜け出したルチルは、北側のヌフ橋を渡った。カシを出し抜けたことなどこれまでなかったから、それだけで胸も足もはずんでいた。
 橋は北に行くほど川幅が狭くなるぶん粗末になる。最も北にある橋はただの丸木橋で名前すらついていない。たいていの者は、北の橋と呼ぶ。ヌフ橋は参道に架かるビザ橋についで立派だ。いや、立派というのは正確ではない。なんの飾りもないただの木の橋で、かろうじて欄干があるにすぎない。草原に放牧される牛や羊が通るため頑丈で幅が広いだけだ。
 ルチルはヌフ橋を渡ると伸びあがって遊び相手はいないかと草原に目を走らせた。ルチルのことを揶揄からかうトートたちはいないだろうか。いつもカシに手をひかれて草原にやって来るルチルを、村の悪ガキどもはばかにした。この年頃の子どもは領主のお嬢様だろうと容赦ない。「ひとりで橋も渡れないんだぜ、きっと」「おっばいをまだ飲んでるんじゃないか」などと囃したてるのだ。だから、カシに見つからず屋敷を抜け出せたことを自慢したかった。
 陽射しの暑さに牛たちも、まばらに点在する灌木の木陰で座りこみ、トートはおろか遊ぶ子どもはおらず、ずっと遠くまで見渡したが動くものの姿はなかった。太陽は真上にあって影も伸びない。
 ルチルはがっかりしたが、すぐにいいことを思いついた。
 ――今なら、誰にも見つからずに白の森に入れる。
 ――そしたらトートたちより、ずっとずっとすごいんじゃない?
 小さな胸に不意に湧きおこった考えは、とてもすばらしいものに思えた。暑さなんか忘れるほどに。こんなチャンスはもう二度とないかもしれない。
 ルチルはもう一度ゆっくりとあたりを見回す。ぐるりと一回転して背後も確かめる。大人にみつかったら、だいなしだもの。木陰でうずくまっている牛が蠅を追っぱらおうと頭を振る。他に動くものはない。
 ――よし、だいじょうぶ。
 あたりを警戒しながら白の森の方へと歩きだす。
 ふだんは牛たちが草をはむ傍らでかくれんぼしたり、追いかけっこしたり、自由に走り回っている。だから、放牧地を駆けたところで誰も見とがめはしない。わかっている。わかっているけど、これから禁忌を犯そうという背徳感が必要以上に幼いルチルの胸を高ぶらせ、全方位的に神経を逆立てさせた。ときどきさりげなく後ろを振り返り、大人の姿がないことを確かめると、少しだけ小走りする。ルチルは警戒しているつもりであったが、そこは六歳の浅はかさで、高い空の一点でホバリングしていた鷹の眼にはかえって不審な動きにしか見えなかった。
 太陽はルチルの愚かな行為を嘲笑あざわらうようになぶるように照りつけていた。
 首筋に太陽光が針のように突き刺さり痛くて、今朝カシが結ってくれた髪はとうにほどいていた。滲みでる汗に髪がまとわりついて気持ち悪い。だが、それをどうすればいいのかルチルにはわからなかった。いつもはカシが汗を拭ってくれる、太くてやわらかな手で帽子をかぶせてくれる。
 こんなにも白の森は遠かっただろうか。
 胸が苦しくなる。緊張しすぎて苦しいのか、歩きすぎて苦しいのか、暑さに意識が朦朧もうろうとしていろいろなことがわからなくなっていた。地表近くに張りついて淀む熱気に息もできない。白の森まであと少しなのに。足を振りあげても、振りあげても、前に進まない。熱に蒸された草の青い臭いで胸がむかむかする。目の前の風景がゆらゆら揺れ白く霞んで遠のいていく。
 息って、どうやってするの。思い出せない。
 ――ごめんなさいカシ、黙って抜け出して。言いつけを守らなくて。ごめんなさい、お父様。お母様、苦しい、助けて――。だれか。
 ルチルの体は揺れる陽炎に抱かれるようにスローモーションで崩れ落ちた。
 鷹が上空で旋回する。

 あともう少し寝かせてと、いつも思う、春の朝の幸せなめざめ。
「ほら、お嬢さん、もう、起きなせぇ」
 カシがカーテンを開ける。ヒバリのさえずりが聞こえる。瞼の裏が白く明るくなる。ふかふかのベッド。寝返りをうって布団を引っぱりあげ‥‥ようとして、手の先に布団がないことにルチルは気づいた。ベッドの下に落ちてしまったのかな? 
 細く目を開けると――。
 白くまばゆい光が真上からきらきらと降りそそいでいた。きれい――と思った。うわぁ、光が踊ってる。光の粒が高い位置からつぎつぎにくるくると舞いながら落ちてくる。ルチルはついさっきまで眠たかったことも忘れ見入っていた。あれ? お部屋の天井がない。どうして? 
 と、ようやく、その鳶色の目をみひらき、人ではないさまざまな毛ものの顔がルチルを取り囲んでいることに気づいた。一瞬で目が覚める。
 ――目を覚ました、目を覚ましたぞえ。
 ――やれ、よかった。死んでなかったんだなもし。
 ――あたいがそう言ったじゃにゃあか。
 ――なんじゃ、死んどらんのけ。ひさびさにうめぇ肉が食えると思ったっちのに。
 長い耳、とがった鼻、角が生えてる額、鋭いくちばし、牙がのぞく口、ホルンのように巻いた角‥‥。さまざまな異形いぎょうがのぞきこむ。口々に勝手なことを言って騒がしい。ばさばさと大きな翼が羽ばたく音もする。ルチルはなにごとが起こったのか理解できず、怖くて声が喉の奥できゅっと固まり、全身の筋肉が痙攣けいれんけいれんする。
「ああ、もう、やかましいね。お黙り」
 アライグマだろうか。でも、ちょっと違う。異様に耳が長い。お父様の書斎にある『絶滅生物』という図鑑で見たような気がする。たしかミミナガアライグマというのではなかったか。二本の後ろ足で立って、ルチルを取り囲む毛ものたちをふさふさとした尻尾で払いながら近づいてきた。手には大きな蓮の葉をもっている。
「さ、これをお食べ」
 蓮の皿にはピンポン玉くらいのぷるぷるとふるえる白っぽい半透明のゼリー玉のようなものが乗っていた。
 ――食べても大丈夫なのか。それよりも、ここはどこなのだろう? 
 確かめようと、ルチルはおずおずと体を起こした。寝ていたのはベッドではなくて、幾重にも重なった草の上だった。さまざまな植物や苔が層をなし、ベッドよりもふかふかして花や草のいい匂いがした。体を起こした拍子に、何かがルチルの額からぽろりと落ちた。拾いあげると、それは銀色に輝く苔の塊だった。触ると冷んやりする。熱を出すといつもお母様は濡らした手拭いで額を冷やしてくれる。苔が貼りついていたおでこを触ると、かすかに冷たかった。
「あんたはね、お日さんにやられて倒れとったんだよ。どれ」
 ミミナガアライグマはルチルの額に鋭い爪があたらぬよう、そろりと肉球部分をあてる。
「熱はさがっとるね。ほら、これをお食べ。喉が渇いとるだろ」
 ルチルはそっと指でつついてみる。ぷるんとした弾力があった。そのみずみずしい触感に体が反応したのだろうか、急に喉の奥が干あがってひび割れるような苦しさをおぼえた。
 ――お水、水が飲みたい。
 ミミナガアライグマの手から蓮の皿を奪い取ると、透き通った半球形のゼリーをつるりと飲みこんだ。口の中でじゅっと崩れ、オレンジのような甘露が口いっぱいに広がりすべりおりる。カラカラだった喉が、たちまち潤った。
「やや、王、おん自らのお出ましとは」
 ざわざわとした声が驚嘆すると、それまでルチルを取り巻き騒いでいた異形いぎょうの毛ものたちは、風になぎ倒された草のごとくいっせいにぬかづき道をあける。アライグマも蓮の皿をルチルに押しつけて、その場に平伏する。
 白い光が歩いてくるようだ、とルチルは思った。まぶしくて目をすがめる。高い天の頂から筋となって降ってくる銀の光。それがオーロラのような帯になってゆらゆらと揺れながら近づいてくる。
 降りそそぐ光の中から、堂々とした体躯の一頭の大きな白く透ける鹿が現われた。
 胴体は光に透け、銀に輝いている。目の錯覚ではない。ほんとうに半透明に透け、透明フィルムのごとき皮膚の内側では銀白色の骨格にさまざまな緑の植物が芽吹き絡まり合って伸び、花を咲かせていた。その姿は森そのものだった。
 白の森の王だ。ルチルはひと目で悟った。ここは白の森なんだ。
 白の森を統べる王は、美しい銀色の大きな白鹿だと伝えられている。だが、その姿をまともに見た人間はいない。
 神々しい御姿みすがた。なんて美しいのだろう。こぼれんばかりのエネルギーが光となって、身体の内よりあふれ輝いていた。
 額の天頂から生える二本の琥珀の角は、複雑に小枝を伸ばす樹木のごとく高くそびえ、その枝角には鈴のような葉の蔦が絡まっている。体躯はエゾシカの二倍はあろうか。がっしりと雄々しく透けるはだの内に緑の宇宙を抱いている。森を映した深く濃い翡翠の瞳が、ルチルを射る。
 ルチルは半身を起こし、呆けたように瞠目していた。
 はっと我に返って、緑の褥からすべりおり、ひざまずく。
「鷹が倒れているそなたを運んできた。礼を言うがいい」
 王の麾下きかに一羽の大きな鷹が翼をたたんで控えている。
「そなた、名は何という」
「エステ村領主イヴァンが娘、ルチルと申します」
 幼くとも、領主の娘として礼儀作法は厳しくしつけられていた。
「ルチルか。金紅石の名であるな、佳き名だ」
何故なにゆえ、あのような場所で炎天下に倒れていたのかは問わぬ。助けを求めるそなたの祈りはわれに届いた。ゆえに森は開かれた」
「もう、加減は良いのか」
 王が傍らのミミナガアライグマに問う。
「はい、熱は下がりましてございます」
 ルチルに対するのとは打って変わって、恭しく答える。
 別の鷹が一羽、天の一画から急降下し、王に耳打ちする。白の王はひとつ大きくうなずくと、ルチルに深く澄んだ翡翠のまなざしをすえる。
「ルチルよ、家のものたちが探しているそうだ」
 きっとカシだわ。ルチルは胸のうちでつぶやく。
「ひとつ、約束いたせ」
「この森に入ったこと、そしてここで見たことを決して誰にも話さぬと」
われにあったことも、朕の姿も、森の毛ものたちのことも」
「嘘をつくということですか」
 ルチルはおそるおそる尋ねる。
「できぬと言うなら、そなたの記憶を消さねばならぬ」
 えっ、と王を見あげる。
「そなたを護るためでもある」
 ルチルがきょとんとした顔をする。
「この森に入ったと知られれば、さまざまなやからが大挙してそなたのもとへ押し寄せるであろう。森の子細を尋ね、われや森のいきものたちのことを聞きたがる。なにしろここ数百年、森に足を踏み入れたものはおらぬからな。いや、正確にはおったが、皆、記憶を消して帰した。そなたに森への案内あないを強要し、我も我もと、森への侵入を試みるものも現れよう。かような人間たちに利用され傷つけられる、わかるな」
 こくんと、ルチルは翡翠の瞳を見つめながらうなずく。
「縁があれば、再び相見あいまみえることもあろう。いや、そうならぬ方が良いのかもしれぬがな。そなたには、何かさだめがあるようだ」
 王はじっとルチルの瞳を射抜くように見つめ、高くそびえる二本の角で降りそそぐ光をはらうと、大きな頭をさげ、ルチルの額に加護を授けるように口づけた。
「この鷹が、そちを北の河原まで送り届けよう。そこから川づたいに南に下るがよい。さすれば、そなたを探している者に会える」
「ルチルといったな。良い瞳をしている。息災でな」
 
「娘っこよ。急ぐぞ。覚悟はいいか。乗れ」
 鷹がルチルの背の三倍はあろうかという翼を広げる。
 ルチルはおそるおそるその背にまたがる。
「姿勢を低くして、俺の首に手を回せ。離すなよ」
 いうなり、鷹はまっすぐに天をめがけて飛び立った。ルチルは自らの体重を地上に置き去りにして、抜け殻だけが空に上がっていくような感覚にとらわれた。弾丸につかまっている。全身をこわばらせ、目をつむりぎゅっとしがみついた。

 おそらくまばたきほどのできごとだったのだと思う。気づけば、ルチルは河原の葦の茂みにうずくまっていた。鷹の姿はない。ほんとうに白の森にいたのだろうか。夢を見ていた気がする。神々しい王。異形いぎょうの心優しき毛ものたち。美しい森。幻を見ていたのかもしれない。とてつもなく美しい幻想を。「ここで見たことは誰にも話さぬと約束いたせ」王の慈愛にみちた低い声が脳の奥でこだまする。
 ルチルは立ちあがって、オビ川のほとりを歩きだす。
 太陽はまだ中天でぎらついている。
 だが、川を渡るかすかな風が暑さをやわらげてくれる。
 カシが叫びながら駆けて来る、ルチルの帽子を振りながら。

 あの日からずっと、ルチルは王との約束を守ってきた。カシはむろん、お父様とお母様にさえ話したことはない。


第2章「天卵」

 異変を報せたのはフクロウだった。
 ルチルは十歳だった五年前にアナンの泉に水浴びに出かけ、泉のほとりの茂みでうずくまっているシロフクロウの雛を見つけた。巣から落ちた幼鳥を親鳥は育てない。巣にもどしても、この子は助からない。体を拭くための手ぬぐいを籐のかごに入れていて良かったと思った。かごに落ち葉をしきつめ雛をそっとのせると、猛禽類に見つからないよう手ぬぐいをふわりとかぶせ走って帰った。
 ブランカと名づけてかわいがった。
 昼はルチルの部屋の止まり木でうとうとしているブランカは、夕方近くになると狩に出かける。屋敷の庭にある大きな楡の木に止まって周囲をうかがい、獲物を見つけると飛んで行く。朝方になると舞い戻り、楡の枝からルチルの部屋に音もなく滑りこむ。ふわりと風が吹きこむほどの静けさで。
 その日ブランカは西日を背に狩に出たばかりだというのに、上空で大きく旋回すると楡の木に止まることもなく、弾丸と化して一直線に部屋に飛び込み「逃げて!」と叫んで、勢いあまって壁に激突した。
 衝撃音を聞きつけ、父と母が部屋に飛び込んで来た。
「お館様、早く。レイブン隊の偵察が」
「そうか、とうとう知られたか」
 王宮で飼われているワタリガラスはレイブン隊と呼ばれ、王直属の偵察隊である。
 このところ頻りにカラスを見かけるようになったことをブランカは危惧していた。だが、それらが野生のカラスなのか、レイブン隊に属するカラスなのかがわからない。用心しなければと思っていた矢先だった。
 ――ルチルが卵を産んだことを知られてはならない。
 おしゃべり好きなスズメたちの噂話をレイブンカラスがいつ耳にするか。ブランカは気が気でなかった。スズメに注意したところで、あいつらの小さなおつむではものの一分と経たないうちに忘れてしまう。それよりも、フクロウがスズメに何度も注意する行為のほうが目立つ。ブランカはため息をつくしかなかった。

 「数百年に一度、世が乱れると卵で生まれる者が現われる」
 その者は、世界の混沌を救うとも、世界を混沌に陥れるとも伝えられていた。真偽は定かでない。古き言い伝えであり、ただの神話か伝説と誰もが思っていた。
 ルチルが卵を産むまでは。
 卵は「天卵」といって、天からのさずかりものとされる。すなわち卵を産む娘は処女であり、天卵のために腹を貸すのだと。処女懐胎である。ゆえに天卵から孵った子には、母はいても父はいない。

 ひと月前の新月の夜だ。
 十五歳の誕生日を祝った夜だった。
 ルチルは寝つけず、窓辺にもたれ漆黒の夜空を眺めていた。
 黒曜石のような闇夜に、すーっと白い光がひとつ、走って流れた。月明りがないからか、流星の光跡がひときわあざやかだった。続いて二つ流れた。遥か南の海の先をめざすように光の矢が三本、夜空を射抜いた。
 これほどはっきりと流星を目にしたのは、はじめてだった。その光跡の美しさに恍惚とみとれていたが、あわてて窓枠にひじをつき腕を組む。
 流星は瑞兆とも凶兆ともいわれる。いずれの兆しだとしても、天に祈らねばならない。ルチルは窓枠にひじをのせて両手を組み、その上に額をのせて祈ろうとした。
 そのときだ。まばゆい閃光が闇を蹴散らし、一直線にルチルに向かって来る。驚いて顔をあげると、光の矢がルチルの胸を射た。
 痛みはなかった。
 だが、何か熱いものが体の芯をすべり降りる感覚にとらわれた。その熱の塊は、へそのあたりで止まった気がした。夜着の裾をあげて腹部を確かめると、へそのまわりが熱を帯びてぼぅっと白く輝いている。
 私は星を宿したのだろうか。
 四つめの流星が体に飛び込んだことはまちがいない。
 なぜそんなふうに思ったのか、今となっては説明がつかない。だが、そのときはとっさに他人に知られてはならないと、強くルチルは感じた。パジャマの裾をおろすと、スリッパをはき、お腹の光を隠すためストールを腰に巻いて、物音を立てぬよう注意しながら両親の部屋をめざした。廊下が一足ごとにきしみ、そのたびに息を細くした。

 イヴァンと妻のカナンは娘の様子に目をみはった。
 ルチルが腹をかばうように巻いたストールを床に落とすと、腹部が呼吸にあわせるかのように瞬きながら淡く明滅していた。
「天、裁定の矢を放つ。光、清き乙女に宿りて天卵となす。孵りしものは、混沌なり、統べる者なり。正しき導きにはごととなり、悪しきいざないには禍玉まがたまとならむ」
 『黎明の書』の一節をイヴァンはそらんじ、娘の光る腹を凝視した。
 ルチルは流星が身の内に飛び込んだといった。天卵を宿したということか。なんと畏れ多い。天は何故なにゆえにルチルを選んだのか。親として願ったのは、平凡で小さな幸せを慈しみながら暮らしてくれることだというのに。
「孵りしものは、混沌なり、統べる者なり、か」
 イヴァンは腕組みをして天井を仰ぐ。
 カナンは娘の肩をそっと抱いて、ベッドに座らせる。
「世界を救う人物になるか、世界を混沌に巻き込むか。いずれにしても一国の王の地位を脅かす存在になるということだ」
 カナンはルチルを胸に抱き寄せ、夫を見つめる。
「このことは秘さねばなるまい。ルチルの腹に宿った命に、いかなる使命があるのかが明らかになるまでは、王宮に知られてはならない」
「身の周りの世話は必要だから、秘密を共有するのはカシとブランカだけにしよう。カシは口が固い。ブランカは見張り役となるだろう。ルチルを他人目ひとめから隠してしまいたいところだが、かえって怪しまれて妙な噂がたちかねない。とりあえず、腹の光がおさまるまでは、熱で寝込んでいることにしよう。看病はカシだけにまかせる。カシには明日の朝いちばんに話そう」
「あとのことは、私にまかせなさい。ルチル、おまえに天卵が宿ったことに意味があるのだとしたら、この輝きは守らねばなるまい。今夜はここでお母様と休みなさい。私はおまえの部屋で眠るとしよう」

 一週間後、ルチルは卵を産んだ。それはまばゆいほどの黄金に輝いていた。
 産まれたては鶏の卵ほどだった。それが日ごとに大きく育っていく。
 布団やブランケットで隠しても光が漏れる。
「お願い、あなたを守りたいの。だから、光を押さえて」
 ルチルが卵に口づけながら、そう話しかけると、卵は「わかった」とでもいうように二度またたくと光量を落とし、ごく微かに光るようになった。
 ブランカは、昼間はルチルの部屋の止まり木で休みながら、カシ以外のものが部屋に立ち入らぬよう見張り、夜になると屋敷の周りを警戒してまわるようになった。

「早く、ここから」
 マントルピースの冊をはずし、灰を隅に掻き寄せると、イヴァンは炉床の煉瓦を火掻き棒でコツンコツンコツーンと最後だけ大きく三度叩いた。それから煉瓦を八枚取り除く。その下には煤けた板があった。中央に金属の取っ手があり、短い辺の片側に蝶番ちょうつがいがついている。イヴァンは取っ手をもって板をあげる。すると、昏い穴があり、冷気がするりと立ち昇った。人ひとりがやっと通ることのできるほどの狭い穴だ。
 ルチルが固唾を飲んで見守っていると、その穴から何か黒いものがぬっと現れた。目をこらしてよく見ると、滑らかに黒光りする体毛、突き出た鼻、大きなモグラのようだ。
「やあ、アトソン。手はずどおりによろしく頼むよ」
「おまかせくだせぇ、お館様。お嬢さまは、ぶじに白の森までわしらが送り届けやす」
「ほんでもって、お館様と奥様も……」
 アトソンが言いつのる言葉にかぶせるように、イヴァンは
「何度も話しあって、約束しただろ」
 と静かに言い渡した。そして背後で目を丸くして固まっているルチルを振り返ると
「さ、急ぎなさい」
 穴へ手招きする。
「トビモグラのアトソンが案内してくれる。彼について、白の森に向かいなさい。森の王が助けてくださるだろう」
「お父様とお母様は?」
「私たちは後ほど、安全な場所に向かう。心配しなくていい。おまえは卵を守ることだけを考えなさい」
 振り返るとカシが、「大丈夫、カシがついています」とでもいうようにひとつ深くうなずく。ルチルはマントルピースの上にとまっているブランカを見つめた。ブランカが首をくるりと一回転させ、その賢い瞳でうながす。
 卵を包んだ布を肩から斜めに結わえる。
 母のカナンが娘に男物の緑のマントを着せて抱きしめ、額にキスをすると、暖炉のほうにそっと背を押した。ルチルはもう一度、母と父を見つめると覚悟を決め、腰をかがめてマントルピースの穴に歩をおろした。それからは振り返らなかった。暗い階段を足もとをたしかめながら慎重に降りる。足をすべらせて卵を割るようなことがあってはいけない。
 階段を降りきると、ルチルの背丈ほどの横穴が三方向に向かって延びていた。地下の坑道のような穴なのに、ほのかに明るい。アトソンの手には灯りらしきものはない。不思議に思ってあたりを見回すと、足もとでキノコが光っていた。大きなヒカリたけだ。アトソンが歩を進めると、それにあわせて順に光る。まるでセンサーのついた自動点灯ライトだ。
「お館様のご厚意で、儂たちはこうしてエステ村の地下に、地下ぢげものの村を自由に築くことをお許しいただいてきやした。かわりに、お館様の一大事には儂ら一族が力をお貸しいたしやす」
「お嬢様が金の卵を産みなさった日から、いつかこうなるこったが、お館様にはおわかりやったんでごわしょ。そんときが来たら、どうすっか。ぜんぶお館様がお決めなすった」
 ざざぁっと、土の崩れるような音が背後からして、ルチルは驚いて振り返る。
 どこから現れたのか、五匹のトビモグラが、ルチルが降りてきた階段のある竪穴を埋めていた。 
「何をしているの!」
 ルチルは思わず叫び声をあげた。
 暖炉と地下道をつなぐ穴が埋まってしまったら、お父様とお母様はどうやって逃げるというの。
「お館様のご指示ですだ。居間と地下をつなぐ穴を埋めろと」
「やめて、やめて。お願い、やめさせて」
 ルチルはトビモグラたちが埋めようとしている穴の前に立ちはだかる。
「お嬢様には卵を守る使命がありなさる。おんなしでっさぁ。お館様には村人を守るっちゅう使命がありなさるっちゃ。ありがてぇことに、お館様にとっちゃあ、儂たち地下ぢげものも村人なんじゃ」
 駄々をこねる幼子を諭すように、アトソンは後ろ足で立ち上がって、白い点のような瞳を向ける。針の穴ほどの小さな双眸が闇にちらりと光り、ルチルに覚悟をうながす。
「儂らとて、お館様と奥様はお助けしたい。だぁんが、まずはお館様との約束を果たしやす。それが儂の使命ですっちゃ」
 ルチルは混乱していた。何がどうなって、こんなことになってしまったのだろう。どうして流れ星は私の身体に飛び込んだの。どうして天卵が宿ってしまったの。
 胸に抱えた天卵は、もうダチョウの卵ほどの大きさに育っている。
 ――これをここで力いっぱい割ってしまったら、もう逃げなくてもいいし、お父様やお母様、カシたちと元どおりに暮らせるんじゃない? わたしが育てなきゃいけない義務なんてないんだもの。
 ルチルは胸もとの天卵に視線を落とす。割ってはいけないからと包んだキルトから淡い光がもれ、暗い坑道で呼吸をするように微かにまたたいていた。その光が、ルチルの心の揺れを察したのだろうか、すーっと消えた。
「いいかい、ルチル」
 父の静かな声が耳によみがえる。
「やがて希望となる光なのだよ。星が流れたということは、何か混沌が広がる前触れやもしれぬ。そのとき、これが希望の光となるかどうかは、この子の母となるお前しだいだ。まだ十五歳のお前には重い使命かもしれぬ。だが難しく考えることはない。カナンが、母様がお前にそうであったように、卵から生まれてくる子を慈しんであげればいい」
 わかるね、と父は柔和なオリーブ色の瞳でルチルを諭した。
 きっとお父様にはわかっていたのね。わたしが卵を放りだしたくなることが。くじけそうになることが。ルチルは唇をかむ。
 卵の光は消えたままだ。
 アトソンは後ろ足立ちの姿勢を崩さずルチルを見つめている。
「ごめんなさい」
 つぶやいて、ルチルは卵にそっと口づける。大丈夫、あなたは、わたしが守る。ちゃんと、あなたのお母様になるわ。
 卵をくるんだキルトが、一瞬、ぱっと明るく輝いた。ルチルはぎゅっと卵を抱きしめると、目尻からこぼれそうになっている涙を拳でぬぐい、アトソンに向き直った。
「白の森までの案内をお願いするわ」
「かしこまりやした」
 アトソンが恭しくお辞儀する。
「こいつはロウ」と、アトソンは自らの隣に控えているトビモグラを紹介する。
「お嬢様の背後をお護りしやす。わしらは暗闇に慣れとるが、ヒカリたけだけんじゃ、お嬢様には暗かろう」
 アトソンは懐から何かを取りだし、掌を開く。光るものが三つひらひらと飛びだした。ルチルは目を凝らす。蝶が淡く光りながら飛んでいる。ヒカリアゲハだ。子どものころトートが一匹だけ捕まえ、誇らしげに虫籠を見せびらかしていた。「めったに捕まえられないんだぜ」と言って。それが三匹も。鱗粉をきらきらと輝かせながら、飛び回っている。こんなときでなければその美しさに見惚れるのだろうけど。
「ちょっと失礼しやすよ」
 アトソンは言いながら、ぐいっとルチルの右手をつかみ、その甲に何かねっとりとしたものを塗った。すると、蝶がルチルの手に舞い降りる。
「蜜でさぁ。ほれ、こうしときゃ、こいつらお嬢さんの手にとまる。ほんで、灯りになる」
 ルチルは感心した。手を高々とかざしても、蝶は逃げない。ルチルの右手が懐中電灯になったようだった。
「さ、急ぎやすよ」
 アトソンが四つ足で駆けだす。ルチルが追う。ロウが背後に気を配りながら続く。どこをどう通ったのか。右に左に坑道を曲がり進むアトソンの背を追うのに必死で、ルチルにはさっぱりわからなかった。地下道には、樹々の根が縦横無尽に走っている。それらに足を取られて転ばないよう気をつけるのが精いっぱい。ヒカリたけとアゲハの灯りと、天卵のほのかな光を頼りに足もとを確かめながら急いだ。うっかり蹴つまずくたびに、ロウがすばやく支えてくれる。無口な彼の働きがうれしかった。
 どのくらい進んだろう。どこからか水の流れる音のようなものが、微かに聞こえた。アトソンについて角を曲がるたびに音はしだいに大きくなる。いくつかの枝道を曲がったところで、急に視界が開けた。ごうごうと滝のような音が響く。細い坑道の向こうに広い空間があるのが、暗闇でもわかった。
 アトソンが穴道を抜けたところで振り返り、はじめて笑顔を見せた。
「お嬢様、着きやした」 
「これは……」
 ルチルは地下を滔々と流れる川に目をみはった。
「ルビ川ですだ」
「昔むかし、白の森へと流れていたという伝説の? でも、言い伝えでは白の王が怒って…」
「地下に沈めなすった。それが、これでさぁ」
 おとぎ話に聞いていた川が、目の前を流れている。本当にあったなんて。
 川原には小舟が用意されていた。
「そん先に、滝のカーテンがあるんが、見えやすか」
 アトソンが後ろ足で立って、川の流れる先を指さす。
 ルチルはヒカリアゲハの止まった右手を高く掲げる。ほのかな明かりの向こうに、白く泡立つ滝が川の行く手をレースのカーテンとなってさえぎっているのが見えた。
「白の森の王へ祈りが届けば、滝が開きますっちゃ」
 ロウが舟を曳いてくる。
「儂らは、ここまででごわす。お館様と奥様のこったも、儂らができるかぎりの力は尽くしやす。どうかお嬢様もご無事で、卵をお守りくだせぇ」
「アトソン、ロウ、ありがとう。あなたたちの働きに心から礼を言います。お父様とお母様のこと、よろしくお願いします。ルチルは卵を守り育てる覚悟ができました、と伝えてもらえるかしら」
 アトソンとロウに向かって深々と頭をさげると、ルチルは二匹を胸に抱き寄せた。胸もとに抱えている天卵もひときわ輝く。
 ルチルは小舟に乗りこむと、「オールはどこにあるの」と尋ねた。
「櫂はありやせん。要らないんでさぁ。川が導いてくれますんで」
 アトソンとロウは力いっぱい舟を押しだす。
 豊かな水をたたえた川面を小舟がすべりだす。二匹のトビモグラは後ろ足で立って、短い手をちぎれそうなほど振る。ルチルも大きく振り返す。
 月夜の海に舟出するようだとルチルは思った。地下の闇に月はなく、滝のあげる水しぶきが白い明かりとなって川面をただよう。もうここには戻って来られないかもしれない。この洞窟はおろか、エステ村にさえも。胸をよぎる予感に、頬を涙がとめどなくつたう。嗚咽はない。涙が流れるだけだ。ルチルは卵をぎゅっと抱きしめる。応えるように、慰めるように、卵はしだいに光を強める。
 川は滔々と流れているのに、舟は滝のカーテンの前でぴたりと止まった。
 ルチルは白い飛沫を水煙のごとくあげる滝を見あげ、ただひたすらに祈った、まばゆい光をまとって神々しかった白の森の王を想いながら。

 ――白の王様、六歳の夏に助けていただいたルチルでございます。あの日のこと、忘れたことはありません。モノアライグマのおばさんや心優しき森の生きものたちのことも。王様と交わした約束も、ずっとずっと守ってきました。お父様にもお母様にも話したことはありません。あの日おっしゃいましたよね。わたしには、さだめのようなものがあると。それが天卵を宿すことだったのだとしたら。わたしはこの卵を守りたい。この子の光を守りたいのです。お力をお貸しください。どうか、森を開いてください。

 ルチルは目を閉じ、胸に抱えた卵の前で両手を組み一心に祈った。滝の飛沫がミストとなって立ち込め、こうべを垂れたルチルの肩を背をじっとりと湿らせる。前髪は額に貼りつき、髪からつたう雫が組んだ手を濡らす。絶え間なく落ちる水の轟音が洞窟にこだましていた。


第3章「森の民」

 どのくらい祈っただろうか。
 ごうごうと耳膜にこだましていた水音が、不意にぴたりと止んだ。ルチルは、おそるおそる目を開ける。
 つい今しがたまで、白い水煙をあげ瀑布となっていた滝が消えていた。
 滝のカーテンが開いた。白の森が開いたのだ。
 舟がすべりだす。
 向こう側にはまばゆい光の降りそそぐ空間が広がっていた。
 この光を知っている。六歳の夏、日射病から目覚めたルチルをつつんだのも、きらきらと降る光の粒だった。
 ルチルは見あげる。そこはもう洞窟の閉じたくらい天井ではなく、どこまでも高く抜ける白い天があった。銀の葉のほどけたすき間を縫って、数えきれないほど光の筋が射していた。
 ああ、光の森、白の森だ。
 緊張がほどけると、ひと筋、涙の粒が頬をつたった。
 気づくと川は地上に出て、ゆるやかに蛇行しながら緑のなかを流れる小川となっていた。うっすらと記憶に残る、幼い日に目にした美しい森の光景。緑の下草が幾重にも萌え、銀に光る苔が層をなし、樹々は枝葉を気ままに伸ばし豊かな緑陰がまぶしく涼しかった。
 けれども、ゆっくりと進む舟から眺めた川べりは、何かがおかしい。
 あの日、ルビ川は見なかった。だが、ルチルが横たわっていたしとねはふかふかで、周りはあふれんばかりの緑に囲まれていた。褥の周りには、好奇心むきだしの異形いぎょうの毛ものたちが数えきれないほど集まって賑やかだった。森は、光と緑と活気に満ちあふれていた。
 それが、どうだろう。
 川原を縁どる緑はまばらで、なめらかな絨毯のように広がっていた苔の層はほとんどなく、黒っぽい土壌がいたるところで露出している。樹々は高く天に向かってそびえているが、幾重にも折り重なっていた葉もすかすかして、かつてはまぶしい光しか見えなかった空が雲まではっきりと見える。なによりも毛ものたちの気配がなく静かだった。
 卵を宿してから外出を控えていたとはいえ、部屋の窓から遠く眺める森に変わりはないようにみえたのだが。いったい森に何があったのか。
 ルチルは急に不安になった。白の森に受け入れられさえすれば、ミミナガアライグマのおばさんや森の毛ものたちといっしょに天卵を育てていけると思い込んでいた。森が守ってくれるのだから、もう脅える必要はなくなるのだと。だが、そのかんじんの毛ものたちの姿が見えない。
 しばらく進んで、舟は止まった。
 ルチルは土があらわになった川原に降りた。しんと静まっている。耳に届くのは風が揺らす葉ずれだけ。だが、舟から眺めていたのとはちがい、なんだろう、微かではあるが、たくさんの目が息をこらして窺っているような張り詰めた気配を感じた。

 ――ああ、そうか。敵意のないことを示さなければ。
 ルチルは羽織っていた緑のマントを脱いだ。卵を入れている袋も降ろすべきか悩んだが、万が一卵を奪われてはいけないと思い直し、肩から提げたままにした。よく見えるように、川原のいちばん開けた場所に立ち、両手を高くあげてゆっくりと一回転してみせる。なんの反応もなく、一匹の毛ものも姿を現わさない。
 ――このくらいでは、警戒はとけないか。
 ルチルはひとつ大きく深呼吸すると、意を決して、長いスカートの裾に手をかけ、羞恥心をかなぐり捨ててスカートを頭の上までまくりあげた。
 波のようなどよめきが川原の向こうの藪からも、樹々の梢からも、川の茂みからも起き、森が揺れた。剥かれた玉ねぎのような格好で立ち尽くしているルチルを、「もう、いい。もう十分だ」とかすれた声が抱きしめた。ルチルは持ち上げたスカートから手を離す。はらりと落ちたスカートをよけて姿を現わしたのは、あの日のミミナガアライグマだった。ルチルは懐かしさに瞳を輝かせ、抱きしめようと両手を伸ばす。
 と、そのとたんにミミナガアライグマはさっと身をひるがえして、十メートルほど先の藪に飛び込んだ。伸ばした両腕はくうを切る。抱きしめるつもりで前のめりになっていたため、ルチルはバランスを崩して倒れそうになり、慌てて卵の袋をかばって川原に膝をついた。キルトをまさぐり卵が無事なことを確かめてから、ひとつ息を吐き顔をあげた。
 視線の先の茂みでは、ミミナガアライグマが後ろ足立ちして、心配そうにおどおどしている。ルチルが立ち上がって一歩を踏み出すと、 
「近づくんじゃないよ。病がうつっちまう」
 引きつった声が飛んできた。
 ルチルはその緊迫感に驚き、一歩を踏み出した体勢のまま固まった。そのときだ。
「ああ、動かないで。そのままでいてくれ」
 不意にのんびりとした声がかかり、ルチルは首だけを動かして目を瞠った。男が小さな子の手を引いて川下から近づいて来る。白の森に人間? それも子連れ? ルチルはとまどった。男はゆったりとした足取りで近づくと、懐から霧吹きを取り出し、ルチルの背中側から何かを吹きつけていく。正面にまわると、
「目と口を閉じて。両手をまっすぐ前に伸ばして」
 まるで体操を指導する口調でルチルに指示する。男の足もとで三歳ぐらいの子が取るべき姿勢を真似してみせる。
「そうそう。そのままだよ」
 しゅっと音がするたびに、ツンとした臭いが鼻腔を刺激する。固く目を閉じていても消毒液を吹きかけられていることがわかった。
「申しわけないんだけどさ。さっきみたいにスカートをまくってくれないかな。アライグマが触れたところを消毒しておきたいんだ。できるだけ見ないようにするから」
 ルチルにためらいはなかった。さっとスカートをまくりあげる。
 悪いね、と言いながら男は手早く霧吹きする。
「もういいよ」
 スカートを手放すと、低い位置でセルリアンブルーの目がルチルをとらえていた。深い海の色だ。ルチルが微笑みかけると、さっと男の背後に隠れる。だが、気になるのだろう。男の衣の裾をぎゅっとつかみながら、おそるおそる顔をのどかせる。小動物さながらの動きに、ルチルの口もとに笑みがこぼれる。
 しぜんと笑みが湧いたのなんて、いつ以来だろう。天卵を宿してからの日々、就寝中でさえ緊張していた。それがふっと解かれた気がした。
 銀の髪を後ろでひとつに結わえた男は、自分にしがみつく子の頭に大きな手を置く。子が見あげる。ただそれだけの光景が、ルチルの胸にあかりをともす。思わずキルトの上から卵にほおずりした。
 男は森を映したような緑の丈の長い上衣を腰紐でくくり、なめし革の編みあげブーツを履いていた。子どもも同じ緑のワンピースを着ている。だからだろうか。光の具合によっては、目を凝らさなければ森と同化して姿がわからなくなりそうだった。男の腰紐にはいくつも袋がぶら下げてあり、木彫りの鞘におさめたナイフも一挺さげていた。
「悪かったな。恥ずかしい思いをさせて」
 ルチルは首を振る。
「ふた月ほど前から、謎の病が毛ものたちの間で流行ってな。熱が出て咳き込むんだよ。彼らは人とちがって多少の熱くらいじゃ平気だが。喉がそうとう腫れてね。食事がとりづらいから、体力が落ちて弱る。というわけで、ちょっと待っててくれるか。診てくるから」
「お前も、ここで待ってろ」
 男はついて来ようとする子を手で制し、ミミナガアライグマがひそんでいる藪へと向かった。
 残された子は、ワンピースの裾を握って立ちつくす。
 弟妹の子守をしながら大きくなる村の子どもたちは、小さな子の扱いに慣れている。だが、領主の娘で一人っ子のルチルには、こんなときどうすればいいのかがわからなかった。
 しかたがないので、隣にそっと立つと。
「とと」
 うっかりすると風にまぎれそうな声をもらして、男のいる方角を指さす。
「やさしいお父様ね」
 ルチルがあいづちを打つと、こくんとうなずき、肺の空気を全身でしぼりだすように膝に両手をついて体を半分に折り、「ととー」と叫ぶ。
 男はふり返って手を振ると、ゆっくりとした歩調で戻って来た。
 腰にさげた袋のひとつから霧吹きを取り出して子に渡す。子が青い瞳を輝かせ、慣れた手つきで父親に消毒液を振りかけてまわる。
「おそらく人間に伝染うつることはないだろう。だが、油断はできない。それにルチル、君は天卵を育てなきゃならんからな」
 男はルチルの抱えている袋を指さす。
「どうして、わたしの名前と卵のことを知って……。それに、どうして人間が白の森に……」
 ルチルはとまどいと混乱を払うように、頭を大きく振る。
「ああ、失礼。自己紹介がまだだったな」
「おれは森の民の末裔のシン。そして、この子は娘でラピス。もうすぐ三つになる。森の民は、おれらでおしまいさ」
「森の……民?」
 そんな種族がいると聞いたことがない。『黎明の書』にも登場しない。学校でも教わらなかった。
「そんな民が、いるの?」
「知らないか。まあ、外の世界じゃ、おれたちの存在はタブーだからな」
「タブー? なぜ」
「うーん、どっから話せばいいんだ」
 シンは腕組みをして天を仰ぐ。
「森のなりたち、この世界のなりたちにもかかわるからなあ。一から話すと半日はかかる。それに、どこまで話していいかも、わかんねぇしな。まあ、早い話が、おれたちは居てはならない存在、消された存在、つまり存在自体が秘密なんだよ」
 それって、どういうこと? ルチルはますます混乱する。
 尋ねようとしたそのとき、背後から何かがぬっと現れた。質問を遮るかのような絶妙のタイミングだった。
「ルチルか、久しいな。天卵を宿したか」
 足音は聞こえなかった。近づく気配もなかった。
 ルチルはびくっと反射的に身を強張らせる。
 おそるおそるふり返ると白く輝く鹿の王がいた。
 だが、よろこびに染まりかけた笑顔は一瞬で固まり、安堵の吐息は喉の手前で霧散した。
 記憶の奥底にたいせつにしまっていた御姿みすがたとの、あまりの違い。ルチルは驚きを通り越して絶句した。
 かわらず胴体は白く透けていたが、その体躯は明らかにひと周り、いやそれ以上に小さくなっている。六歳の夏には見あげる山のように感じた巨躯も、今は鼻先がルチルの目と同じ高さでしかない。シンの頭のほうがずっと高い位置にある。これではふつうの鹿と変わらない。
 ――白の森の王に、何があったの。
 謎の流行り病に脅えている森。
 ――白の森に、いったい何が。

 王の来臨にシンが片膝をついて川原に跪拝きはいした。あわててルチルもそれにならう。
「待たせて悪かったな。川を閉じるのに難儀いたした」
 ――川を閉じる? 
 ルチルはそっと顔をあげ、そして目を瞠った。王の背後にあるはずのルビ川が、つい先ほどまで流れていた川が、一滴も残さず干あがっている。
「王様、森は、‥‥白の森にいったい何があったのですか」
 森を映した深く濃い翡翠の瞳がルチルをとらえる。躰が小さくなっても王は王であった。辺りを薙ぎはらってあまりある懐の深い威厳。
 ルチルが、森が、王の言葉を待っていた。
「きっかけは、しょくであろうな」
「蝕?」
 ルチルがオウム返しで訊く。
「ルチルよ、これから話すことは森の存続にかかわる秘事である」
「故にわれはまだ迷っておる、そなたに話すべきか否かを。話した後で、そなたの記憶を消すべきか否かを」
 ルチルは唾を飲み込む。
「王よ、僭越ながらわたくしめの考えを申し上げてもよろしいでしょうか」
 ルチルの緊張を察したのか、シンが声をあげる。
「シンか、申してみよ」
「先にも奏上いたしましたように、流行り病の源はルビ川の水と考えられます。植物の枯れが川に沿って顕著だからです」
「うむ」
「ルビ川の水源はノリエンダ山脈にあります。さすれば山脈を擁するノルテ村でも病が広がってしかるべきです。ですが、偵察に行かせた鷹の報告ではそのような事態は見受けられなかった。それに、森の外ではルビ川の存在自体が今や伝説でしかなく、ルビ川の水脈を知る人間などいないはず。それなのに感染源がルビ川であること。また」
 シンはここでひと息つくと王に視線を据える。
「蝕の年でさえなければ、川原の苔や葦に異変が見つかった時点で、本来の王の力を持ってすれば食い止めることができたのではございませんか。一連の事態には、作為的なものを感じます。それも、非常に巧妙な。じわじわと森をむしばむような巧妙さです。それらが蝕の年に起こった。これは偶然でしょうか。相手はおそらく、蝕のことを知っている。今年がその年であることも。王もお気づきなのではありませんか。だからこそ、『きっかけは蝕だ』と仰せられた。違いますか?」
 跪拝したまま顔をあげて訴えるシンの翡翠に輝く瞳を、王はまっすぐに受ける。それは王と同じ森の色だ。
「そちには、かなわぬ。続けよ」
「森の機密を知っているものがいる。白の森に精通しているといっても過言ではありません。けれど、それがどこの誰なのか。ノルテ村のものなのか、ノルテ村を陥れようとするものなのか。あるいはもっと別の思惑をもつものなのか。現時点で我われには見当もつかない。姿の見えない敵と対峙するには、外の世界に味方を増やすしかないのではありませぬか。ですが、やみくもに誰でも、というわけにもまいりません。そもそも森は人間を排除することで成り立ってきました。だから、緊急避難的に受け入れた者も、記憶を消して外に帰す。ところが、九年前に受け入れたルチルの記憶は消さなかった。私は王の判断をいぶかしみました。だが、今となっては慧眼に感服せざるを得ません。ルチルは王との約束を、森の秘密を守り、いみじくも自身が信頼に値することを証明いたしました。加えて、天卵の母となった。それらを勘案すると、ルチルほどうってつけの人間はいないように思うのですが、いかがでしょうか」
 王は黙したままシンとルチルを見つめる。
穿うがった見方をすれば、九年前にルチルが白の森と縁をもったことも、何やら見えざる天意のように思えてなりません」
 シンが最後のひと押しをする。
「まこと、そうかもしれぬな。相わかった。ルチルには蝕の仔細を語るとしよう。だが、ここでは支障がある。萌えの褥に参ろう。ついて来るがよい」


第4章「蝕」

 森の心臓部にある「萌の褥」は王の玉座だけあって、川原の荒廃とは隔絶し、濃く深い緑に包まれ清らかな光が降りそそいでいた。
 六歳の夏に見た白の森と変わらず、懐かしさと安堵がない交ぜになりルチルの目尻から熱いものが溢れる。銀苔も厚く層をなしている。白銀に光る鹿の王がそのすらりとした四本の脚で下草を踏みしめるたびに、足あとから花が咲き草が伸びる。王の息吹が森に命を吹き込む。
 後ろから従っていたルチルは、光をまとって歩む王が時おり頭をさげ草に息吹を吹きかけるたびに、二本の琥珀の角のあいだから何か白く大きな物が見えることに気づいた。苔と草のもっとも厚い褥の中央に、白い楕円形の塊が鎮座している。王はためらいなく進むと、その隣に脚を折って横たわった。銀色の繭のようなそれは、体躯が並みの鹿と変わらなくなってしまった王とほぼ同じくらいの大きさだった。ルチルの目は繭に釘付けになる。
「そちたちも腰を下ろすがよい。楽にいたせ」
「すまぬが他のものは見張りの鷹をのぞいて、しばし席を外してくれぬか」
 王は周囲の毛ものに目配せする。繭を守るように取り囲んでいたものたちは、たちまち姿を消した。それを確かめてからシンが「では、お言葉に甘えて」と王の前に胡坐あぐらをかく。ラピスがぴょんとその膝に乗る。ルチルはためらいがちにシンの隣に座った。苔がクッションのようにやわらかい。
「ルチルよ。これが何かわかるか」
 王は自らの隣にある白銀の物体に鼻先を向ける。
「大きな繭に見えます」
「明察じゃ。繭であり、これこそが蝕の正体である」
 えっ? 意味が飲みこめず、ルチルは助けを求めるように王からシンへと視線を泳がせる。だがシンは、ルチルの動揺はおろか、膝の上の娘の存在すら忘れているかのように王を見据え微動だにしない。王はかまわず続ける。
われは森の誕生とともに千年あまりの永き時を生きてまいった。いわゆる不死の存在といえよう。だが、ずっと生きながらえてきたわけではない。なぜなら朕はことしでよわい百五十にすぎぬからな」
 ルチルはまた混乱する。王の言葉は謎かけのようだ。千年も生きてきた不死の存在が、なぜわずか百五十歳なのか。どういうことか。
 王はルチルの困惑を楽しむように、翡翠の双眸をきらめかせる。
「はは、勘定が合わぬか」
 王は軽く笑って、真顔にもどった。
われはおよそ二百年に一度生まれ変わる。再生する、といえば良いかの。それを蝕という。いにしえより五度の再生を繰り返してまいった。此度こたびが六度めの蝕である」
「どうじゃ、これで算術はうたであろう」
 ルチルは小さくうなずき、「では」と尋ねる。
「蝕のたびに王は新しい王に生まれ変わられるのですか。古い記憶を忘れられるということですか。蝕が終われば、私の前にいらっしゃる王様、話をしている王様とは、もう会えないということですか」
「そちはさかしいな。まあ、待て。順を追って話そう」
「先走ってしまい、失礼いたしました」
 ルチルは紅潮した頬を掌でおさえ慌てて平身低頭する。
「そうかしこまらずともよい。大要だけをかいつまんで語ろう」
 王は横たわったまましなやかな首をすっと立てる。琥珀の角に木漏れ日が反射し玉体をつつむ。体躯が小さくなっても、神々しさは変わらなかった。
「蝕は、われが幼体を産むことから始まる。幼体は鹿としての本質を継ぎ、成体と同じ姿で誕生する。だが自然界の鹿の赤子とは異なり、極めて小さい。生まれたては鶏の卵ほどの大きさにすぎぬ。その生まれたての幼体を、朕の口から吐きだす糸でくるみ繭をこしらえる。幼体は繭の中で日ごとに大きうなる。成長にともない繭も大きくせねばならぬ。これがひとつめのリスクとなるかの」
 繭を日々大きく紡ぐことが、なぜリスクになるのか。ルチルは尋ねたくなる衝動を奥歯でこらえ王を見つめる。
「それのどこがリスクなのか、という目をしておるな」
「繭を紡ぐことは、さほど骨は折れぬ。だが幼体は日増しに成長するゆえに朕はその作業にいそしまねばならなくなる。森への目配りがおのずと手薄になる。かすかな綻びに気づきにくうなる。此度こたびの流行り病の初動に遅れをとったのも、それゆえ……と、気づいておるのであろう、シンよ。敵はそのわずかな綻びを狙ってきたと」
 王は突然シンに話をふる。
「は、ご明察にございます」
 シンが王を見据えたまま答える。
「なれど、これは前触さきぶれでしかございません」
「さよう、たいしたことではない」
 蝕にはもっと大きな危険があるというの? 
 ルチルは鳩尾みぞおちをきゅっと強張らせ、天卵を抱きしめる。
「ルチルよ、われの躰が縮んでいること、不思議に思わぬか」
「びっくりいたしました。あんなに立派なお躰でしたのに。何があったのですか」
 いちばん訊きたかったことだ。
「朕は糸を吐いて繭をこしらえると申したであろう」
 ルチルはうなずく。
「繭は幼体を保護するためにこしらえるが、それが主眼ではない」
「かように」
 と言いながら、王は口から銀の糸を吐き、傍らの繭に挿す。
 すると繭が透けて光りだした。
 王とよく似た透明に光る白銀の鹿が一頭、首を丸めてうずくまっている。銀の糸が繭のなかをするすると進むと、頭をもたげ伸びてきた糸をくわえた。赤子が母の乳首にくらいつくような自然な動きだった。
「糸を介して幼体とわれはつながる。肝心はこれにある」
「蝕とはな、つづめて申せば、新しき器に朕を移し替えることである」
「幼体が新しい器ですか」
「さよう。そちも知っておるであろうが、自然界にはさまざまな再生の形がある。蜥蜴の尻尾もそうじゃ。体を半分に切られても再生するプラナリアしかり。だがな、彼らはもとの身の欠けた部分を再生するにすぎぬ。全部を入れ替えるわけではない」
「永く生きておるとな、さまざまな澱が溜まってくる。あちこちに不具合も生じる。それを人は老化と呼ぶのであろう。新しき器を得ることで、それらをいったん解消する。それが蝕の目的である。そうやって千年、朕は森を守ってきた」
「ただし、移し替えは慎重を期する。注ぎこむ力が幼体の成長を上回っておると器は破裂する。ゆえに朝露のごとく、ひと滴ずつであらねばならぬ。力の移し替えが進むにつれ、幼体は大きうなり、われは小そうなる。すべての力を注ぎこむと蝕は完了し、ひと世代前の朕は消滅する。およそ一年を費やす」
「一年」ルチルがオウム返しでつぶやく。
「さよう。今がちょうど折り返し点である」
「さて、シンよ、このあとはどうしたものかな。この先まで、ルチルに森の秘密を語ってもよいものであろうか」
 王は深い信頼を宿した翡翠の瞳をシンに向ける。同じ翡翠色の瞳をしていても、シンの瞳はまだ若く触れれば切れそうな真剣さで王を見つめていた。
「蝕が完了するまであと半年。天卵はまだ孵っておらず、ルチルはレルム・ハン国の王宮に追われる身。わずか半年では、たとえルチルに悪意があろうとも一介の少女に何もできぬのではございませんか。蝕さえ滞りなく完了すれば、王の力、ひいては白の森の力は元どおりになります」
「うむ、そうであるな」
 シンの同意を得ると、王は再びルチルに視線をもどす。
「今のところわれの力の半分は幼体に移し終え、朕は本来の力が半減している状態である。よって、これから半年がもっとも危険となる」
 ルチルは小首をかしげながら尋ねる。
「王様の力が半分以下になっても、幼体にそのぶんの力が備わっているのであれば、力を合わせればよいのではないのですか」
「俺も前から疑問に思っていた。何しろ森の民とはいえ俺だって蝕を実際にの当たりにするのははじめてだからな」
 シンがルチルの問いに己の疑問を重ねる。
「残念ながら幼体は繭から孵るまで力を発揮できぬ」
 王の声が静かに響く。
「繭とは人の子における子宮のようなものでな。人の子も羊水のなかで成長するが、月が満ちて生れ落ちぬかぎり何もできぬであろう。それと同じと考えればよい。加えて」
 王はひと呼吸だけ口をつぐみ、ふたりを眺めやる。
「蝕が終わらぬうちに、不測の事態で孵ってしまうものなら、そこで力の受け渡しは強制終了となる。つまり、次世代のわれは不完全な状態として生きねばならぬ。一度ひとたびかようになると、爾後に続く世代は欠けたまま力を継いでいくことになろう」
 ルチルは愕然とする。
「修復はかなわないということですか」
「ああ。朕の再生は、元あるものをそっくりそのまま移し替えるものであるからな。かめの水を別の甕に移し替えるようなもの。蜥蜴やプラナリアのように、失うたものを復元するのとはちがう」
「そういうわけでな、幼体の力を使うことはできぬ」
 王は静かに吐息をもらす。
「では、これまではどうやって危機を乗り越えてこられたのですか」
「蝕が起こっているかは、森の外のものは知り得ぬ。そもそも蝕というものがあることも知らぬはずなのだ。たいていは森が潜在的に備えておる力で対処できる。ゆえに半年をひそりと過ごせば朕は新しく生まれ変わることができておった。此度こたびはそうはいかぬようであるがな」
 王はルチルにうすく笑ってみせた。
「王よ、もう一つよろしいですか。これまでの習いであれば、数年のずれはあろうとも、蝕はおよそ二百年に一度と伝え聞いております。五十年も早まったことなど、かつてあったのでしょうか」
 シンの声音は真剣であった。ラピスが膝の上から父を見あげる。
此度こたびが初めてじゃ」
「なにゆえ」
「それは朕にもわからぬ」
「あの」と、おそるおそるルチルが口をはさむ。
 王とシンがそろってルチルを振り返る。
「蝕がいつ始まるか、幼体をいつ産むかは、王様がお決めになられるのではないのですか?」
「それを決めるのは朕ではない」
「では、だれが」
「蝕は突然始まる。予測もできぬし予兆もない。時が満つれば始まる。この世の命はすべてが循環しておる。われもまたその環のなかにある。此度はその巡りが五十年早かった。それが何を意味するのか」
 王は首をふる。
「おそれながら、蝕が早まったことと、ルチルが天卵を宿したことに関わりはあるのでしょうか」
 シンが膝を進めて尋ねる。ラピスがシンの膝からずり落ち尻もちをつく。
 シンは気にも留めない。
「それも朕にはわからぬ。天の差配……であるかもしれぬな」
「天…」
 ルチルはつぶやきながら、萌えの褥に降り注ぐ光の先を、目をすがめて見あげる。
 そのとき、光の中から何かが弾丸の速さで一直線に降下してきた。ルチルは反射的に卵を背でかばった。

「王!」
 バサッ。
 鋭い羽音をたてて一羽のオオタカが舞い降りた。
「ご会談中、御免! 緊急事態ゆえご容赦たまわる」
「何事か」
「レイブン隊がルビ川沿いに火矢を放ちました」
「くっそ。もう気づきやがったか。王宮のしもべどもめ」
 シンが舌打ちして、鷹に詰め寄る。
「それで、どうなった」
「レイブン隊のカラスは、我らが追い払いました。火矢もほぼ空中で捕捉いたしました。なれど一本だけ取りそこね、ルビ川の川原に着弾。現在、川は堰き止め中のため即座の消火かなわず、川原が燃えております」
「わかった。われが鎮火しよう。怪我をしたものはおらぬか」
 王が問いただすと、オオタカは顔を背けた。
「くちばしを火傷しておるではないか、診せてみよ」
 王は褥から立ちあがり、オオタカのくちばしに琥珀の角をかざす。すると赤くただれていたくちばしの傷がみるみる癒えていく。
 これでよかろう、と言うと、王はそのまま角先を地面につけ四本の脚で下草を踏みしめる。
 それは不思議な光景だった。
 どんな技を使っているのかルチルには見当がつかなかったが、王が四肢を踏ん張って気を集中させるにつれ、体躯に光が集まり、それらが王の四肢と琥珀の角を通じ、エネルギーが白い稲妻のごとく地面を駆ける。
「王は川原の火を消されている」
 ルチルの隣に並んだシンがささやく。
「気が乱れるゆえ、話しかけてはならぬ」
 これが千年、白の森を守ってきた王の力なのだとルチルはふるえた。
 そのときだ。
 王が左の前脚の膝を折ってうずくまった。
「王!」
 シンが駆け寄る。
「結界のひとつが破られたようだ」
 王の透けた胴体の中ほどに朱色の斑点が浮かびあがっていた。
 シンが目をみはる。
「シンよ、どこに血腫が浮かんでおる」
「左の脇腹の背側中央あたりでございます」
「ならば、東の遥拝殿か」
 ルチルの顔面が蒼白になる。
 ――東の遥拝殿が破られたですって。お父様やお母様、エステ村のみんなはどうなったの。
 ルチルは心配と不安で錯乱する。
 喉の奥がごぼっと変な音を立てた。慌てて褥から下り、ふらふらとおぼつかない足取りでさまよう。耐えきれなくなってくさむらに嘔吐した。酸っぱい胃液が後から後からあがってくる。同時に目尻から涙がこぼれ出て止まらない。これまで必死で胸のうちに抑えこんできた不安が逆流した。霞んだ目は臓腑から溢れた吐瀉物だけをとらえていた。
 気づくとルチルの隣にシンが膝をついている。
「ごめんなさい。森を汚してしまって」
「汚した? 君は森に養分を与えたんだ。見てみろよ」
 シンが指さす。吐瀉物は跡形もなく消え、嘔吐したあたりには新芽が生い、緑の蔦がくねくねと伸び、慰めるようにルチルの頬をなでる。
「ルチルよ、心配せずともイヴァン殿はおそらく無事であろう」
「父をご存知ですか」
「イヴァン殿だけではない。四村の領主殿には、祭壇の御簾みす越しではあるが、会うておるわ」
「イヴァン殿は東の遥拝殿を王宮の追手に明け渡すことで、村人を守ったのであろう。それが娘を危うくすることになろうとも、領主としての責務を貫いたのじゃ。常であれば、遥拝殿に踏み込まれても、何人なんぴとたりともそれより先には進めぬ。森が排除するからの。結界が破られたことにさぞかし驚かれたであろう。そなたのことを心配しておるであろうな」
 そうだ。お父様は、卵を守ることだけを考えろとおっしゃった。
 アトソンは「お館様には村人を守るっちゅう使命がありなさるっちゃ」と言っていた。
 お父様は領主としての使命を貫かれている。私も自分の使命を果たそう。
われの躰は森の縮図でもある。森に異変があれば躰に現れ、どこで起きているかもおおよそ察しがつく」
 白の森の王はルチルの眼前に立つと、二本の琥珀の角が聳えるこうべを垂れた。
「ルチルよ、すまぬ。今の朕の力ではそなたも天卵も守ってやることができぬ。それどころか、森にとどまれば病に感染する危険もある」
「王様どうか、どうか頭を上げてください」
 おそれ多さにルチルが懇願する。
「よもやここで時間切れとなるとはな。すべてを語ることかなわずか。だが、朕が話さずとも、天卵の子とともに進めばいずれ知ることになろう。大海のいずこにか『隠された島』がある。かの島であれば、追手に気づかれることなく天卵の子を育てることもできよう。隠された島をめざすと良い」
「隠された島……ですか。それは、海のどこにあるのですか。どうやって行けばいいのですか」
「いずくにあるかは、だれも知り得ぬ。常に嵐に守られてあるとも、海をただよう浮島だとも伝えられておる。われも見たことはない。だが、そちが抱いているのが天卵であるならば、卵が導いてくれるであろう」
 王の言葉に応えるように胸の前で抱えた天卵が明滅する。
「ありがとうございます。ひとときでも私たちをかくまってくださり心より感謝申し上げます。これ以上白の森に迷惑をかけるわけにはまいりません。行きます。『隠された島』へ」
「追手は東の遥拝殿からやって来る。今の朕の力では排除できぬ。そなた裸馬はだかうまには乗れるか」
 ルチルは首をふる。
「鞍なしで乗ったことはございません。それに卵を落とすわけにはまいりません。速くはないけれど走ります。広い森のどこに私がいるか、追手は知り得ません。そこにがあります。深い森で人ひとりを探すのは難しいものです」
「まあ、待て。俺が乗せていこう」
 今にも駆けだそうとするルチルの肩をシンの厚い手が押さえる。
「王よ、しばしの間、ラピスをお願いします」
「承知した」
 ルチルは膝をついてラピスを抱きしめ、「ありがとう。またね」と小声でささやく。ラピスは小さな指でルチルの頬に残った滴をぬぐってくれた。ルチルはラピスを放すと立ち上がり、「失礼します」と断りを申してから、王の細い首におそるおそる手を回す。
「ありがとうございました。ご恩は決して忘れません」
「うむ。息災でな」
 王は琥珀の角で光をはらい、ルチルの額に口づけ、加護を与える。
「シンよ、頼んだぞ」
御意ぎょい
 森の奥から漆黒の馬が駆けて来た。
「こいつはタテガミ。白の森のなかではいちばんの俊足だ」
 黒く光る長いたてがみが風になびいていた。濡れたような艶やかな毛並みが、降りそそぐ光を乱反射させてきらめく。なんて美しいのだろう。いつだったかお父様が、黒毛の馬は青馬あおと呼ぶのだよと教えてくれた。ルチルが緊急時であることも忘れて見惚れていると、背後からシンの大きな手に腰骨をつかまれ軽々とタテガミの背に乗せられた。どこを持てばいいのかわからず、漆黒のたてがみをそっとつかむ。シンがひらりとまたがる。
「もっとしっかりと首に手を回せ」
「タテガミ、カーボ岬だ。ルビ川の川原からできるだけ迂回して岬へ。追手をまくぞ」
 シンが脇腹を足でひと蹴りすると、タテガミはひと声高くいなないて弾丸と化した。

 二刻ふたこくほど走ったろうか。かすかに潮の香のようなものが鼻先をかすめた。
「停まって!」
 ルチルが叫ぶ。
「どうした。あと半マイルほどで岬だぞ」
 シンが漆黒のたてがみをあわてて引く。
「だからよ」
 言いながらルチルは馬から降りる。
「潮の香りがする。海は近いのでしょ」
「これ以上シンにもタテガミにも」と言いながら、ルチルはタテガミの顎をなでる。
「白の森にも迷惑をかけるわけにはいかない。ラピスにはお父様が必要よ」
 シンもタテガミから降りる。
「王宮が追っているのは、私と天卵。身の安全を考えたら、見つからないのが一番だけど。でも、それじゃだめ」
「きっと彼らは私たちを見つけるまで森を荒らすわ。白の王様の力は、これからどんどん弱っていくのでしょう?」
「私たちが森から出たと、もう森にはいないのだと印象づけなければ。そうすれば、追手は少なくとも白の森からは撤退する。私にはまつりごとはわからない。けど、王宮だって愚かではないはずよ。彼らにとっての脅威は天卵の子であって、森ではない。白の森は千年この国を支えて来たのだもの」
 シンは黙している。
「ルビ川沿いは樹々が枯れて、空から丸見えなのでしょう? レイブン・カラスの偵察隊は戻って来ているはず。彼らに私が海に出たことを目撃させる。干あがったルビ川を行けば、海まで最短でたどり着けるし、カラスの目にもとまりやすい」
「この二刻ほどの間にずいぶんと成長したじゃねぇか」
 シンが腕組みをしながら、ふんと鼻をならす。
 ふふ、とルチルは笑みを噛みころす。
 運命の急転は人をいやでも大人にする。わずか一日足らずで、少女は大人になった。陽だまりのように幸せだった子どもの時間と思い出に、ルチルは訣別しようとしている。鳶色の瞳に覚悟がやどる。
「シン、ありがとう。あなたのこと、森の民のこと、もっと知りたかった」
「もう俺とラピスだけになっちまったからな。絶滅危惧種なんだよ、俺たちは。外のやつらとおんなし人間なのによ」
 シンが吐き捨てるように言う。
「どうして森の民は秘密にされてきたのか。どうしてシンとラピスだけになってしまったのか。尋ねたいことは山ほどある。でも、もう行くわ。シンはラピスのもとに戻って」
 ルチルが両手でシンの手をつつむ。
「ルチル。幼い君が森の褥で介抱されたとき、俺もあそこにいたんだぜ。毛皮を被って毛ものたちに紛れていたけどな。はじめて森の民以外の人間を見た。驚いたよ。話には聞いてたが、角も生えてなければ、牙もない、俺たちと何もかもが同じ女の子がいたんだからな。けど、この子は森にいることはできないし、俺が森の外に出ることもできない。何なんだろうと思った」
 シンが玉座のある萌の褥の方角を仰いでから、ルチルに視線をもどす。森の緑がその瞳に映る。
「伝えられていることが真実とは限らん。真実は巧妙に隠されることのほうが多い」
「だから。自分のここでな」と頭を指す。「考えることさ」
「真実は知ろうとする者の前にだけ、姿を現わすんだ。よく覚えときな。俺も君も、やっかいな運命のもとに生まれたようだ」
 シンの翡翠の双眸が痛いほどまっすぐにルチルをとらえる。
「ここを突っ切ればルビ川に出る。森のこと、俺たちのことを考えてくれて感謝する。生きろよ。俺もラピスと生きる。天の思惑なんてそくらえだ。いつかまた会おう」
 シンはルチルの両肩をぐっとつかんだ手を放すとタテガミにまたがった。
 タテガミはシンを乗せたままルチルの周りをゆっくりと一周する。長く豊かな墨色のたてがみが風になびいて美しい。
 やおら前脚を高く掲げると駆けだし、まばたきほどのうちに漆黒の肢体が銀の森の奥へと消えた。あとには一陣の風が渦巻いていた。
 ルチルも反対方向へとはじけるように駆けだした。

 はぁ、はぁ、はぁ。
 ルビ川をめざしてルチルは木の根道を走る。時おり立ち止まって呼吸を整え、天を仰ぎ見る。だが光に透ける葉裏は厚く重なり、まだ空は見えない。急がなければ。王宮の追手が森を踏み荒らしてしまう前に、私はここに居ると彼らに目撃させなければ。
 そのときだ。右足を盛りあがった木の根に引っかけ転びそうになり、卵をかばって地面に膝をついた。なめし革の靴がぱかりと裂けている。しかたない。両足とも脱ぎ捨て顔をあげると、視線の先が明るいことに気づいた。樹々がところどころ立ち枯れしている。見つけた、ルビ川だ。
 ルチルは川原を駆けおり、明るい空の下に走り出た。
 抜けた空を見あげる。
 レイブン隊はどこ? 
 鷹が天の高い位置で大きな翼を広げ旋回している。警戒態勢をしいているのだろう。あの鋭い目をカラスは避けることができるのだろうか。
 だが、ここから先はそんなことを考えている余裕はない。空から丸見えの川床を姿をさらしながら、追いつかれずに海までたどり着かなければならないのだから。
 ルチルはできるだけ目立つように、干あがったルビ川の真ん中を駆け抜ける。
 
 森は突然、途切れた。
 急に視界が全方角的に開け明るくなった。樹々はまばらで膝丈ぐらいの草の原が海風になびき、緑の波が打ち寄せる。海鳴りが聞こえる。
 ルチルは膝に両手をあてて大きくひとつ息をつき、潮風を胸いっぱいに吸いこむ。
 この先にあるのはカーボ岬だけだ。
 崖脇の細い獣道を伝っておりれば洞窟があり、そこに小舟がもやいであるはずだ、とシンは教えてくれた。「木の葉みたいに小せぇ舟だけどな。それに乗って行け」と。
 でも、それじゃだめだ。
 ルチルは天を振り仰ぎ、黒い影を探す。
 いた! 
 松の木の梢から黒い羽が飛びたった。連絡係が報告にいったのだろう。同じ枝にもう一羽いる。
 波が高い飛沫をあげて崖に幾重にもぶつかり砕ける。足がすくんで震える。
 ひとつ大きく深呼吸すると、ルチルは覚悟を決めた。
「よく、見ておきなさい。そして、ちゃんと王宮に報告するのよ。エステ村領主の娘は天卵を抱いて海に沈んだと!」
 最後は絶叫だった。
 空に向かって叫ぶと、ルチルは助走をつけ、切り立つ断崖から荒海へと放物線を描いて身を投げた。

 そのとき、何かが天空でチカッと光った。
 それは光の矢となってルチルの後を追い、海にダイブした。


『月獅』第1幕「ルチル」<了>


第2幕「隠された島」第5章「漂着」は、こちらから、どうぞ。



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