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君たちはどう生きるか、ネタバレ考察 (これが一番フに落ちたけど、人の数だけ答えが生まれそう🤔)


備忘録も兼ねて…


公開後すぐに映画を観て、
感じたまに以下のような感想を書きました。

エンタメ映画としての期待感が強かったせいか、
かなり嫌味な感想です。


その後、考察系のネタバレ動画やテキストを、気の向くままにアレコレ観たり読んだりしていたのですが、色々と考える事が出来て、なかなか興味深かったです。

そんな訳で、
パンフレットが発売された頃にでも
もう一度映画を観に行きたいと考えています。

で、その前に自分なりに考えたことを、このnoteにメモっておきます。


まずは、自分の中で引っかかった事を…


いちばん引っかかったのが、
主人公の眞人を含め、上の世界から下の世界に降りた人たちに、何か共通するものがあるのかどうか、またそれはどういう意味なのか?
ということです。

まず、この映画の主人公で有る眞人についてですが…

眞人が下の世界に降りる経緯や、その心情については、映画の前半パートをフルに使い、宮崎駿の自伝的な要素を投影しつつ丁寧に作られています。

今までの宮崎駿監督の作品なら、映画の導入部は、せいぜい長くても30分、どうかすると5分、10分で通り過ぎて行くような部分です。それに、今回は1時間近い時間を使っています。

これに関しては、
眞人というキャラクターがどういった存在で、このキャラクターに宮崎駿監督は、何を投影したいのか、という事だと思いました。

私は、眞人とは、ジブリという会社というか、そのブランド力のオマージュで、宮崎駿にとって、ジブリとは自分の生い立ちが大きく影響してる事を、映画の半分近い時間を使う事で表現しているのだと感じました。

つまり、

ジブリ🟰自分の人生

なのだと思います。

なお、宮崎駿の自伝的な要素については、
下のノートの記事を読むと、詳しいです。


大叔父と、若い頃のキリコや久子、そして夏子

眞人以外に下の世界に降りた人が、
分かっているだけで過去4人います。
塔を建てた大叔父と、若い頃のキリコや久子、そして直前に行方を隠した夏子です。どういう理由で塔に向かい、どのような経緯で下の世界に降りたのか…

特にキリコは、若い頃と年老いてから、二度も下の世界に降りていて、結果として下の世界で存在が重なる事になります。後で降りた年老いた方のキリコは小さなお婆ちゃん人形として御守りのようになり、若いキリコから眞人に託されます。

これは、いったいどのような意味を表しているのか?

大叔父と久子と夏子と眞人は、血のつながりがありますが、キリコにはそれがありません。確か、血のつながりがないと塔に入れないという会話があったと思います。

一説には、キリコは久子の父親のお妾で、子供を身ごもり下の世界に降りることになった、という隠れ設定があるという考察があります。もしくは、お手伝いとして働いているけど、実は非嫡出子で、血のつながりがあると言う隠れ設定があるのかもしれません。

もしかしたら、キリコは大叔父の隠し子なのかもしれませんね。

どちらにしろ、子供を身ごもり流産した経験があると考えています。
そしてその経験(独立してアニメーションを新たに創る事に失敗した経験のオマージュ)が、キリコのコメカミの傷になるのだと思いました。

あと、若い久子は、眞人が夏子を追いかけたのと同様に行方不明のキリコを追いかけ、下の世界に降りたのでしょうか?
その場合、二人の上の世界での神隠し前後の年齢差や、下の世界での歳の取り方とか滞在時間が少し気になりますが、どうなんでしょう…


下の世界とは、アニメーションの創作世界のこと


仮に、キリコが高畑勲、久子が宮崎駿、青サギが鈴木敏夫、大叔父が徳間康快、のオマージュだとします。

下の世界がアニメーションの創作に関わる世界なら、落ちてきた石は、アニメーションを仕事にして生きて行くという意思を表します。

大叔父が石の周りに建てた塔とは、ジブリの職場の事です。


この世界で、妊娠する事とは、独立してアニメーションを作るという過程を表します。宮崎が高畑から誘われて東映動画を辞め、それなのに退社の理由としていたアニメの制作は頓挫するという経緯について、その一連の騒動が、キリコの妊娠から流産という流れとして、若い頃のキリコと久子が下の世界に落ちたという意味を表しているのかもしれません。

ヒミは、下の世界から上の世界の戻り、久子となり眞人を生みます。
これは、徳間康快がジブリの初代社長で、高畑勲と宮崎駿がジブリという会社を起こし、優れた作品を産んでいく事に重なります。この時に、徳間書店のアニメ雑誌の編集長だった鈴木敏夫は、徳間書店でジブリ担当の部長という役職となり、徳間書店の会社員として陰でジブリを支えるキーマンとなります。

大叔父が連れてきたインコとは、アニメの直接的な創作に関わらないアニメ業界で働くサラリーマンたちを表し、あと合わせて、SNSやマスコミを含めたアニメーションを消費する存在たちという概念的なものも加わっているような気がします。

そのリーダーとなるインコ大王とは、私は主なオマージュは鈴木敏夫の事だと思いましたが、宮崎駿本人の共犯意識的な部分も含まれているのかもしれません。


また、鈴木敏夫は、徳間社長に対してはインコ大王としてのスタイルを徹底しますが、それと同時に徳間社長とジブリの間のメッセンジャーとして、現実と創作の上下の世界を移動出来る青サギでもあります。この映画の中の青サギは、現実の上の世界では、颯爽と優雅に飛び回る少し怖いくらいの存在感のある大きな鳥ですが、アニメ創作の下の世界では、弁は立つけど二枚舌的な愛嬌のある擬人化された小柄なキャラクターになっています。

インコ大王とアオサギは、大叔父の直接の手足となる存在で有り、この二つのキャラクターは、鈴木敏夫の複雑な二面性を表しているような気がしました。
映画の中でも、このキャラクターたちは存在が重ならないようなっていたと思います。

ネットで軽く青鷺について調べると、神からのメッセージを運ぶ鳥として、あの世とこの世を結ぶ存在であり、自分で決めた目的地に到達する為なら、いくらでも待ち続けることのできる辛抱強さを持つ鳥として、他の鳥全てが仕事を投げ出しても青鷺だけはじっと完成の日を待ちながら地道な作業を続けるシンボルらしいです。

また、青色はトトロのぬいぐるみでジブリグッズの商業的な成功の象徴でもある、ジブリロゴのイメージカラーを表しています。

なお、ジブリの歴史については、下からどうぞ。


夏子のオマージュとは?

そうなると、
直前に妊娠して下の世界に降りた
夏子とは、誰のオマージュなのでしょうか?

それは、ジブリの影響を受け、
ジブリに続くアニメーションの制作会社を起こしている存在…

庵野秀明、押井守…

細田守、新海誠…

または、宮崎駿の息子であり、ジブリで働いている、宮崎吾朗…

それとも、直接的にジブリから独立したという意味だと、
スタジオポノックの米林宏昌…


これら次代のアニメ監督たち…
という概念へのオマージュなのでしょうか?

産屋で、宮崎駿のオマージュであるヒミが、口出しを控え、手をこまねいていた感じだと、米林宏昌、宮崎吾朗、などジブリの次代に推されている若手監督たちがオマージュの割合としては、強めなのかもしれません。

また、眞人が夏子を母と呼ぶシーンがあります。
これは、宮崎駿の後のジブリブランドを引き継ぐ存在…日本のアニメーションを自分に代わって牽引する保護者的なものへの期待もこめているのかもしれません。

そうなると、現時点での眞人の弟にあたる夏子の子供は、庵野秀明のカラー、新海誠のCWF、辺りのイメージなのか…
それとも、やはり血の濃さでみて、米林宏昌のスタジオポノックでしょうか…


二つ目に引っかかった事

若い頃のキリコと久子は、
いったいどれくらいの期間、下の世界に居たのか、気になりました。

上の世界下の世界では、時間の流れ方に違いがあるのか?
眞人と年老いたキリコは過去に落ち、ヒミと若い頃のキリコは未来に落ちたのか?
さらに細かく言えば、若い頃のキリコと久子は、同じタイミングで下の世界に降りたのか、それとも降りた時期に差があるのか…

さらに言うと、下の世界は過去にも未来にもつながる創作という夢の世界なのに、なぜヒミは、神隠しから戻ってくる扉に1年間の後の世界を選んだのか? また、キリコの神隠しの期間は、ヒミと同じなのかどうなのか?

ヒミは、大叔父の世界が消え去る時に、眞人から過去に戻ると火事で死ぬと言われ、自分は火は怖くない、眞人(ジブリ)を産めるなら素敵だと、過去への扉を選びます。

これについては、
もう一度火に焼かれるような苦しい思いをしても、ジブリを産みたいという宮崎駿のジブリ愛を表しており、アニメーションは、ただ創るだけではなく、商業成功させるための嫌な部分も引き受けないと悪いという、アニメーションを仕事として成立させることへの真摯な思いの現れなのかもしれません。

そして、下の世界で大叔父やインコ大王のいる城から離れ漁師をしていたキリコの事は、現実よりも創作を優先する姿勢を表しており、ワラワラの大群が膨らんで上の世界へと飛んで行く場面は、創造が昇華され、作品として生まれて行く過程であり、二重螺旋で上昇して行く姿から、作品のDNA的な繋がりや、その商業的な成功が自転車操業的にお金で繋がって行く事への皮肉も意味してるように思えます。

ワラワラの本質とは、興行収入としてのお金そのもので、
それを食べ始めたペリカンたちとは、アニメ制作スタッフの事です。

アニメーションを作るためには多額の人件費が必要で、キリコはワラワラを食べ尽くすペリカンを見ているだけだったのに対し、ヒミは突然船でやってきて、そのペリカンに火を飛ばして容赦なく燃やしだしました。
さらにそのヒミの火は、周りの多くのワラワラも同時に燃やしていて、自身がアニメーションの制作スタッフに思っている事や、それでいて、それは自分自身も同じだという事への、高畑勲の制作費に頓着せずに創作する姿勢に対する皮肉や憧れを表しているようにも思えました。


三つ目に引っかかったのは…


眞人が、下の世界に落ちた場所や、
その後のキリコとのやり取りが気になりました。

眞人が最初に訪れた場所は、
大きな石を重ねた墓のある島で、「学我者死」(我を学ぶ者は死す)と書かれた門をペリカンに押されて開き、墓の主を目覚めさせてしまいそうになります。

この墓の主とはいったい誰の事なのか?

これは、単純に考えれば、宮崎駿本人です。

何度も引退すると言っては復活を繰り返す、自分への嫌悪感と合わせ、次代のアニメーターへ自分に学ぶような事は止めてくれと暗に示しているのだと思います。
これは、自分のマネをするのなら、自分に分からないようにやってくれ、という意味であり、自分のようになるためには、死ぬ気で学ぶ必要が有るという、本音だと思いました。

キリコは墓の主を抑えた後、眞人を船に乗せ、漁をしながら家に戻りますが、そこで釣り上げた魚の生々しい捌き方(創作活動)を、眞人に指導しています。

キリコは眞人に、下の世界の住人は殺生ができないため、私が魚を捌いていると言い、魚のハラワタはワラワラが飛び立つための滋養になると説明しました。

この魚を食べるために集まってくる住人たちが、何を意味しているのか…

これも、単純に考えれば、アニメーションを楽しみにしているファンというか、ジブリにお金を出してくれる顔の見えない視聴者たちの事ではないでしょうか?

あと、なぜ宮崎駿のオマージュである久子は、下の世界ではキリコ(高畑勲)にヒミ様と呼ばれていたのか気になりましたが、ダジャレ的に考察すると、この世界のヒミツを体現する人って意味なのかもしれません。

ちなみに、眞人がペリカンから襲われて大丈夫だった理由として、キリコは、眞人が青サギの羽を持っていた事で納得してますが、これは鈴木敏夫への皮肉ですね。



最後に、


この映画は、
上の世界を舞台とした前半部分と、
下の世界を舞台とした後半部分に大きく分かれますが、脚本を作った宮崎駿監督自身、一つのキャラクターに複数の存在や意味を被らせていると思われ、また実際にあったエピソードの投影も時系列やそこに登場するキャラクターたちとの関わりも、異なる舞台かつシュールな世界観の中で抽象化され表現されており、単純明快に、これが答えだという風には作っていないのだと思いました。

自分なりにダラダラと考察をしたのですが、
最後に一つ追加考察すると…

最後の方の出てくる、眞人が大叔父から託されそうになった13個の石ですが、これに関しては、ジブリを商業的に続けて行く事の象徴だと考えています。

徳間社長が亡くなるまでのジブリ作品数が13個で、亡くなった後に鈴木敏夫が社長を引き継いでからの作品数も13個です。
作品数は、下のサイトから数えました。


何かの記事か動画で読んだか観たのですが、
宮崎駿が自分にとってのジブリの社長とは、いつまで経っても徳間社長の事だと語っていて、それが妙に記憶に残っています。


インコ大王が、大叔父から石を奪い、改めて13個の石を雑に積み上げるシーンは、宮崎駿の自身への自戒や、鈴木敏夫への奥深い思いを感じました。

そして最後、積み上げて崩れそうな石を、崩れるのならばとインコ大王が自らの手で真っ二つにして、下の世界が消えて行く…

これこそが、
今回の映画を象徴するシーンであり、宮崎駿が自身の名前を宮﨑駿に改名し、ジブリへの思い…アニメーション創作への思いをリセットしたことを表明しているのかもしれません。

今まで、自身の身を粉にして、創作した作品に振り撒いていた魔法の粉を、今回は思うように振りまけなかったことで、何かを諦め、でもそれこそが新たな可能性なのかもしれないと感じ、そしてその経験すらも、最後の作品になるかもしれない映画の中で何かしら表現しようと試行錯誤したのかもしれないな、とか、そう感じました。

働き方改革で「(午後)8時には帰れ」ってなっているんですよ。僕ははじめ抵抗していたんですが、8時にみんな帰った後、ひとりでたばこを吸っても、1時間と持たない。「誰もいないな」って(笑)。だから結局僕も8時に帰るようになったんです。ただ僕は出てくるのがどうしても遅いんです。そうなると「おれが一番働いていない」って。だからつじつまを合わせるために、(スタジオは)土日が休みだから、土曜半日出て、晩飯までには帰る。

この前、土曜が用事でつぶれて日曜に出たんですよ。そしたら月曜からダメージがもろにきて。1週間に1日も休まないっていうのは本当にだめになっています。昔は日曜も平気で出ていたけど、もうだめですね。働き方改革なしで夜12時までやっていたら進むのかと言ったらたぶん進まないですね。だから8時には帰ると決めたのは悪くないですね。一斉に潔く帰っちゃう。そうするとなんとなくみんなでぞろぞろ帰る。

8時には帰るようになってみんな人間的な顔になった。土日休みでしょ、月曜日ちゃんと明るい顔して出てくるから。

――久しぶりにスタッフを結集してみたら、そういう変化を感じられたんですね。

変化も感じたし、自分がコントロールしていた部分をこの人間は信頼できるからって渡すって。かなり大胆に渡しています。服のしわの描き方とか、おれが描いたより近代的な感じがする。魅力がありますよ、新鮮だから。

――大胆に渡せるようになったのはご自身の心境の変化なんですか?

渡さざるを得ない。渡したいから渡したのではなく。とてもじゃないけど自分の机の上に置いておいたら全部ここにたまるだけ。「なんとかして」って。そういうことも含めていろいろ新しいことに僕自身も遭遇しているんですけど。新しいことっていうよりいまわの際にいろんなものを見ているっていう(笑)。

【中略】

――アニメーションの可能性についていまはどう思われていますか。

それはどういう才能が現れてくるかにかかりますよね。それが商売になるかならないか。ほとんどの商売になっているものはくだらなくて、時々きらっと混ざるんですよ。そういうきらっとしたものに関わることができるかできないかはその人の運ですね。

才能があってもきらっとしたものに関わらなかった人間っているんですよ。それでつまらないものをやっていると早く劣化します。やっぱり死にものぐるいにやるというのをなんとかやっていた方が……。限界はありますけど。

朝日新聞デジタル: 宮崎駿さん「いまわの際に」見る景色 独占インタビュー


そして、映画の最後…

下の世界の消滅から逃げ出した鳥たちは、
上の世界に出るとすぐ、ただの普通の鳥に戻り、そのままフンを撒き散らしつつ、皆、散らばるように何処か遠くに飛んで行ってしまいました。

これは、ジブリでのリストラというかスリム化というか、2014年の制作部門の解散へのオマージュでしょうか…

そしてこの時、
眞人は、現実世界に石を一つ持って帰ります。

これにより、眞人の下の世界の記憶(ヒミツ)は消えませんでしたが、それを知った青サギは眞人(ジブリ)に対し、その記憶も直ぐに消えるとか言い自身もいなくなります。そして、直ぐに場面はアッサリとした数年後の短いラストシーンに切り替わり、ほとんど余韻のないままエンドロールに進み映画は終わります。

エンドロールは地味な青色の背景で、
ジブリロゴのイメージカラーと同じ色でした。

宮崎駿監督は、
この映画の答え合わせは死ぬまでしないと思いますが、
歳とると怖いものが無くなるのか、かなり攻めている印象を持ちました。


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