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マッチョ・イン・テキサス(『罪深き誘惑のマンボ』レヴュー)

 よく知られているように、アメリカの大統領選挙では、州ごとに割り当てられている選挙人の数によって選挙の結果が決まる。昨年の11月に行なわれた大統領選では民主党のヒラリー・クリントンの獲得数は232人、共和党のドナルド・トランプの獲得数は306人であった(註―この原稿は2017年に書かれた)。この結果トランプのアメリカ大統領就任という、世界の多数の人がいまだに納得のできない珍事(?)が起こったのである。歴史に「たられば」はないというものの、もし票田としては大きいテキサス(38人)でヒラリーが勝利していたならば、結果は違うものとなっていただろう。

 ここで「テキサス」の名が出たのは、1995年に発表されたランズデールの『罪深き誘惑のマンボ』がテキサスを舞台としているからである。なるほど、主人公の白人と黒人の2人組の間で「おまえら民主党の白人野郎ときたら、まったくがまんならないね」「おれががまんならないのは、共和党に投票しないだけの分別が黒人連中に欠けてることだ」というふうな、なかなかシリアスなやりとりが交わされもする。彼ら2人は、政治的というよりは、むしろ、暴力的と呼んだほうがよさそうなシビアな世界と絶えず接し合っている。まずは本作のあらましをざっと紹介しておこう。

 主人公はハップ・コリンズとレナード・パインの2人。ハップは性的にはストレートの白人。レナードはゲイの黒人。2人は時として反目し合うことはあっても、深いところで信頼関係を結んでいるいいコンビである。クリスマス・イヴに、隣人の麻薬密売人が子供に麻薬を打っていることに腹を立てたレナードが放火事件を引き起こしたかどで、ハップとレナードはラボード警察署にしょっ引かれる。そこで2人はある取引を持ちかけられる。

 かつてはハップの恋人で、現在はラボード警察の警部補ハンソンと恋愛関係にある美貌の黒人弁護士フロリダ・グランジの居所をつきとめてもらいたい、とハンソンに依頼されるのだ。フロリダは、テキサス東部の街グローヴタウンで、黒人の獄中自殺事件の真相を探っていたのだが、行方不明となり消息が途絶える。フロリダの居所をつきとめさえすればレナードの放火事件は見逃そうと、警部補は言う。こうしてKKKが支配する腐りきったグローヴタウンでの、ハップとレナードの地獄めぐりが始まる。

 時代は90年代。世界的には「ポリティカル・コレクトネス」が広まって一般にも認知されている。とはいうものの、テキサスは同時代の空気からは遮断されている。「ニガー(黒んぼ)」や「マザーファッカー」という言葉が、日常茶飯事に飛び交っている。ハンソン警部補の気のいい部下であるチャーリーもまた、そのようなドナルド・トランプ的風土に半ば以上染まっていて、そのことにさしたる違和感を抱いているふうもない。<政治的に正しくない>。そんな類の便利な言葉もあったなあ、と涼しい顔で、テキサス的価値観を肯定している。良くも悪くもトランプ的反知性主義を、着慣れた衣服のように、自分の肉体に馴染ませている。

 放火事件後ハンソン警部補のオフィスで警部補の到着を待つハップとレナードを前にして、チャーリーは暇つぶしの余興として、指をさまざまに組み合わせながら「影絵ショー」を披露してみせる。犬とアヒルはそこそこの出来なのだが、その後はどれもクモにしか見えない。

「どうだ、これは?」チャーリーがたずねた。「何に見える?」
「それもやっぱりクモに見えるぜ」おれは答えた。
「もっと練習しなきゃな」チャーリーはいった。「影絵の本も買ったんだ。女房が趣味を持てってきかないんで、こうしてはじめたってわけさ。おれにとってはリラックスできる趣味なんだが、女房はあまり気に入らなくてね。ジムに行って運動でもしろっていうんだ。でも、これならおれは家にいて、安楽椅子にかけたまま、大きな電灯を消して脇机のライトをつけて楽しめるだろ。飽きたら、合間にテレビでも見てさ。どうだ、これ、子猫ちゃん(プッシー)に見えないか?」
「いったい、どこが猫なんかに見えるっていうんだ?」
「猫じゃないよ、プッシーだ。ほら、アソコだよ。どの女にも付いているやつさ」
「ああ、なるほど」おれは答えた。「見たことがあるような気もするな」
「どうだ、これなんか?まっ黒なアソコだよ。そっくりだろ?」

『罪深き誘惑のマンボ』

 この上なく馬鹿馬鹿しくお下劣だが、害のない反知性主義、というよりはこの没知性主義には、人の心を惹きつけるところがある(誰の心の中にもトランプはいる!)。あるいはアメリカ民主党の女性議員ならば、女性蔑視だとブーイングを鳴らすであろうか?(このあたりで賢明なる女性読者は本稿を読むのをやめてしまったのではないかと、私、いささか心配しております。どうか最後までおつきあい下さい)。

 ともあれ、品行方正で理想主義的なバラク・オバマ的言語風土から限りなく遠いところで本作の物語は繰り広げられる。ポリティカル・コレクトネスな言葉がやりとりされるであろう「公共空間」を、この作品は見事なまでに欠落させている。その空間は、錦糸町のキャバクラと化し、下半身剥き出しの、トランプのツィッターをもはるかに凌駕してやまないお下劣カーニバルが繰り広げられ、「チンポコ」「キンタマ」といった言葉が3ページに1回くらいの割合で頻出する。ゲイのレナードは、恋人のラウルに向かって、1度は負けたKKKとの再度の戦いへと挑むにあたって、次のように恋人を説得する。「おれは男なんだ。キンタマだってちゃんとついている、おまえと同じにな。おれは男のタマが好きだ。おまえのタマも好きだが、それでもおれは男だし、男だってことを意識していたいのさ」。とても繊細な心を持つゲイの言葉とは思えないが、マッチョなトランプ的風土で戦おうとするならば、ゲイも一時的にはマッチョとならねばならない。「毒を以て毒を制す」ように、キンタマを以てキンタマを制しなければならない。

 かようなトランプ的風土にあっては、公共空間の番人である警察官もまた、お下劣さを身にまとい、言葉のキンタマ・プロレスにチンポコ・ファイターとして参戦し、パーフォーマンスを演じることになるだろう。愛する息子を筋ジストロフィーで亡くし、筋ジストロフィーのほかにもさまざまな慈善医療団体への寄付活動に奉仕する、本当は心優しいグローヴタウン警察の署長カンタックは、ハップとレナードと初めて対面した時、チンポコ・パフォーマンスで2人を挑発する。

「おやじはいつもわしに、黒んぼの女なぞごくつぶしにすぎんが、ただひとつだけ、おそろしくいいところがあるといってたもんだ。おやじもここの署長でな、黒んぼと取引する機会が多かった。おやじは黒んぼの女どもから、特別なやり方でたっぷりと支払ってもらってたのさ。あんたにもわかると思うがね。わしはおやじのあとを継いでここの署長になった。あとあとの面倒がなくて穴のついてるもんなら、わしはなんだってかまわんのだ。実際のところ、ガキのころはニワトリの尻にこいつを突っ込んで、何羽かは死なせてしまったもんさ。死んだニワトリを見つけるたびに、おふくろはわしをベルトでひっぱたいたもんだ、わしのせいだろうとなかろうとね。夜中にブタがわめくたびに、おふくろは部屋に来てわしをひっぱたいたよ」

『罪深き誘惑のマンボ』

 トランプも呆れるような下品さだが、このセンスには妙に心惹かれてしまう(誰の心の中にもトランプはいる!)。ところで、もはやこのあたりで、本稿を読もうとする女性読者は完全にゼロになったのではあるまいか?もうこうなれば、「男祭り」へとまっしぐらに突き進むしかあるまい。弁解じみるようだが、本稿はトランプ的ポピュリズムへの対抗策を探っているのですよ(←噓くせぇー!)。プロレスにも通じているトランプに対抗するには、オバマ的清潔さも有効だが、場末のキャバクラ的な言葉のプロレスに開かれた感性もこれまた必要であるに違いない。本作はそうした下世話な言葉のパフォーマンスの恰好のテキストであるのだ。これまではお下劣な引用ばかりしてしまったが、本作には、ひと味違う「粋なお下劣」も用意されている。トランプとオバマの奇跡的な融合といったところか。ハップとレナードは、グローヴタウンで、KKKの一団に激しいリンチを受けるのだが、運び込まれた隠れ家で、なんとか気分を盛り上げようと、ハップはレナードに話しかける。

「さびしいカウボーイたちのジョークを知っているかい?」
「おい、ハップ、いまはやめてくれよ」
「いや、おまえを慰めようと思ってさ」
「こんなときにジョークでもないだろう」
「まあ、聞けよ。あるところにカウボーイの町があった。そこに男が馬でやってきて――」
「ハップ、頼むよ」
「バーに入り、二、三杯ひっかけた」
「どう止めてもつづけるつもりなんだな、え?」
「酒で舌がなめらかになったころ、そいつはバーテンダーにいった。『ところで、女どもはどこにいるんだい?おれはもう半年も女にありついてなくてね』」
「おい、これは性差別ものかい?」
「まあ、そうだろうな」
「なんでもいいや、つづけてくれ。どうせおれとは関係のない話だけどな」
「だったら、ゲイのカウボーイってことにしてやってもいい。その場合は、『おれはもう半年も男の尻にありついてなくてね』になるわけだ。カウボーイの酒場にしちゃあ、なかなか進んだ場所ってわけだ、どうだい?」
「どうでもいいから、早く終わらせろよ」
「すると、バーテンダーはいった。『それがこの町にゃ女は――男はいないんですよ』おい、レナード、やっぱりだめだ。この話は女じゃないと意味がないんだよ」
「わかったよ。好きにしてくれ」
「バーテンダーはいった。『この町にゃ女はいないんですがね、その件についちゃあ、わしらはちょっとした解決法を見つけたんですよ』カウボーイはいった。『へえ、そりゃなんだい?』バーテンダーは店の客に声をかけた。『さあ、みんな、このお客さんに見せてやってくれ』町の男たちは、カウボーイを酒場の裏に連れていった。そこには、スイカの畑があった」
「オチが読めてきたぞ」
「いや、わかってないね。男たちはカウボーイを柵のところまで連れてきて、まるまると育ったスイカを見せた。カウボーイはいった。『おれにはどうもわからないんだがね』男のひとりが答えた。『スイカをひとつ選んで、そいつに穴をあけ、あんたのチンポコをぶちこむのさ。こんな暑い夜にゃ、おそろしく気持ちがいいんだぜ』」
「なんだか気色の悪い話だな。それで?」
「カウボーイはその話を聞き、控えめにいっても仰天した。だが、さっきもいったように、半年も女っけなしの身だ。柵をよじのぼると、あたりを見まわし、器量よしのスイカを選びだした。ガラガラヘビみたいな縞のはいった、そいつがぐっときたのも不思議はないようなやつだ。カウボーイはポケットナイフを取り出し、そのスイカに穴をあけた。そのとき、突然他の男たちが息を呑み、たじろぐ気配が感じられた。カウボーイはふりむいてたずねた。『おい、どうしたっていうんだ?』
ひとりが答えた。『あんた、火遊びをしちゃあいけないよ。そいつはジョニー・リンゴの女だぜ』」

『罪深き誘惑のマンボ』

 この予想だにしないオチに「粋」を感じないだろうか。少なくとも私は、膝をつき「参りました」と心地よく白旗をあげた。知性のきらめきを見るような思いがした。バラク・オバマならこのようなピロートークをして場を盛り上げる(下げる?)のではなかろうか。


 トランプ現象の背後には「きれいごとの力」の衰弱があるのは間違いないが、さしあたっては知性の輝きが取り戻されることが急務であると思われる。それも場末のキャバクラと公共空間との間に通路をつなげるような知性が。本作から引き出す教訓があるとするなら、そのひとつは、フィリップ・マーロウの有名な台詞「男はタフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きる資格がない」をもじって言えば、「テキサスでは男はトランプでなければ生きていけない。オバマ(のように理想を担い)でなければ生きる資格がない」というものだ。

 ところで、「さびしいカウボーイたちのジョーク」を聞いて大笑いをした後、大統領選挙に行ったら、私、トランプに票を入れてしまいそうです(やっぱりトランプは手強い!)。


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