見出し画像

ラディカル・ゾンビ・キーパー 四

駅前にスターバックスができたの知ってる?
どの辺?
駅出て、右の方、
ローソンがあったとこ?
そうそう、昨日、フウカと行ってみたんだけど、暇そうだった、
ローソンの前はなんだったっけ?
ビデオ屋じゃなかった? キャラメルマキアートもなんとなく微妙な味だったよ、
アメリカンコーヒーが一番おいしいよ、
薄いやつ?
そう、
あそこはリッチが悪いよね、あたしら高校生ぐらいしか行かないでしょ、
すぐ潰れるよ、
誰も来なくてあたしらのプライベート・カフェみたいになったら面白いけど、
すぐ潰れるよ、
さすがに半年は様子見るんじゃない? でもちゃんと計算してから建てればいいのにね、
土地が安かったんでしょ、
てか地元で遊ぶ気にはなれないけど、
「お待たせ、はじめまして」
 ロールケーキみたいな甘ったるい声でそう言って隣の部屋から出てきたのは、黒いトレーナーを着た、唇が肌とほとんど同じ色の男だった。猫背で茶色い前髪が鼻に掛かっていて、目の前のクリーム色のソファに浅く座ると、抱えていたファイルをガラスのテーブルにどさっと叩きつけるように乱暴に置いた。私は感じの悪い人だなと思ってクミとのメールにもイライラしていたから鼻息を思い切り吐いて猫みたいに苛立ちを表したかったけど、なるべく無表情に、こんにちは、と応えた。
「緊張してます?」
 私は頷いた、けど、緊張とかよりも水が飲みたかった。男の声を聞いてると喉の奥が溶けてベタベタしたみたいな感じになってくる。クミがキャラメルマキアートなんて言うからキャラメルのロールケーキを思い浮かべてしまって口の中もスポンジに吸い取られた感じで水分がなくなってきたてゆか水くらい出せ。
「とりあえず、色々、今日、面接っていう形で聞いていくんだけど、今、学生? 大学生? あそう、頭良さそうだね、良くないの? そんなことないよ、絶対頭いいよ、頭良さそうだもんなんか、じゃあ平日はほとんど昼間は学校? 今日は大丈夫なの? 真面目に学校行ってる? 全然学校来ない奴とかいるでしょ、遊んでばっかで、学校自体が遊びに行ってるみたいなもんか、友達に会うために学校に行ってる、そう、サークルとかは入ってる? 特に入ってない、サークルないの? あそう、なるほどね、あれかな、サークルで汗を流すよりも男と遊んで汗を流してる方がいいかなって感じ? そんな失礼なって?」
「あの、説明をお願いしたいんですけど」
 私がそう遮ると男は言うことを聞かない子供に火のついた煙草を投げつけたみたいな顔を一瞬した。これなんだけど、男はそう言ってファイルから取り出した紙切れを私の目の前にさっきとは違って優しく差し出した。そこには名前やスリーサイズを記入する簡単な項目がいくつかあった。
「今からこういうの書いてもらうんだけど、名前と、ま、適当に、いや適当に書かれても困るんだけど、秘密、ってのはなしね、体重とかスリーサイズとか、そう、初体験がいつとか、正確でなくてもいいから、分かる範囲で、前に計った数字でもいいし、趣味とかも、たまに聴く程度でも音楽とか、読書とか、映画とか、好きなものならなんでもいいから、そういう感じで、書いて」
 幼稚園の頃の記憶をノートに可能な限り書き出して、それらに時間の順序をつける、というのをたまにやりたくなってやることがある。特にテスト前は掃除と共にやりたくなる。幼稚園のバスの中でお母さんと離れたくなくて泣き叫ぶとか、ビニールプールにオムツのまま入るとか、車の排気ガスを間近で嗅いで怒られるとか、幼稚園の砂場に落とし穴を掘るとか、土管の上から転がり落ちて膝を擦りむくとか、でも、それらはびっくりするぐらい季節や時間が曖昧で、一番古いと思っていた記憶が実はアルバムの写真で見た記憶で、その頃にはまだ物心がついていないはずだから記憶にあるわけがないとか思って、考えて考えて考えているうちに脳みそが痒くなってくる。甘ったるさは無くなったけど、男の話を聞いていると、それとまったく同じ痒みが脳みそに湧いてくる。
 私は耳の裏にチャックがあったらそこから手を突っ込んで脳みそを掻きむしりたいと思いながら名前と歳以外はだいたい正確に記入した。名前は、フウカ、にした。歳は二十歳で、それは高校生が不可になっていたから大学生を気取ることにした。
男は用紙を受け取ると、フウカちゃん、と呟いて、自分がフウカって呼ばれるとこんなに嫌なんだなと私は思ってキョウコとかノゾミとかユリとか別の名前に可愛い名前にすればよかったってかなり後悔した。
「野球好きなんだ、どこファン?」
「ジャイアンツ」
「ふーん、女の子で珍しいね、あでも最近は女の子もよく観るのかな? 俺が野球に興味ないからよく分かんねえや、で、今こうして書いてもらったものを参考にして、今度、スタジオとかで、写真を撮るんだけど、いくつか、こういうのが、あるんだけど」
 男はファイルからポラロイドの写真を何枚か取り出して、私の前に並べた。それぞれに綺麗なモデルさんが写っていた。アンティークテイストなベンチに腰掛けたもの、ヨーロッパのお城にあるみたいなフェンスに寄りかかっているもの、屋根裏部屋にありそうな三角窓を眺めているもの、革のソファに両手をついているもの、桟橋の端っこで足を投げ出しているもの、タンポポの生えた草むらを駆けているもの、どれもすごく綺麗に可愛く撮れていて、ただ、みんな裸で、あそこの毛が見えていた。中には股を大きく開いてあそこが丸見えのものもあった。
「見て分かると思うけど、これがスタジオで、これが普通の街で撮ったもの、スタジオでバシっと決まる娘もいれば、なんつうか、遊んだ感じ、遊び人じゃなくて、普段遊んでる、自然な感じを撮りたくて街に出たりする、その娘に合った雰囲気を出すっていうのはすごく大事で、自然体が一番可愛く撮れるんだよ、色々考えてる、こう見えてもね」
 男はそう言って歯を見せて満足そうに笑った。コンプリートしたトレーディングカードを見せびらかしてる小学生みたいだと私は思った。結構、綺麗に、可愛く撮れてるでしょ? うん、かわいい、
「水着の仕事ってことで来てもらったけど、色々、うん、水着の仕事もあれだけど、どう、裸の写真見て、綺麗でしょ? 裸の方が水着よりずっと魅力的だし、どう、裸の仕事っていうのも、一応、お金にはなる、早い話が、水着とは比べ物にならないくらい、何十倍ってこともあるし、だから、一回やってみて、出来そうもなかったら、出来ないっていうのであれば、やめればいいし、強制じゃない、お金がほしい時にだけやればいいわけだし、ちょっとでもやってみようかなっていう気持ちがあるんだったら、即、歓迎、即日で給料も出せるし、ねえ、コンビニとかマックでバイトするんじゃ手に入らないような額だから、有意義に使えるし、ちょっと、考えてみる? 水着の数倍は稼げるよ、NGとかある? やってみてからじゃないと分からないかな?」
 コンビニで立ち読みしたアルバイト雑誌に臨時の水着モデルを募集している会社があった。十二月前なのに水着っておかしいなって私は思ったけど撮影一回二万円で援助やるよりも遥かに安全で稼げるし雑誌に載ってカリスマモデルとかになれたらまたそれでおいしいなって思ったけど男が裸とか言い出してお金が数倍とか言い出した。でも裸になるだけで数倍、十万も稼げるならちょっといいな、バレなければ、綺麗で可愛く撮れてるし。
「NGって、なんですか? 普段の生活で出来ないこととか、ですか?」
「生活っていうか、これは、俺らみたいのは、ビデオだからさ、見たことある? こういうビデオ」
 男は肛門を突き出した女がアップになっているパッケージのビデオを目の前に置いた。肛門にはモザイクが掛からないんだ、いいんだ、肛門は、
「ラブホでたまに、見ることはあります」
「そうそう、ああいうの、あれって、あれだけ流れてるとバレるって心配に思うかもしれないけど、意外とバレないんだよね、毎月何十本、何百本とリリースされて、バレようとしてもバレないし、探しようにも探せないんだよね」
「水着じゃなくて、ビデオなんですか?」
「俺らはね、でも俺らのはレンタルとか大手の電気店には流れないから、ホントにネットのマニアなサイトにだけ発表してるから、千人いても一人見るか見ないかだよ、この写真見てもらったら分かると思うけど、メイクとかさ、コッテコテにやるから、このモデルの娘たち綺麗に写ってるけど、普段はこの写真を見せられただけじゃ絶対に分からないぐらい顔違うからね、超外人顔で特徴がモロアリだったらしょうがないけど、フウカちゃんも可愛いけどその辺にいる顔と作りはあんまり変わらない、日本人自体があまり特徴がない顔だから、分かんないんだよね、どうかな、やってみる?」
「ビデオなんですよね? 水着じゃなくて」
「一回でお父さんの給料ぐらいは出る」
「具体的に、何をやるんですか? 水着着てビデオに出るんですか?」
「ん、具体的に、まあ、あれだよ、セックスだよ」
 生きる意味はない生きる意味はない生きる意味はないって呟く夢を私は何度も見る。二度や三度じゃない、ずっと前から、中学に入ってすぐくらいから、何度も見てきた。私はその度に何度も何度もなんでこんな夢を見るんだろうって考えた。別に悩みなんかなかったし、先輩はウザかったけどバドミントン部はそこそこ楽しかった。生きる意味はない生きる意味はない。テレビでホームレスの特集をやっていた。ソープ嬢の特集もやっていた。どちらも、死人のようだった。お金がないからだった。私はお母さんからお小遣いを月に一万円もらっているけどお父さんは普通のサラリーマンだし私は頭があまりよくないからあまりよくない短大へ行ってあまりよくない企業へ就職してあまりよくない男と結婚してあまりよくない家庭を持つ。だからお金がなくなると、ホームレスとソープ嬢が待っている。お金がなくなるとあのホームレスやソープ嬢みたいに死人になる。夢は願望充足だって誰か偉い学者さんが言っていたから、きっとこのままだと私がお金を稼がない人生になってしまって死人になってしまうからそれはつまり生きる意味がなくなってしまうからお金を今のうちからいっぱい稼げよってことだと最近になってやっと分かった。今でもその夢を見るのは稼ぎ方が足りないからで確かにミオを見捨ててあの子の好きにさせたらいいよって言ってるお母さんの代わりにミオを大学へ行かすには貯金が全然足りない。一回でお父さんの給料ぐらいってことは四十万円だから調べたら大学の年間の学費がだいたい百万円で四年間で四百万円だから十回やればミオを大学に行かすことができる。援助で髪をつかまれて投げられて足をぶつけて怪我するよりも会社だから安全そうだしこの世に無数とあるエロビデオでバレることもないだろうしハメ撮りはマニアックなオヤジで何回か経験したし生きる意味はない生きる意味はないって夢を見続けていたのはきっと今日のためだろう、偶然は存在しないこの世には必然しか存在しない全てに意味があるんだってどっかの有名な占い師が雑誌のインタビューで答えていたからきっとこれだ。
 渋谷からここまで案内してくれたドレッドヘアの男が隣の部屋から出てきた。ここへ辿り着くまでの間、ドレッドは能面みたいな笑顔を浮かべたまま煙草を吹かすだけで始めの挨拶以外は何も話さなかった。ドレッドはあかべこみたいに頭を下げて、また能面みたいな笑顔で部屋を横切っていった。
いつの間にか脳みその痒みが消えたなと私は思った。そしてその脳みその痒みは点と点が必然で繋がったっていう潜在的な意識の表れだったのかななんて思ったけど難しくてよく分からなくなった。でも、水はまだ欲しかった。唾がネバネバしてきた。
「今のがカメラマンね、この写真も彼が撮ったんだ、うまいだろ、綺麗に撮れるよ、フウカちゃんも、これから休みに入って、クリスマスもあるし、お金もいっぱい掛かるだろうし、どうだろう? 出来ないことは出来ないでいいんだ、もちろん、これをやらないと絵にならないっていうのはあるんだけど、アナルとか、ムチとか、そういう、特別なことだよね、家計が苦しいからって旦那がいてもやりにくる主婦もいるよ、何度も、それは絶対にバレないからなんだけど、中年の人もいるし、みんな、楽しんでるっていうかな、嫌だったら二度とやらなきゃいいんだし、フウカちゃんみたいに可愛い娘はほっといてもオファー多いし」
「お金はちゃんと払ってくれますよね?」
「もちろんもちろん、撮影の前に先に払うよ、現金で、もちろん、やる?」
「一回だけ、試しに」
「脚長いよね、言われない?」
「え? いや、別に」
「肌、白くて綺麗だよね、焼けない体質なの?」
「え、いや、夏は日焼け止め塗ってたから」
「肌は綺麗だし顔は可愛いし、とりあえず、うん、このスリーサイズ、最近? 合ってる? 変わってない?」
「あ、はい」
「ちょっと、今から、確認って感じで、軽くカメラテストしてみようか、隣の部屋がスタジオになってるから、セックス、別に嫌いじゃないでしょ?」

 このホテルへ来る途中に床屋さんがあった。
 赤と青と白のグルグルの看板、赤が動脈で、青が静脈で、白が包帯を表してるって何かのテレビ番組でやっていたけど、それとはまったく関係なくて、グルグル回ってるのを見て、私は小学校の給食のカレーを思い出した。そういう匂いがしてきたのだ。
 こういうことはたまにある。家の近所の狭い路地、ブロック塀で見えない曲がった先の道を気にすると、夏の朝の風の匂いがふっと鼻に掛かってきて、存在感のなかったミオと居間で積み木で遊んでいた風景を思い出す。そしてすごく寂しい気持ちになってくる。
 グルグルの看板、ご飯の入っていた水色の容器とカレーの匂いを届けにきた。粉っぽい粗末な味のカレーと汗を流したご飯の容器、すごく嫌だな、と私は思った。給食のカレーは大好きだった、けど、懐かしいとかではなくて、嫌悪感しか覚えなかった。
 匂いを嗅いで感じるのは、そういう、ネガティブなものばかりだ。あの頃には帰りたくない、そう、強制的に匂いに思わされる。
「生きるとは何のことか、生きるとは、死にかけているようなものを絶えず自分から突き放していくことである」
 最後の援助と決めたその男は、ホテルに入ってからリュックサックも降ろさずにベッドに座り込んだまま、君にニーチェの言葉を教えてあげるよ、僕はほとんどを暗記しているんだ、と言ってニーチェの言葉を解説するわけでもなくただ呟き続けている。三十歳くらいで、切れ長の目、まつげが長いのは少し羨ましい、私は毎朝必死でビューラーだ。
「誰であれ、若いうちは、思う存分遊ぶべきである、長いあいだ活字の森にばかりいると、そこから抜け出られなくなるものだ」
この前のビデオの仕事はうまくいきそうだった。面接があった日、あの後、唇の色が薄い男と結局セックスして、カメラテストの映像も売れるかもしれないからと十万円くれた。契約金だと思ってくれと言われた。その後にその映像を少し見せてもらったら、薄唇はプードルの交尾みたいなセックスで、本番はちゃんとした男優を呼ぶからって言って、それが自分のセックスが変だって気がついたみたいで少しおかしかった。
「人間のみがこの世で苦しんでいるので、笑いを発明せざるを得なかった」
 貰った十万円でミオに茶色のライダースジャケットと四葉のクローバーに小さなてんとう虫がとまったシルバーのネックレスを買ってあげた。いつものことだけど、袋も開けないニコリともしないミオはすごくムカツク。
「人間は行動を約束することはできても、感情は約束できない、自己欺瞞なしで永遠の愛を誓うものは、愛情の見せかけを永遠に約束するものだ」
本番の撮影は一週間後で、衣装は前に池袋のカフェで見かけたようなリッチカジュアルっぽいのでいこうってなった。私はどちらかといえばフェミニンな感じが好きだったけどその衣装を着たモデルさんがアイドルみたいに可愛かったから少し嬉しくなってきて、だけどすぐに脱ぐから関係ないかと思って少し寂しくなった。でも、それよりも、セックスの最中にフウカって呼ばれるのには早く慣れないといけない。フウカって呼ばれるたびに黒ブタを思い出してしまって、ピストンの動きに合わせて吐きそうになる。
「人間は深淵に架けられた一本の綱である、渡るも危険、途上にあるも危険、後ろを振り返るも危険、身震いして立ち止まるのも危険」
援助を始めて緊張しなくなったのはいつからだろうと私は思った。男は電源の入っていないテレビをじっと見つめて呟いている。しゃべる度に下顎が少し前に出るのが癖みたいだ。こういう男は髪を掴んで投げ飛ばしたりお尻に蹴りを入れたりパンツを破いたりするのが多い。でも今日の私は緊張とか恐怖とかそういう感情はまったくなくてむしろどんな人なのかって知りたいと思った。最後っていうのが、なんか特別な出会いに思えてくる。最後から二番目、っていうのは全然特別に思えてこない。一番初めも、その時は覚えてるだろうなって思っていたけど、三千円だったってことしか覚えていない。始まりよりも終わりの方がなんでも大事なんだろうな、有終の美って言葉もあるくらいだから、意味はよく分からないけど。
「狂気は個人にあっては稀なことである、しかし集団、民族、時代にあっては通例である」
「リュック、降ろしたら?」
 男は画面を見つめたままリュックを足元に降ろした。その間も呟き続けていた。
私がシャワーを浴びてきますねと断わってからシャワーを浴びて部屋に戻ってくると男は服を全部脱いで腕を組んでベッドに横になって目を閉じていた。
私が声をかけようとすると男は目を開けて、手招きをして、私が横に体を合わせると、男はゆっくりと私の体に覆いかぶさってきた。
ロープで縛られてあそこにバイブレーターを突っ込まれて乳首をきつくつままれてあそこの肉をつままれて激しく揺さぶられてお前の脳みそはおまんこと同じだと何度も繰り返し叫ばれて私の口からも私はおまんこ脳みそですって言わされて浣腸されてハブラシの歯の方をお尻の穴に入れられてクンニをしたら歯に陰毛が挟まったじゃねえかって鼻を殴られて口に犬のうんこのついた靴を突っ込まれてその状態でハトぽっぽを歌わされて犬みたいにおしっこをさせられて六十万ボルトの最新のスタンガンで気絶させられてパンツとブラジャーを盗られて気がついたらロープで縛られたまま浴槽に転がっていた、とかはまったくなくて、童貞を喪失してから一年経ったくらいの落ち着いたオーソドックスなセックスを男はした。精子がやけに黄色くて、最後の援助の思い出はきっとこの黄色い精子になるんだろうなと私は思ってクスクスと一人で笑った。
男はハアハアと息を切らして腹筋を小刻みに震わせている。
「ねえ、なんでニーチェの言葉を暗記してるの?」
 そう聞くと男はちょっと待ってと手の平を向けて、リュックからペットボトルのオレンジジュースを取り出すとすごい勢いで飲み干した。そして大きなゲップを二回してから、言った。
「偉人の言葉を知っていれば偉くなれる、なんてことは思ってない、だが、その言葉と自分を比べることで、偉人との距離を測ることは出来る、偉人は、成功までの距離を正確に測ることが出来たから偉人なんだ、今の社会は狂ってる、何が正しいかなんて分からない、正しい道しるべが何もない、だったら自分でそれを測るしかない、だから僕はニーチェで測る、ニーチェとの距離が分かれば、ニーチェとの距離を縮めていけばいい、どんな時もニーチェを目標に捉えていれば、間違った狂った馬鹿な情報が飛び込んできても惑わされることはない、自分が無能でもいい、自分が凡人でもいい、何があっても、自分が偉人になれなくてその距離を縮められなくても、ニーチェを目標に捉えたまま一定の距離を保つことが出来ていたら、自分が間違った道を進むことはないんだ」
「……偉人になりたいってこと?」
「違う、平凡のまま一生を終えてもいいんだ、これは武器なんだ、護身用の、困った時にだけ初めて使える、護身用の武器なんだ」
「私、今日で、援助交際やめるの」
「援助交際? 売春だろ?」
「うん、そうなんだけど、交際なのよ、私たち、女子高生にしたら」
「売春だよ、どんなんであれ、セックスして金を取るのは、売春だよ、ブランド品で着飾るみたいに、言葉で着飾っても、中身は汚いまんまだよ、本質を偽ってはいけない、正確な距離が測れなくなるよ」
「……売春、今日で最後なんだ、これで、もうしないの、だから、その、護身用っていう武器を、一つ、私にも、いいやつ、ちょうだい」
男は腕を組んで目を閉じて、それから五分も経ってしまった。私が肩に触れようとすると、男は仁王みたいにカッと目を見開いて、力強く言った。
「苦しみを共にするのではなく、喜びを共にすることが友人をつくる」
その言葉はミオに聞かせてやりたかった。
男と別れて私が家に着く頃には土砂降りの雨になった。バスから降りたところで土砂降りの中を飛ぶ鳥の大群を私は初めて見た。必死に羽ばたく姿が滑稽で、それに目を奪われていたらミオに買ったツイードコートが少し濡れてしまった。天気予報では晴れだったのに、また外しやがって、あの予報士のクソオヤジめ。
「ただいま」
「おかえり、大変だったわね、急に降られて、あら、なに、それ、またミオに?」
「うん」
「この前も買ってきたばかりでしょ、着てないわよ、あの子」
「買ってあればいつでも出掛けられるし、可愛いのがいっぱいあったら、着たくなるでしょ、着れば出掛けたくなるし、あればあるだけいいよ」
「ナオ、あんた、まさかミオを外に出すために買ってきてるの? あの子、出ないわよ」
「やってみなきゃ分からない」
「散々買ったじゃない、今までにいくら使ったの? ナオの生活ができなくなるじゃない、自分の洋服はずっと買ってないじゃない」
「私はいい、必要なのはミオだから」
「無駄なことはやめなさいよ、お金は大事なんだから」
「無駄って、お母さんがミオを放っておくから、見捨ててるから私がこうやって毎日毎日きついバイトしてミオに外に出るのが楽しくなるように色々買ってきてるんでしょ! お母さんはミオが引きこもってから何かした!? 話した!?」
「あの子があれでいいならあれでいいのよ、そっとしておきなさいよ、気が済むまで」
「バカじゃないの!? ケンカして部屋に閉じこもってるんじゃないんだよ、放っといたら死ぬまで出てこないよ!? いいの!? お母さんとかお父さんが死んだらミオはどうなるの、ずっと家に閉じこもってた奴がどうやってそれから生活するの!? 今でしょ、大事なのは今でしょ、あと五年したら寿命で死ぬ年寄りじゃないんだよ、高校生なんだよ、十代なんだよ、今、友達作らないで、遊ばないで、いつそういうことが出来るの? バカじゃないの?」
「じゃああんたの好きにしなさいよ」
「だからしてるじゃない!」
 私はクマちゃんのスリッパを思い切り蹴っ飛ばして階段に置いてあった掃除機を階段から払い落としてガチャってプラスチックが割れる音がしたけどそのまま駆け上った。ミオの部屋の前まできて涙が溢れそうになったけど深呼吸して涙を鼻水を吸い込むみたいに止めてミオに話しかけた。扉の隙間から光が漏れているから起きている、さっきのお母さんとのやりとりを聞いていたかもしれない、別にいいけど。
「ミオ、今日はコートを買ってきたよ、ツイードの、水色のコート、かわいいよ、雨に少しだけ濡れちゃったけど、少しだから問題ないよ、かわいいよ、開けてよ、この前の四葉のネックレスつけてみた? いいでしょ、あれ、みんなかわいいって言ってたよ、つけてみた?」
 ミオは返事をしなかったけど椅子から立ち上がったような音は聞こえたから私は今度はノックをしてから話しかけた。
「今日は買って来れなかったけどマニッシュ帽もかわいいのがあってさ、あとブーツ、ストリングスなんだけどかわいいんだ、今度、お姉ちゃんと一緒に見に行こうよ、ブーツはサイズ、履いてみないと分からないからさ、ね、今度一緒に行こうよ、お出掛けするバッグがなかったらお姉ちゃんのピンクのトートバッグ貸してあげるし、ポッケがいっぱいついてて便利だし、ね、行こうよ」
「えしれん」
「え?」
「うぜらし」
「は? なに?」
「あっぱ」
「なに言ってるの? え? ちょっと、開けてよ、とりあえずコート受け取ってよ」
 ミオはまた黙ってしまって何度話しかけても何の応答もないから私がドンドンドンドンドンドンドンドンドンってドアを叩きまくったら何かがドアに思い切りぶつかる音がしてそれは木にめり込むような音でそれからすぐにミオの裏返った怒鳴り声が聞こえた。
「うるせえんだよ! どっかいけよ! クソ女が死ねよ!」
 耳が赤くなるとか頭が熱くなるとかそういうんじゃなくて鼻の奥がすっと通った気が私はした。体中の老廃物が一気に外に流れ出て自分はカナダの森の一部じゃないかと思えるほど透明で自然な感じがした。
 私は土砂降りの庭に裸足のまま出ていってお母さんがびしょ濡れになるわよとか言っても自分はカナダの森だしと思って構わないで花壇のクリーム色の敷レンガを引っこ抜いてそれを両手に一つずつ持ってお母さんに何するのと聞かれてもうるさいうるさいうるさいと呟くだけでミオの部屋の前まで来てそのレンガでドアを叩き破った。でも破れたのはドアの表面だけで今度は鍵でロックされたドアの取っ手をレンガで思い切り何度も何度も何度も叩きつけたら取っ手が割れてドアが開いた。
 ミオが捨てられた猫みたいな顔で私を見ていた。ベッドに腰を掛けて何も言わずに私を見ていた。
 私はかわいいかわいいツイードコートの入った袋をミオに渡したけどミオは受け取らなかった。いらねえよ、とまでミオは言った。かわいいかわいいかわいいツイードコートを選んでせっかく買ってきたのに受け取りもしないしいらねえよとまでミオは言った。だから私はかわいいかわいいかわいいかわいいツイードコートを袋から取り出してミオの目の前で広げて見せて下から大きくハサミを入れてやった。かわいいかわいいかわいいかわいいかわいいツイードコートはただの布切れになった。ニーチェ男とセックスして買ったかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいかわいいツイードコートはミオの目の前でただの布切れになった。
ミオはエアガンを当てられた猫みたいな目で私を見ていた。ベッドに腰を掛けたまま部屋に押し入った時からいらねえよって言った以外はまったく微動だにしなかった。
私は袋に入ったままの四葉のネックレスをミオの机に見つけてそれを中から取り出して思い切り力任せにチェーンを引きちぎった。思ったよりも切れるもんだと私は思って少しおかしかった。クローゼットを開けると赤のモヘアセーターがタグがついたまま掛かっていたからそれもカッターで毛糸かってくらいに引き裂いてやった。
もうやめなさい、そう言ったお母さんがやめるべきじゃないかなお母さんを。子供を見捨てる親なんていない方がいいよ死んだ方がいいよだって私がミオを大学にやるし。
「ミオも、お姉ちゃんに謝りなさい、せっかく買ってきてくれたんだから」
 そう言ったお母さんをわざと遮って私は言った。
「ミオさ、頭腐ってるんじゃないの? 部屋に閉じこもってて、頭腐ってるんじゃないの? あんたさ、今、いくつよ? 十六でしょ、高一でしょ、なに、やってるの、今しか経験できないこと、いっぱいあるのよ、今しか感じられないこと、いっぱいあるのよ、あんた何やってるの? 一日中ネットやってるんでしょ? 頭腐らせて何やってるの? 十六歳にしか頭を腐らせることは出来ないの? 違うでしょ? 知ってる? 月ってすごく綺麗なのよ、月が見えない日はなんとなく寂しくなるの、そういう感じ、知ってる? 月の右下に赤い星が見えることがあるの、わあ、あれ火星かなあ、って目をキラキラさせて思いを馳せたこと、ある? ないでしょ? そんな自堕落な生活で、あんたの人生、支離滅裂よ、分かる? 自堕落から這い上がれよ、いい加減、それがあんたの自己主張なんて、認めないよ私は、馬鹿な親が認めても、私は認めないよ、一回きりの人生、あんた棒に振る気? 今動いてないとこれから先身動きできなくなるんだって分かって頭腐らせてるの? あんた、ミオが、この生活から抜けない気なら、大人になる前に、私がミオを殺してあげるから、そして私も死ぬから、いい? 私の生き甲斐はあんただから、気持ち悪いとか言われても変わらないから、ミオのために大学の学費貯めてるから、大学じゃなくても専門学校に行きたくなったら私が出してあげるから、小遣いもあげるし不自由させないから、辛いことあったら全部聞いて一緒に泣いてあげるから、あんた、ミオ、いい加減、生きなさい、あんた、今、死んでるんだよ」
 ミオはそれから一週間経っても二週間経っても前と何も変わらなかった。
 私は今日もミオのためにインド綿のパッチワークスカートと薄ピンクのラメ入りキャミソールを買ってきた。
「ナオ、また買ってきたの? 大丈夫なの?」
 うん、大丈夫、私あれだから、シスコンだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?