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無色透明の腐った心 一

横浜駅相鉄口交番前にその男はいた。
ストライプの入ったミディアムグレーのスーツを身にまとい、短髪に黒ぶちメガネ、小太りのその男は鼻の下に掻いた汗を拭うことなくただそこに佇んでいた。行き交う人々を見るわけでもなく、かといって一点を見つめて何かを考えているようでもなかった。
雲が紫に染まってきたなと思うとその男からメールが入った——今どの辺りまで来た? ——もうすぐ、とまで打ったが直接行くことにした。
男は私よりもやや高いぐらいの背丈で、大きくて丸い背中が小さい頃に墓参りでよく見かけた大きな仏像の膝に似ていた。それで私は線香の臭いと鼻に綿を詰めた祖母の白い顔を思い出した。何にでも口を挟む祖母が私は嫌いだった。男の後ろ襟がめくれ上がっているのに気がついてそれがなんだか祖母のパーマのかかった前髪に見えて少しムカついた。
「こんばんは」
「あ、びっくりした、そっちから来たのか」
「わざと後ろに回ったのよ」
「お茶目だなあ。でも、よくすぐ分かったね」
 二時間も見張っていたのだから当たり前だ。
「私、ここから見える所から出てきたのよ、そっちこそ、気づいてよね」
「ご、ごめん」
「赤いタンクトップにローズグレーのプリーツだって言ったじゃない」
「若い娘の服装はよく分からないんだよ」
「まあいいわ、行きましょ」
 と男の腕に手を回し、はやくはやくと急き立てた。
「なに、どこ行くの?」
「クイーンズスクエアにおいしいお店があるの。来る途中に急に行きたくなっちゃって、いいでしょう?」
「え、ああ、いいけど、だったら、みなとみらいで待ち合わせでもよかったのに」
「横浜について急に思いついたの、はやくはやく」
 改札口は人で溢れていた。学生、フリーター、サラリーマン、主婦、弁護士、看護婦、風俗嬢、そこでは人は人でしかない。女は女、男は男。制服の駅員だけが人ではなかった。
 桜木町駅の側にある古着屋が好きでよく通っていたがみなとみらい線になってからはそこまで歩かないといけないので面倒くさくなって行くのをやめた。電車を乗り換えればすぐじゃないと同じゼミのハルナに言われたがそういうことじゃないんだと私は言い返した。肩をすくめて「なぞ」と言ったあんたの存在の方がなぞだ。ネイルに施した真っ黒なペイントを顔にもしてやったらさぞ滑稽だろう。中心に白い薔薇なんてどうだ?
 アットにあるイタリアンレストランは五組ほどの列が出来ていたが私は構わずその後ろに続いた。他の入りやすい店にしますかと男に聞かれたが、ココ、とだけ言ってあとは店に入るまで無言だった。
 男は赤ワインを頼み、私はラムベースのカクテルを頼んだ。トマトとアンチョビと卵のサラダ、ベーコンと生クリームのスパゲティ、そして男は、イカ墨のスパゲティ。最悪、こんな男は死んでいい。
 大学生だっけ? 何の勉強してるの? 学校は楽しい? サークル入ってる? 友達はどんな娘が多い? 何でその学校にしたの? 就職するの? 将来の夢とかは? 両親は何をやってる人? 実家は何処? 一人暮らし? 怖くない? オートロック? 家事は出来るの? 掃除好き? ベランダある? 何階? どんな人が住んでる? 挨拶とかする? 休みの日は何やってるの? 遊びに行く? バイト? 本読む? 映画好き? 最近は何見た? レンタル? 車に興味ある? 花火好き? 浴衣とか? 食べ物の好き嫌いは? いつもどの辺りで遊んでるの? そんなに可愛かったら痴漢に遭うでしょ? サイクリングって知ってる? 山と海どっちが好き? イルカ食べたことある? お婆ちゃんやお爺ちゃんとは仲がいい? 田舎どこ? お酒強い? 小さい頃どんな子だった? 幼なじみいる? やっぱり早く結婚したいって思うの? 子供は何人ほしい? そんなどうでもいい話よりも隣のテーブルのカップルのことが私は気になった。
 大人っぽいよねえそれにしても、綺麗、うん、綺麗、大学生なんて聞いたらまだまだ子供みたいな響きだけどこうして目の前には大人の美女がいるわけだから、立派な大人なんだよね、僕が大学生の頃はホント、しょうもないガキだったよガキ、いつまでも男は子供だって言われてもしょうがない、ホント、くだらないことで盛り上がってエッチな話ばかりして、勉強なんかろくにしないでノートは人のを写してね、また僕は数学科だったから訳が分かんないわけ、教授だって大学四年間じゃ理解できませんって言ってんだから変な学科だよ、出席すれば出席するだけで単位くれて、終いには同じクラスの奴に代わりに返事なんかしてもらってそれがバレて講師に怒られてその授業の単位一生取れなくなっちゃってね、でも楽しかったな、そんなことも含めて青春だよ、サークルは文学サークルと映画研究会に入ってたな、どちらにも変わった奴が多くて、僕の友達も必然的に変な奴ばかりになっちゃって、あ、でもでも僕は至ってまともな青年だよ、ははは、始めはただ適当に大学選んで行かなきゃいけないみたいな空気に流されて入ったけどやっぱり楽しかったなあ、遊んでばっかりいたから就職の時期になって慌ててね、今の自分に何が出来るんだろうって、これから先やりたいことも特にないしこのまま大学に残って仲間とバカやり続けたいなんて思ったりして、でも仲間は違ったんだ夢を持っていたんだ脚本家になりたい作家になりたい映画監督になりたい、僕とはいつの間にか違う道を歩もうとしていた置いてきぼりにされた気分だった、今でもそいつらは世に名前は出ていないけど最近会ってもいないけど風の噂じゃ今でも夢を追い続けているらしい僕なんか肩身狭いよ、両親には田舎に帰ってきて家業を継いでくれって言われるし、あ、実家は農家だから、でも今の時代に農家はないよ農家は、確かにお百姓様のおかげでご飯が食べられてるわけだけど、現代っ子の僕がそんなことしたくないって言ってやってさ、せっかく東京の大学にまで出てきてまた秋田に帰れだなんて、こうやって秋田弁が消えるほど東京も長いんだから、おい、おめえ、嫁さんどうした嫁さん、早く孫見せろ、て親父は言うけど、子供が出来たらもっと田舎じゃなくて都会に住まわせたいよ田舎者は馬鹿にされるからねえ、僕もそうだった、訛ってることを馬鹿にされた、嫌だったなあこんな思い子供にさせたくないから、て子供の話の前にまずお嫁さん探せってことなんだけど、ははは、帰って一人でご飯食べてるとホント寂しくなる、急に倒れたときどうしようかとか最近思うようになって、トシだね僕も、一人でいることがなんだか無性に怖くてね、この前なんか積みあがった食器がずれて音がしたとき飛び上がって声出して驚いたよってこれはただ僕が怖がりなだけか、一人だと何もヤル気が起きなくてね休みの日も、嫁さんでもいれば楽しく休みの日は毎回デートなんかしちゃって、あ、僕の部屋はすぐ汚れるから一緒に大掃除なんかもいいなあ一緒に洗濯して一緒に掃除して一緒にご飯作って一緒にお風呂に入ってね、僕が今住んでるマンションはベランダが広いからガーデニングなんかも始めちゃって、あら、今日はこんなにちっちゃなミニトマトが出来てるわなんて言い合って笑い合って、楽しく手をつないで買い物なんかして夜なんかベランダから見える夜景が綺麗なんだなあ、十階に住んでるから阻む建物もなくて絶景、日本百景に入れてほしいぐらい、まあ今は嫁さんがいないから一人でロマンチックな夜景を一人寂しく見てるわけだけど、でも、この前そうやって一人で夜景を楽しんでいたら隣から大声で叫ぶ声が聞こえて、なんだか分からないんだけど一人じゃないんだよ、宴会でもやってるのかそれとも揉めてるのかとにかく訳分かんないことを叫んでるわけ、怖くてね、隣の人には会ったことがないんだよ夜の仕事をしているのか朝も帰りも会わない、といってもマンションの人にはほとんど会わないね、会っても挨拶しない、僕は学生の時はアパートでそこの人たちとは積極的に挨拶したし、時には一緒にお酒を飲むこともあった、そういうのがマンションじゃ気が起こらないのかねそれとも現代の人がただ挨拶嫌いになって人付き合いがしたくないだけなのかね、そういう僕もいつの間にか挨拶せずに平気になっているんだけどね、だから昔は休みの日にはアパートの人と遊びに行ったり酒を飲んだりしたんだけどねえバイトのない日は、今じゃそういう人もいないから家でおとなしく音楽でもかけながら読書、本を結構読むんだよ学生の頃から文学サークルだからね数学科にしては珍しいと言われたっけ、ヘッセとかゲーテとか、詳しくここがどうだとか評論は出来ないけどなんとなくああいう雰囲気が好きだね僕はだから映画もセブンみたいな別に猟奇的なものが好きなわけじゃないんだけど寂しい感じのが好きなんだよね最近はまた本を読むようになってるけど少し前まではしょっちゅうビデオ借りて見てた、うん、あ、それで、映画の中で車を格好よく乗り回しているシーンがあってね、何の映画だったかな、車には興味なかったんだけど思わず無理してローン組んで買っちゃって、何の映画だったかな、無理したっていっても普通のセダンなんだけど、買った当時はいっぱい乗り回したなあ、一人で夜のドライブ、隣に乗せる人いないからね、寂しい男だから、海を見に行ったり高速でかっ飛ばしてみたりレインボーブリッジにも行ったなあ、花火が綺麗に見える所ないかとか探しに行ったこともあったな探して見つけても教える相手がいないんだけどね、浴衣姿の女の人でも乗せたかったよって過去形になっちゃったこれからこれから探すよ探さないと、お弁当作ってもらってドライブに行って、これボク嫌いなんだよお、こらこら食べなきゃだめだぞなんて、ははは、もちろん横浜もいいけど湘南に行ったり色んな所に行きたい、学生、若い子だとやっぱり渋谷とか池袋で遊ぶのが一番楽しいのかな、僕が学生の頃はそういうところには縁がなかった、なんか怖いんだよ如何わしい人がいっぱいいそうで絡まれそうって僕が弱いだけか、でも女の子もそういうの不安じゃないのかな変な人変質者とか多そうじゃない、そういえば僕の同級生に高校生のときに自転車に乗っているのにだよ、自転車に乗っているのに痴漢に追いかけられて体中触られて、必死に命からがらみたいに逃げてきたのに、結局それで男性不信、男性恐怖症になっちゃった娘もいるんだよ、怖い世の中だよ、同じ男性としてもまた情けないよホント、そんなのがいるんだから、あ、自転車で思い出したけどサイクリングが好きだったな、痴漢された女の子から楽しいサイクリングの話なんて最低だね、ははは、でも楽しかった、連れはみんな男だけどバイク買うお金もなかったしだけど遠出、旅には憧れてて結局男なら自転車やろが! とか言って自転車で旅をしたんだ、あれは間違いなくサイクリングだったんだけど山へ海へ川へ楽しかった、あれは楽しかった、うん、夏休みには思い切って伊豆に行ってみたんだよ、そうだそうだ伊豆に行ったんだよ自転車でだよ、三人、男三人で伊豆まで行って、日が暮れたら民家を回って泊めてくださーいって、これがね、泊めてくれるんだよ、田舎の人っていうかお年寄りは警戒心がないのか助け合うことが染み付いてるのかしらないけど僕らにはちょっと感動モノだったよ、で、そこで珍しいもの食べたんだ、なんだと思う、イルカ、イルカだよ、あの水族館でショーをやってるイルカだよ、味はね、結構おいしいんだ、そこのお爺さんが言うにはイルカの肉は人間の肉とそっくりで味も人間の肉と同じなんだって、醤油ダレに漬け込んでゴマをふって網で焼くと真っ黒、硬いんだこれが、ちゃんと噛めるけどね、そうじゃないと食べれないから、でね、うまいの、すごく、人間の肉と同じ味だっていうから遭難して食料が尽きて人間の肉を食べてもおいしく食べられるのかもしれないね、だけどいい老夫婦だった、いい婆さんいい爺さんだった、僕の祖父母は僕が小さい頃に亡くなっているからほとんど遊んでもらった記憶がないんだ、だから本当の祖父母じゃないかみたいな錯覚というか思い込みみたいなものになんかなっちゃってね、別れ際泣いちゃったよ、久しぶりに秋田に帰って秋田弁を聞きたくもなったし、でも帰らなかった、帰ると、死ぬほど酒を飲まされるんだ、僕はそれが嫌でねえ、成人式のときに帰ったら記憶がなくなるほど飲まされて、親父にだよ、それと幼なじみ達も強くて強くてとてもじゃないけど二度といいやって、でも人は本当に変わるよねえ、その成人式のときに帰って、久々に小学校のときの同級生に会ったらみんな大人になってんの、ほっぺを真っ赤にして丸々太ってたヤスコちゃんが、まさかあんなに美人になるなんて! てみんなで笑ってやった、でも驚いたのは、田舎特有なのかな、幼なじみ同士で結婚しててさ、一組じゃないんだよ、五組も、五組もだよ、子供もいて、ああいうの見るとホント子供ほしくなる、その前に嫁さんだけどね探すのは、ははは、と口の横に唾を溜めて男が笑ったのとほぼ同時に、隣のテーブルの女が彼氏らしき男に向けて赤ワインを勢いよく浴びせかけた。白地のTシャツが薄ピンクに染まり、男が女の髪を掴んで引き寄せると膝蹴りを顔に思い切りいれた。二発目で歯が床に飛び、他のテーブルにいた筋肉質の男が間に入って取り押さえた。
「な、なにがあったの?」
 男は唾を溜めたまま聞いた。
「なんか、女の人の親友に手を出したみたい、男の方が」
「へ、へえ」
「その上、女に手を上げるなんて、最低」
「そ、そうだよね」
「もう行きましょ、ここにいたくない」
 しばらくその二人を見ていた男は会計を済ませると小走りに私を追ってきた。その姿が私にはなんだか巨大なナメクジに見えてきて鳥肌が立った。後姿が祖母で正面がナメクジ、白い綿を鼻に詰めて寝ていた祖母の背後にナメクジがびっしりと詰まっていたのかと考えるとヒドイ吐き気がした。
 建物の外はすっかり星が広がっていて、夜道を散歩することにした。冗談でも腕を組む気にはなれなかった。
「そうだ、山下公園まで歩かない?」
「え、いいけど、結構距離あるよ? 大丈夫?」
「全然平気」
 はしゃぐように先頭を歩いて時折ふり返る、そんな私を見守るような男の表情に無性に腹が立ったが夜の海は綺麗だった。この海にこの男を沈めてもこの美しさは変わらない。大いなる海は全てを受け止めて浄化してくれる。生まれ変わったら人魚にでもなろうかな。
 山下公園には複数のカップルがいた。手すりに寄りかかりながら海を見て愛を語り合うカップル、ベンチに座って寄り添うカップル、星を眺めながら腕を組んでゆっくりと歩くカップル、他人の目は気にならない様子だった。夏の山下公園には青姦が多いと聞いていたがそれらしき人影は見当たらなかった。時間帯によるのかまだ時期ではないのか、少し興味があった。
「あそこに座りましょう」
 最下部が小さなステージになっている階段を私は指さした。
 離れて腰を下ろすと、少しずつ男が擦り寄ってきた。ついには腕が触れ、スーツ越しにも汗ばんでいると分かるのが気持ち悪かった。
「涼しいね」
「……うん」
「楽しかったなあ、久しぶりに」
「そう? よかった」
 私は笑ってみせたが、さっきから時計をチラチラ見てそわそわしているのに気づいてないとでも思っているのかと思ったからそれが表情に出たかもしれない。
「ホント、久しぶりだ……」
「……」
 男の腕が私の肩に伸びたと思ったら目の前に脂ぎった顔があった。キスしたい、と言った男の息が臭かった。ちぎれたセミを見ている方がまだましだ。
「あとで」
「今したい」
「あとで」
「あとでするんだったら、今でもいいでしょ」
「いやっ」
 両肩に手を回した男に押されるようにして私は後ろに体を反った。男はそのまま覆いかぶさって顔を近づけてくる。そして、声が聞こえた。
「おいオッサン、何してんだよ」
「え?」
 男が振り向いた瞬間に声の主は男の鼻頭に拳を浴びせた。男は背中を石の階段に打ちつけ、鼻血と共に唸りをこぼした。
「ケンジ……」
「……え?」
 男は鼻を押さえながらケンジと呼ばれたサイドにラインの入った坊主頭で迷彩柄のシャツを着た男を見た。暗くてよく分からなかったがかなり若い、十代じゃないかと男は思った。
「オッサン、こいつ、俺の女なんだけど、何してた? え?」
「何って……」
 ケンジは男の胸倉を掴むとそのまま引き起こし、額を合わせて、殺すぞ、と言った。男は無言だった。ケンジは頭突きを浴びせた。
「ケンジ……」
「お前は黙ってろユミ、おいオッサン、殴られるのと、金出すの、どっちがいい? え?」
「……は?」
「はじゃねえよ!」
 男の下腹部に深い蹴りが決まり、男は息をつまらせ身じろいだ。
「痛てえだろ? どうする? 出すか?」
 髪を掴み顔を寄せてケンジがそう言うと男は、分かった、とか細く吐くように言った。
「さっさとそうすりゃいいんだよ、人の女に手を出しといて、慰謝料だけで許してやるっつってんだから」
 男はスーツの内ポケットに手を突っ込むと二つ折りの黒い財布を取り出してケンジに手渡した。中には八万円入っていた。
「こいつ、ユミに何か買って気でも引こうとしてたのか? お前なんか相手にしねえんだよチンカスが」
「……ケンジ」
「うるせえ! お前もお前だ、いつまでもこんなことやってんなよ」
 男の顔に財布を落とし、ケンジが私の手を引っぱって少し歩いたところで、そうだ、と言ってケンジは男の元へ戻ると、立てと言って男を立たせ思い切り鳩尾あたりに拳を浴びせた。さらにケンジはうつむいた男に唾を吐いた。少ししてから振り返ってみると男はまだ膝を地についてうな垂れていた。
 公園の側に停車された白いソアラに乗り込むとケンジは言った。
「……八万か、まあまあだな。でも時間が少し掛かりすぎたな」
「はあ、疲れた。マジ最悪あのオヤジ死んでいい。ギトギトしてキモイし、臭いし、それに、せっかくおいしい店に行ったのにまずいったらありゃしない」
「はは、奢ってもらってその言い草か」
「なに言ってんの? いっしょにご飯食べてあげて、しかもあんなに横に寄り添って座ってあげたんだから安いぐらいよ。気持ち悪い」
「……怖いな女は」
「ケンジが思いついたことじゃない、それに、始め、二時間も監視してる意味あったの?」
「ないな」
「はあ? 最悪」
「二時間待ってまで若い女とヤリたいなんて奴は確実に脳みそがチンコでできている。俺達が仕組んでいたことだって、未だに気づいていないさ、たまたま運悪く女の彼氏に会ってしまったぐらいにしか思っていない、それを試してみたかったっていうのもある」
「なにそれ? 意味わかんない」
「それより、ちゃんと髪形変えとけよ」
「分かってるわよ」
「はは、オヤジはバカだ、髪形変えただけで同じ人間だと気づかない」
「分かってるってば。あんたこそカツラかぶりなさい」
 フロントガラスから見る夜の黄信号が私は好きで、黄信号に差し掛かると必ずケンジに停車させた。そのことでケンジが文句を言うことは一度もなかった。

 ユミは一限の授業はサボるとあっさり決められたがニ限は迷っていた。ニ限はフランス語だった。フランス語はわりと好きだ。だからといってフランスという国が好きなわけでもないし、とりわけ行きたいとも思わない。幼い頃に見たフランス映画が、内容は覚えていなくてもそれがアーモンドグリーンのようなものだったという記憶だけがあって、その感じが幼いユミはすごく好きだった。今でもフランスという言葉を聞くだけで、縁のあるものに触れるだけで、その色が思い出され心地のよい懐かしさに包まれるのだった。
 結局、寝過ごして昼から登校したユミは、食堂でハルナとケンジに落ち合った。
「おはよユミ、めずらしいね、フラ語休んで」
「おはよ。眠くてさ、昨日この男に嫌々付き合ってたから」
「なに、夜通しセックスでもしてたの?」
「まさか」
「コラコラお二人さん、節操がないよ節操が会話に。それに嫌々じゃないだろユミ、お前だって乗り気で始めたんだ」
「なに、あれまだやってんの?」
 カレーのついたスプーンでケンジを指してハルナは言った。クソ暑いのにカレーなんかよく食えるなとユミは思った。しかもハルナは大の辛党だ。トウガラシをそのままバリバリ食べだしたときは脳みそにキツツキが開けたような穴があるんじゃないかと思った。小さな青い花がいくつもプリントされた白いキャミソールが汗で少し湿っていて、そういうのはそそられるんだとケンジが言っていた。男はよく分からない。
「ゴホン、聞いてくださいお嬢様方、あっという間に五十万超えです」
「マジ? そんなにやってんの? いつかヤバイ事に絡まれるって、もうやめときなよ」
 ケンジは指を立てて横にふり、ノンノンノンと目をつぶって言った。これが昨夜、というか毎回オヤジを躊躇なく殴り倒す男だとはとてもユミには思えなかった。ケンジは無邪気な子供のような顔でいつも話をする。女友達が多いのはそのためだろう。
「百万いったらやめる、それは決めてあるんだ。今はトラブルに巻き込まれることはない、俺の勘がそういってる」
「いつもの俺サマの勘? 絶対の、百発百中の」
 ハルナは呆れた顔をして、スプーンまで落とした。
「百発百中、俺の好きな言葉だ。座右の銘ってやつ? だから、百にこだわる。俺はこの難関大学に勘のみで入った男だからな」
「始まったよ武勇伝が。男は過去の話にうるさいからねえ。ほっとこユミ」
「うん」
 ケンジはセンター試験でどの教科もほぼ満点だった。選択問題であれば正解を間違えたことがほとんどない。それは全て勘だった。そう言い張ったケンジをはじめは誰も信じなかったが、大学であまりに成績が悪いことと、試しに受けさせた行政書士の試験に受かってしまったことで、信じざるを得なかった。勘で受かってしまった行政書士の資格を持っていても意味ないぜと言って笑ったケンジにもっともだとみんなは思った。ケンジがこれを始めたときに、お金ならその勘の良さで競馬でもやればいいじゃないかとユミが言ったらそういうことではないんだとケンジは言った。何か他に目的があるのかと思っていたが、それはやはりお金だったし、ケンジはそれ以上何も言わなかった。
「冷たいな二人。で、また明日にでもやろうと思うんだけど、3Pって設定でどうだ?」
「やだよ、ユミもやめなよねえこんな事、知らないよどうなっても」
「うーん、もう少しやる」
「もう少しい? おいおい、最後まで付き合ってくれよおユミちゃあん、一緒に百万稼ごうぜえ」
「だけどケンジさ、五十万って言ってたけど、まさかあんた、ノートにでも毎回金額つけてんの?」
「もちろん」
「バカだねえ、なんでそんなことしてんの、お小遣い帳じゃないんだから、もし捕まったら、そこから余罪がわんさかバレるじゃない、バカだねえ」
「バカはお前だよハルナ、俺は捕まらない」
「あっそ」
 ハルナの言うとおりケンジの作戦は完璧ではなく、行き当たりばったりなものがほとんどだった。昨夜も、もし誰かに殴っているところを通報されていたらアウトだった。そういうことは何度かあったが、必ず何とかなるのがケンジだった。ケンジの勘は伊達じゃない。本人は外れることもあると言っていたが少なくともユミはケンジの言うとおりにして損をしたことは一度もなかった。
「明日は昨日みたいに見張っている時間はないから、あと一人俺の他に用心棒が欲しいな。……あ、おい、タカシ!」
 手を上げてケンジは、ミラーレンズのサングラスをかけたタカシを呼び寄せた。
「おっす、ケンジ、三人か。両手に花?」
「ドクダミだけどな」
 ハルナはケンジのすねに蹴りをいれた。ごめんなさい綺麗なお姉さま方と言ってケンジは頭を下げた。
「……タカシ、明日の夜、暇か?」
「ん、いや、なんで?」
「宝でも掘りに行かねえか?」
「……お前、まだやってんのか」
 タカシはサングラスをはずすとハルナの隣に座った。ハルナはタカシの顔を見て、首を横に振った。
「もう、やめとけよ。もう警察にばれて、調べられてるかもしれないぞ」
「いやそれはない」
「勘か?」
「そうだ」
 ケンジはタカシの目を深く見つめて言った。こいつには確かに不思議な力があるけどなとタカシは思った。
「……だめだ、やっぱできない」
「ああ、そうか、わかった、おい、そんな顔するな、裏切られたなんて思ってない、気にするな」
「おう。で、ユミ、お前がやるのか?」
「うん」
「お前も気をつけろよ。夏は変態が多い」
「ははは、開放的になるからか? それともタカシ、体験談か?」
「うるせえよ」

 翌日、ユミとケンジは新宿にいた。七時近かった。まだ陽の光をわずかに感じる。
 ウエイトレスのコーヒーの置き方が気に食わなかったがユミは黙っていた。ネームプレートのナガサワアキコという名前だけは頭に入れた。
「いいか、ホテルに入ったらカギをかけたフリをして開けたままにするんだ。必ず男を先に入れて、いいな」
「うん」
「お前が入ったのを確認して五分ぐらいで俺が慌しく入っていく。俺の女を無理やり連れ込みやがってって感じで。お前はいつものようにキョトンとしてればいい」
「ねえ、男に先にシャワー浴びさせて、私がその隙に財布抜き取ってくるっていうのは?」
 ケンジが殴っている姿を見たくなかった。何回目からかは忘れたが、ユミはそう思うようになっていた。
「だめだ、確実じゃない。断られたり、シャワーは浴びないような体臭が好きな変態だったらどうする? 踏み込むのが一番いい」
「殴らなくても脅すだけでいんじゃない?」
「甘い、言ってるだろいつも、始めが肝心だ、相手にどれだけ自分がイカれているのかを分からせないといけない、いきなりぶん殴って、言う通りにしないと殺されるぐらいの恐怖を植えつけるんだよ。ボコボコにして、警察に通報する意欲をなくすまでな。あいつらだって売春している罪悪感がある、そこに付け込むにはこれが一番いい」
 ケンジはいい奴だけど絶対にどこかイカれているとユミは思った。何に対してそうなのかは分からない。暴力に対してなのか、お金に対してなのか、自分自身に対してなのか。もしかしたら、あの無邪気に笑える姿が、唯一のイカれた部分なのかもしれない。ユミはすぐにその考えを打ち消した。それは悲しすぎた。ケンジにとっても、自分にとっても。
「……わかった」
 いつまでもいい友達でいたいがなんとなくそれが壊れてしまいそうで今までにないぐらいにユミは怖かった。この恐怖が関係性の崩壊なのかただ単にケンジへの嫌悪なのか行為そのものなのかは分からない。今日は一段と、分からない。私はどんどん分からなくなる。それは日に日に自分が溶けていくような、大きな氷が角から少しずつ溶けていくような、とにかく、分からない。だんだんと分からない何かに蝕まれていって、自分は欠片残さず食べられる。そんな夢を最近よく見る。
「何をそんな顔して、不安なのか? 失敗したことあるかよ、完璧だから、俺の勘は」
「……」
「よし、いこう」
 今回の男とは新宿東口交番前で待ち合わせた。近くからでも人ごみに紛れて様子を伺うことができる。アルタビル前でケンジはユミに電話を掛けさせた。ケンジは公園の柱に背をもたれ、何気なく交番前を伺った。
 電話を掛けている男は三人。ユミに合図を送り電話を切らせると、まもなく頭から携帯を下ろす男が一人いた。あいつだろうか。ユミに再び電話を掛けさせる。その男が電話に出た、間違いない、この男だ。
 男は格子柄のワイシャツにグレーのネクタイ、紺のスラックスを身につけていて、色がかなり白かった。それは街灯の光が強いせいかもしれないが、ケンジにはそう確信できた。淵のないメガネ、高い身長、百八十はあるだろうか、ウエストも細く、ひ弱な事務職、プログラマーあたりを連想させるが、その伏し目ながらも鋭い眼光は無視できなかった。オタク系の粘っこさがこの男にはありそうだ。いや、もっと危険な、こういう男は、キレると何をしだすか分からない。考えた方がいいかとケンジは思った。
 ケンジの携帯電話が震えメールの着信を知らせた。——やっぱり俺もやる、タカシだった。ユミに男に遅れると電話させ、数分でタカシは到着した。タカシが男の目の前を通り過ぎたときに男がタカシに向けて何か言ったような気がしてタカシに聞いてみたがそれは気のせいだった。
「なんで急に来る気になった?」
「お前が、俺を必要としてただろ、お前の勘は信じてるから、何か俺がいないと解決できないことが起こるんじゃないかって不安になって、もし何かあったら見捨てたみたいで嫌だし、だから、そういうことだ」
「そうか、ありがとう。大丈夫、お前が来れば心配ない。何もないさ」
「ユミは?」
「あそこだ」
 ケンジはアルタビル前を指さした。男の位置からは見えないはずなのに男が指さした方向を見たのでケンジは寒気がした。
「カモは来てるのか?」
「あ、ああ、お前が目の前を通り過ぎたんで、冷やりとしたよ」
「そうなのか」
 二人は公園から少し離れた場所に移って、そこからユミに合図を送り男と合流させた。
 少しばかり雑談するとユミは男と連れ添って歩き出した。ユミの笑顔に対して男は一度も笑わなかった。表情すら変えなかった。今までに感じたことのない心臓の高鳴りを覚えてケンジは戸惑った。タカシに悟られてはいけない、悟られたらこいつはユミを止めに行ってしまう。まだだ、まだいけるはずだ。今回は何かが掴めそうなんだ。やめるわけにはいかない。
 ユミと男は時折顔を合わせ、何かを話しながら歩き続けた。都立大久保病院辺りで右に曲がるとラブホテル街へと入っていた。ケンジとタカシはしつこい客引きをふりほどきながら後をつけ、二人が入ったホテルを確認した。
「今すぐ行って鉢合わせたらまずいから、十分したら行こう」
「十分か、短いようで長いな」
 ケンジはすぐにでも行きたい衝動に駆られていたが、この十分で自分を落ち着かせようと思った。今日の自分はおかしい、いつもと何も変わらない、そう言い聞かせていた。
「大丈夫か、ケンジ、顔色が」
 遮るようにケンジは、平気だ、と言うとタバコを吸いたくなってポケットに手を突っ込んだが無くてイライラした。
 十分経った。
「行くぞ」

 男の蒼白な顔色と華奢な容姿からはじめは薬とかをやっているヤバイ系の人かと思ったけど一切笑わないだけで話はとても面白くて親しみが持てたし、なんだか気持ちがよかった。君にはいい友達がいっぱいいそうだね、口には出さないがご両親もお兄さんも君のことを誇りに思っているよ、僕だったら絶対にそう思うし、服のセンスだって普通の娘とは違ったこだわりがあるんじゃない? そういうのが伝わってくる、頭もよさそうだ、やろうと思ってやれなかったことはないでしょう? 何事に対してもきとんと考えようとするその姿勢、すごくいいよ、と言われて嬉しくないと言ったら嘘だ。インターネットのブログを通じて知り合ったという宝塚の女優の話も面白かった。イジメられたらどうやってイジメ返すのかという内容だった。
 フロントでもエレベーターに乗るときでもエスコートされた気分だった。部屋も先に通されたが、靴を脱ぐのにもたついているフリをして先に上がってもらった。
 鍵を閉めるフリをしようとしたら男が、
「鍵は開けといてくれないか、鍵を閉められると、誰も訪ねて来ない古屋敷に幽閉されているような錯覚に捉われてしまってとっても苦しいんだ」
 と言ったのでユミは少しびくりとしたがなんでもないような顔をした。
 カバンを置くと男は冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出して、一つをユミに手渡した。冷たい、とユミは呟いた。
「シャワー、先に浴びる? それとも僕から?」
 ここで男に先に入ってもらえばケンジ達に暴力を振るわせることなく事が運べるし何よりこの人にそんなひどい目に遭ってほしくないと思っていたら男が言った。
「あと二分ほどか?」
「え?」
 ただなんとなく掲示板を見ていたらその講義は俺も取ってるから一緒に行こうと言われたのがケンジとの出会いだった。なぜこの講義だと分かったのかと訪ねるとなんかそんな気がしたんだとだけケンジは言った。それから少しずつ話すようになったのだが、なぜ今それが思い出されるのかユミには分からなかった。

 ユミには着いたら部屋番号をメールで送らせるように言ってあった、七〇五だ。
 ケンジとタカシは部屋の前まで来ると、深く呼吸をした。
「いいか、まず俺がいきなり殴る、そしてタカシがユミを庇うように抱いてくれ。助けに来たように。その後は合わせてくれればいい。もし、相手が俺よりも強かったら加勢してくれ、花瓶でも何でもぶつけてな」
「……オッケイ」
 ケンジはドアノブに手をかけ、よし、と言うと一気に扉を開け勢いよく中に飛び入った。
 部屋は赤い間接照明だけが灯っていて、足元が見えないほどに光度は低かった。ケンジが手探りで奥に進むとその光が照らしているベッドの上でユミが仰向けに横たわっていた。
「ユミ?」
 ユミは気持ちよさそうに目をつぶっていたが、顎の下に赤い光を鈍く反射するのっぺりとした感覚の何かがあった。それは喉元まで伸びていて、さらにその奥まで繋がっていた。
「ユミ?」
 ケンジはユミの肩に触れると何か手にねっとりとした液体のようで液体でないような感触のものがこびりついて恐る恐る臭いを嗅いでみると鉄のような臭いがしてそれが血だと分かったときにはタカシは既に殺されていた。
 倒れたタカシの両目には小さなすり棒みたいなものが刺さっていて喉の黒い部分からはピューピューという音が聞こえたがその内にその音もやんだ。
「ケンジ君、だね」
 闇の中から現れた男は交番前で見たときとなんら変わらなかった。ただ何故か、異様さだけはなくなっていた。異様な空間の中で異様でない男が存在することが異様ではあったがそれが異様には感じられなかった。
「木の目玉が飛び出ているのがタカシ君……なんなら、ハルナちゃんも連れて来ればよかったのに」
 ケンジは訳が分からなかった。身動きが取れないことが不思議でそのことばかりを考えた。どうやったら動くのか、どうやったら指の先まで爪の先まで凍りついたような体を動かすことができるのか。
「君も、なかなかいい目を持っていたようだけど、まだ若い。自分の死までは見えていなかった」
「……あ……あ?」
「経験の浅さを、若さのせいにしてはいけないよ。君には時間はあったはずだから、たっぷりね」
 男がカバンの中から一冊のノートを取り出すのを、ケンジは目で追うことしか出来なかった。男はゆっくりとページを捲っていく。紙のすれる音がケンジには女の声に聞こえた。それは高二のときに仲間とレイプした女の声だった。女は中三だった。処女で、子宮を破裂させた。そのときの声に聞こえた。警察に捕まらないことは分かっていた。女のことは一週間もしない内に忘れた。そのときの映像が頭に浮かんだ。女は人の形をしていなかった。手が六本生えた、マンコに牙のついた、怪物だった。
男は手を止めると、ケンジを見つめて言った。
「……始めが肝心だ、相手にどれだけ自分がイカれているのかを分からせないといけない。殺されるぐらいの恐怖を植えつけるんだよ」
 男はゆっくりノートを閉じると、サイドテーブルに置いてあった缶ビールを一口飲み、うん、そうだね、と言って続けた。
「……君、自分がそういう状況に陥ったときの対処法までは、思いつかなかったんだね。ふふ、おしい、おしいよ、すごくおしいよ、おしいけど、それじゃただのチンピラだ」
 男はケンジの肩に手をおくと、ゆっくりと微笑んだ。目も、口も、頬も、ゆっくりと緩んでいった。急激な心拍の高まりにケンジは体全体を脈打たせた。男は両手をケンジの頭の後ろに回して、それからやさしく、唇を合わせた。
「残念賞だ」

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