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陽向、二十七歳/魂を隣に。

 松本さんとは小学校が同じだった。
「ちょっと、なんで素通りするのよ」
 松本さんとは幼稚園も一緒だったし、中学校も一緒だった。
「なんでって、別に友だちじゃないだろ」
 松本さんとは同じクラスになったことが一度もなかった。
「こないだも言ったじゃん、同じクラスなんだから、それはもう友だちでしょう」
 松本さんとは高校も一緒だった。初めて同じクラスになった。
「そんな理論はねえ、とこないだも言った」
 同じクラスになるまで松本さんのことを顔も存在すらも知らなかった。俺は強引な女は嫌いだ。
「理論て何よ、意味わかんない、数学が得意だからってバカにしてるの」
「そんなことは言ってねえ」
 俺は話の通じない女は嫌いだ。
 電車のドアが開いた。俺は早足で二両先の扉から電車に乗った。
 松本さんが揺れる車内を乗客を掻き分けながら俺の側まで近づいてきた。
「ちょっと、一緒に帰ったらいいじゃんか」
「なんでだよ」
「だから」
「分かった、もう言うな」
 俺は松本さんと友だちだと周囲の乗客に思われたくなかった。
 松本さんは何も言わなかった。意外と素直なのかもしれない。いや、別に興味はない。
 俺はずっと窓の外を眺めていた。夕日が照らして、俺は眩しくて目を細めた。
「目、悪いの」
「見りゃあ分かるだろ」
「あ、意地悪な言い方」
 えい、と言って松本さんは俺の眼鏡を奪った。ちょっと痛かった。遠慮のない女は嫌いだ。
「うわ、ド近眼じゃん、目がクラクラする」
「勝手に掛けるなよ」
 俺は小さい頃から極度の近眼だった。眼鏡がないとほとんど何も見えない。だから癖で、眼鏡がないときは大きく掴んでしまう。
「ちょっと、頭、そんながっしり掴まないでよ」
「見えないんだ、返せ」
 眼鏡を掛け直すと、松本さんの髪の毛がボサボサになっていた。ちょっと間抜けだった。
「眼鏡、やめたら?」
「見えないって言ってるだろ」
「違う、コンタクトにするの」
「しない」
「なんで」
「必要ない」
「じゃあしよう」
「はい?」
「眼鏡しない方がカッコイイよ」
 俺は何も言葉が出なかった。予想外の口撃だった。これでは松本さんの言ったことを受け入れて、しかもちょっとカッコよくなりたいんだと思われてしまう。
 俺は頭が熱くなってくるのが分かった。どうしよう、何も言葉が浮かばない。
「バス通りに眼鏡屋あるじゃん、あそこに寄っていこう」
「……いやいやいや」
「ちょっといいなって思ったでしょ」
「思ってない」
「嘘ばっかり」
 俺は無視した。その後は無言で、なるべく早足で改札を出た。
 駅前商店街は人が多かった。チャンスだと思った。俺は人を避けながら早足で商店街を抜けた。
 俺は馴れ馴れしい女は嫌いだ。
 俺は背の高い女は嫌いだ。
 俺は胸のない女は嫌いだ。
 松本さんは俺の嫌いな女の全てに当てはまっている。
「歩くの速いね」
 うわ、と俺は思わず声を漏らしてしまった。
「あたしゃバケモノか」
 夕日に照らされて、松本さんの髪の毛が黄色く輝いていた。まだちょっとボサボサのままだった。俺は明るい髪の色の女は嫌いだ。
「行かないの、眼鏡屋、あそこだよ」
「行かないし、そもそも、俺は金を必要以上に持ち歩いてない」
「なんだ、先に言ってよ、じゃあ、明日はお金持ってきて、買いに行こう」
「行かないし、なんで俺の後をついてくる」
「家が近所なんだから、一緒に帰ったらいいじゃんか」
 確かに家は近所だった。最近、知った。本当に幼稚園からずっと一緒だったのか、疑わしいくらい俺は一度も松本さんを見掛けたことがなかった。あるいは、俺が全く他人に興味がなかったから、記憶に残りもしなかったのかもしれない。
 とにかく、俺は松本さんには興味がないし、他人に興味がなかった。俺はずっと無言で歩いていた。松本さんも何も喋らなくなった。つまらないと思ったら、さっさと先に行くか、どっか寄り道でもしてくれればいいのに、まるで俺が松本さんを家まで送ったみたいになってしまった。
「送ってくれて、ありがと」
「送ってないだろ、俺の家はあそこだ」
「知ってるよ、じゃあ、また明日」
 松本さんは手を振りながら家のドアを閉めた。
 俺は疲れた。夕飯を食べて、俺はすぐに寝た。
 次の日、松本さんと駅ですれ違うことはなかった。
 次の日も、その次の日も、松本さんはいなかった。
 俺は使いもしない金を毎日持っていた。

「なんだ、楽しみだったんじゃん」
「違う」
 久しぶりにすれ違った松本さんは、憎たらしい顔でニヤニヤしていた。
「教室で声掛けてくれればいいじゃんか」
「できるかそんなこと」
「なんでよ」
 俺は他人に興味がない。友だちは必要なかった。休み時間は一人で小説を読んでいる。それが一番、有意義な時間だ。
 そんな俺がいきなり、教室で松本さんに一緒に帰ろうなんて、誰が言えるか。
「そっかそっか、カッコよくなりたい年頃だよねえ」
「違う、何事も体験だと思ったからだ」
 俺は小説が好きだ。俺の知らない出来事を擬似的に体験させてくれる。新しいことを体験するのは、悪いことじゃない、必要なことだ。俺は必要なことはする。
「へー、ふーん、そーですかー」
 腹の立つ顔をする女は、俺は嫌いだ。
 バス通りの眼鏡屋は、俺がいつも眼鏡を買っている眼鏡屋でもある。だからといって店員も俺の顔は覚えていないだろうし、俺も店員の顔なんて覚えていない。会員証を見せると、それだけで新しい眼鏡を用意してくれる、寡黙な俺には便利な店だ。
「えーっと」
 俺は会員証を見せたまま、言葉が続かなかった。店員は俺の言葉をじっと待っていた。目が大きくてまつ毛の長い女の店員だった。新しいモノを買うには不便な店だ。
「あ、コンタクトに変えます、今日から」
 棚の眼鏡を見ていた松本さんが寄ってきて言った。出しゃばる女は、俺は嫌いだ。
「はい、かしこまりました」
 ハードがどうとかソフトがどうとかカーブがどうとか店員が言っていたが俺にはよく分からなかった。松本さんがほとんどの受け答えをしていて、いくつか目にコンタクトを入れられながら、俺はただ決まるのを待っていた。
 痛いものもあったが、最終的には一番違和感のなかったコンタクトに決まった。洗浄の仕方など色々説明されたが、この場では理解し切れなかった。
「分かんなかったら、教室であたしに聞きなさいよ、ちゃんと」
 と松本さんは言った。察しのいい女は、俺は嫌いだ。
「そんな自体にはならない」
 ふふっと店員が笑った。
「同じクラスで付き合ってるの、楽しそう」
 そう言う店員に、さすがの松本さんも何も言わなかった。俺は勿論無視した。
 勘違いされたか。それは良かったと思った。勘違いされて嫌な思いをすれば、松本さんも俺との距離感を考え直すだろう。距離感がおかしい女は、俺は嫌いだ。
 ともかく俺は良い買い物をしたと思った。コンタクトは思っていたよりもずっと良いものだった。今までの眼鏡では視界の周囲に余計なものが映り込んでいたが、それがない。裸眼ではないので若干の異物感は目に残るが、視界に制限がなくなった。小さい頃から今まで見てきたもの、今、改めて見直したら、全てが違う印象になるかもしれない。
 帰り道、一緒に帰る選択しかなかったのだが、隣を歩く松本さんは珍しく何も言わなかった。しつこく感想を聞いてくるかと思っていたのに。
 松本さんは、家の前で、またね、とだけ言って手を振った。なんかあったのだろうか、気味が悪かった。急にキャラが変わる女は、俺は嫌いだ。
 次の日、眼鏡で登校したら、松本さんが近寄ってきた。
「なんで眼鏡してんのよ」
 結構な声量で松本さんが言うから、クラス中から注目されてしまった。
「急にコンタクトにしたら、恥ずかしいだろ」
「なに、恥ずかしいとか思ってたの」
 確かに俺は自分が不思議だった。他人に興味がないのは間違いないが、恥ずかしいという思いがあった。俺は何に対して恥ずかしいのだろうか。
「休みの日にする予定なんだよ」
「……ふーん」
 松本さんは何か言いたげだったが、何も言わずに戻っていった。クラス中から注目されたといっても、視線だけで、俺なんかに話し掛けてくる輩は誰もいなかった。
 それから、しばらく松本さんとはすれ違うことがなかった。
 久しぶりに松本さんとすれ違ったのは、金曜日の帰りだった。
「ねえ、休みの日にどっか行ってるでしょ」
「え、なんで」
「こないだの日曜に、駅で見掛けたの、眼鏡してなかったでしょ」
「コンタクトを試してて、今まで眼鏡で見てた場所を、もう一度見に行ってるんだよ」
「なにそれ楽しそう」
「別に楽しくない、俺の記憶の更新をしてるだけだから」
「明日、明後日、あたしも連れてって」
「なんで」
「そのコンタクトを選んだのはあたしでしょ」
「なんの関係があるんだよ」
「あたしにもその、もう一度見に行くってやつに、責任がある」
「いいよそんな責任感じなくて、いい、大丈夫」
「いや、だめだね、責任重大」
 これはもう断れないと俺は観念した。
「じゃあ、明日、家の前で待ち合わせね」
 あ、と言って松本さんは俺に顔を寄せてきた。俺は何をされるのかと思わず身構えてしまった。
「私服がさ、ダサかったから、買ったほうがいいよ、今から買いにいこう」
 小声で周囲に聞かれないように言うほど、俺の服装はダサいのだろうか。あのタヌキの柄のシャツはかなり気に入っているのだが。
「今、金、ない」
「またか、じゃあ、明日は買い物からしよう」
 松本さんは家の前で別れるまで、何を買おうか、どこに行くのか、何を食べようか、とベラベラ喋ってばかりだった。
 こないだ口数が少なかったのは、なんだったのだろうか。
 ……俺はどんな女が嫌いだったか、よく分からなくなった。

 松本さんは楽しそうだった。松本さんがなんでそんなに楽しそうなのかよく分からなかった。
 俺は松本さんと必ず出掛けるという柵ができてしまったと思っていた。
 松本さんに用事があって出掛けられない日は、俺も出掛けられないという意味の分からない謎のルールになってしまった。
 俺は記憶を更新するために、子どもの頃から今までに行ったことのあるあらゆる所へ松本さんと一緒に出掛けた。
 遊園地や大きな公園に行ったときは特に松本さんが嬉しそうだった。
「まさか遊園地も一人で行くつもりだったの?」
「そうだけど」
「信じられない、必ずあたしをお供にしなさい」
 俺は視界に眼鏡が混入していた記憶の更新をしているのに、そこには新しく松本さんの姿が混入するようになってしまった。
 ただ俺は、それをまた将来、改めて更新に来たくないと思っていた。この松本さんが映ってる記憶のままでもいいかと思っていた。
 松本さんと一緒に出掛けるようになってから何度目の土曜日か忘れてしまったが、河原で夕日が沈むまで過ごしたとき、松本さんが涙を流した。
「え、なんで」
「ごめん」
「そんなに感動するような夕日だったか」
「違うの」
「やっぱり、俺の記憶の更新に付き合ってもつまらなかったんだろ、無理するなよ」
「違うの」
 松本さんは俺の肩に両目を押し付けた。温かかった。
 しばらくして顔を上げた松本さんの目は、ちょっと赤くなっていた。
「あー、泣いちゃった」
 俺は何も言わなかった。
「聞きなさいよ」
「え、なにを」
「女の子が泣いてんのよ、理由を聞きなさいよ」
「興味ないんだけど」
 脇腹を松本さんにパンチされた。結構、痛かった。
「親が離婚したんだけど、思い出しちゃった」
「うちも離婚してるけど」
「え、寂しくない?」
「全然」
「あー、なんかそんな感じだよね」
 松本さんは鼻をすすった。
「あたしは寂しい、凄く仲の良い家族だって思ってたから、でも違ったんだよね、あたしは一人っ子で、ママとパパしかいなかったから、でも、家族の中であたしだけが楽しかったんだろうね、それが凄く悲しい、騙されてたって、家族って何なんだろうって、そういうの思わなかった?」
「……俺は、弟がいるけど、いつも一人で遊んでたから、何も変わらなかった、うちは父親が出ていったんだけど、しばらく俺はそのことに気がつかないくらい、家族はどうでもいいっていうか、一人でいることが当たり前だったから、でも簡単に離れていく家族って意味があるのかっていうのは、今でも思ってる」
 松本さんは小石を拾って投げた。川まで届かなかった。
「なんで離婚するんだろうね、みんなするじゃん、芸能人とかもさ、友だちの親とかも、みんな離婚してるじゃん、仲の良い家族ってこの世に存在しないんじゃないの」
 俺は家族が仲の良い集団だという考えを持っていなかった。家族で楽しく遊んだという記憶がほとんどないからだ。俺は小さい頃からずっと一人で遊んでいた。それは父親が家族を顧みなかったのか、俺のような子どもが生まれてしまって家族がつまらなかったから父親は出ていったのか、俺にとってはどうでもよかった。俺にとって家族は、生まれたときに強制的に組み込まれた拒否できない社会集団でしかなかった。その集団から抜けるまで、自立するまでは我慢の、子どもにとっての試練の時期だと思っている。
 俺は敢えて松本さんに何も言わなかった。多分、松本さんの言っていることはこういうことじゃない。
「なんで結婚するんだろうね、なんで子ども生むんだろうね、離婚するんじゃん、捨てるんじゃん、結局、いらないんじゃん」
 ひーん、と言って松本さんは泣き出した。
 俺は松本さんの頭を撫でた。触った覚えのある髪だった。そういえば、電車の中で頭を掴んだ記憶がある。今度はボサボサにならないようにしてあげよう。
「……あたし、思ったんだけど、みんな、見る目がないんだよ、きっと」
「なんの」
「相手のだよ、誰でもいいっていうかさ、代わりがいるんだよ、顔がかっこいいとか、可愛いとか、スタイルがいいとか、料理ができるとか、掃除ができるとか、優しいとか、たくましいとか、代わりがいるんだよ、いくらでも、ママはパパじゃないといけないんじゃなくて、パパみたいな人ならいいんだよ、絶対にパパ個人じゃないといけないっていう理由がないの、パパも同じ、ママじゃないといけないっていう理由がないの、突き詰めるとさ、男なら誰でもいいし、女なら誰でもいいんだよ、この人じゃないとダメ、この人だけが持ってるこれじゃないと絶対にダメ、っていうのがないのにさ、人間のっていうか生物の本能だけで好きになって結婚して子ども生んで、また本能だけでどっか別のとこに行っちゃうんだよ、見つける目がないんだよ、自分だけのただ一人の相手を見つける目がさ」
 それはなんとなく理解できた。俺が学校でも一人で過ごすのは、学校の奴らには悪いが、奴らに価値がないからだ。唯一無二の人間が学校にはいない。如何に周囲と同じになるか、それも社会では大事なスキルだろうが、それはもう人間ではなく、ロボットでいいだろう。人間として知性と個性を持って生まれた意味がない。
 結婚した相手と別れたり、友だちと縁を切ったり、そういうことが簡単にできるのは、松本さんが言う通り、はじめから代わりがいっぱいいるような平凡で無個性な奴らなのだろう。
 そんな関係、虚しくないのだろうか。俺は虚しい。
 だったら一人でいい。
「……だから、この人の代わりは絶対にいないっていう人、あたしは見つけたよ」
 松本さんが俺をじっと見つめてきた。まだ涙がこぼれていた。
「え、俺か、それ」
「そうだよ」
 松本さんが抱きついてきた。松本さんは俺とほとんど身長が変わらなかったから、ちょっと重たかった。
「ちょっと待て、どんな展開だ」
「……好きなの」
「分かったから、分かったけど、なんで俺だ」
「こんな人、いないじゃん、絶対、眼鏡してないとちょっとカッコいいし」
「それは、カッコいい奴は代わりがいるだろ」
「うそうそ、こんな人が二人もいたら気持ち悪いよ」
「それは褒めてんのか貶してんのか」
「褒めてるんだよ」
 松本さんは寂しいんだろうと俺は思った。俺は冷静だった。松本さんは親が離婚して、寂しくて、学校で浮いている唯一無二の変人なら裏切らないんじゃないかって、それは松本さん自身の感情も含めて、一時の悲しさを埋めるために俺に近づいてきたのだろう。
 駅ですれ違って、松本さんは初めて俺に話し掛けてきた。俺には何の取り柄もない。ただの興味本位で、俺に話し掛けてきただけだ。これは一時の気の迷いだ。松本さんは思春期なだけだ。
「あたし、家族は作らないって決めたの」
「そうか」
「嘘の家族になるのが怖いの」
「そうか」
「それでも一緒にいてほしい」
「分かった」
 俺は適当に返事をした。ただ、今だけだと思っても、松本さんを裏切ることはしたくなかった。
 松本さんの傷が癒えるまで、俺はこのルールを守ろうと思った。
 いつか、松本さんが誰かと家族を持とうと思えるようになるまで、俺はこのルールを守ろうと思った。
 俺が出掛けるときは、必ず松本さんと一緒だった。
 俺はこのときから十年経っても、ルールを守ったままだった。

 俺は車が嫌いだった。
 小さい頃、目の前で交通事故をよく見たからだ。
 子供が泣いていた。足が変な形に折れていた。俺は鈍臭いから、きっと同じ目に遭わせてしまう。
 だから俺は二十七歳にもなって、未だに車の免許を持っていない。
 そんな俺の代わりに、松本さんが免許を取った。
「車だと色んな所に行けるね」
 松本さんはいつも楽しそうだった。
 俺たちは色んな所に出掛けた。いつも二人で一緒だった。
 俺の嫌いは信用できなくなっていた。
 俺は強引な女は好きだし、話の通じない女も好きだ、遠慮のない女も好きだし、馴れ馴れしい女も好きだ、背の高い女も好きだし、胸のない女も好きだ、明るい髪の色の女も好きだし、腹の立つ顔をする女も好きだ、出しゃばる女も好きだし、察しのいい女も好きだ、距離感がおかしい女も好きだし、急にキャラが変わる女も好きだ。
 俺の嫌いはいつも、松本さんに嘘にされた。
 俺は家族が嫌いだった。家を出てから、一度も連絡していなかった。ずっと一人だった俺にとって、家族は消えてなくなるものだった。
 俺は松本さんと家族になりたかった。
 松本さんは高校生の頃、家族は作らないと言っていた。今度は俺がそれを嘘にしてあげたかった。
「陽向」
 俺は初めて松本さんの名前を呼んだ。俺は事故に遭った。松本さんの運転する車だった。二人とも回復できない身体だった。二人してアンドロイドになった。
 俺はやっぱり車が嫌いだ。でもいつか松本さんに嘘にされるのだろう。
 今日も松本さんは楽しそうだ。
 俺は松本さんと家族になりたかった。
 二人とも何も変わらなかった。
 ただ、俺が陽向と呼んだ瞬間の記憶が、松本さんにはなかった。俺はもう一度、どこかで陽向と呼ばなければならなかった。
 家族ってなんだろうか。俺と松本さんは人間ではなくなった。実感はあまりないが、生殖本能はおそらくなくなった。
 俺は人間だった頃の想いをそのまま引きずっているのだと思う。
 俺は松本さんと、子どもたちと、家族で笑って暮らしてみたかった。
 あれから一度も松本さんには聞けなかった。家族について聞けなかった。俺はあのときの松本さんの泣き顔がずっと頭に残っていて、それをもう一度見るのは堪らなく嫌だった。松本さんの笑顔が好きなんだ。
 俺はいつ、陽向、とまた呼べるだろうか。もう呼べないような気がしていた。俺はこのまま永遠に、止まった時間を松本さんと二人っきりで過ごしても、それはそれで楽しそうだと思うようになっていた。
 これからもあのルールをずっと守り続けるよって、陽向と呼べなくても、これくらいは松本さんに伝えたかった。

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