見出し画像

無色透明の腐った心 六

 タクシーに乗り込むとハルナは運転席の後ろに座り、うつむいたまま行き先を告げた。
 運転手は明るい返事をした。中畑という名前だった。頭が薄かった。
 車では運転席の後ろが上座だと、何かのテレビでやっていた。助手席が下座で、これは事故時の死亡率で決められているらしい。それを知ってからはいつも運転席の後ろに座るようにしている。
「夜遅くまでお仕事ですか? 大変ですねえ」
 シャンパンゴールドのショルダーバッグから携帯電話を取り出して、ハルナはメールを打ち始めた。運転手はミラー越しにチラリとハルナを見たが、ラジオの音楽のリズムに合わせて肩を揺らすのは止めなかった。テイ・トウワだった。
 ハルナがふと窓の外に目をやると、道路と平行して続く高架線の壁に何メートルにも続く落書きがされていた。それらは車から見ると丁度いい高さに描かれていて、暗がりに街灯の光だけでは見にくいものもあったが、図柄は様々で、シンプソンズやさむらい、リアルな虫、タバコの煙からの具現、性器を模したもの、眼球のアップ、墨絵のようなタッチの虎と龍、特にアメリカンコミック調のキャラクタが多くて、ただ、これらはまさに、描いた者たちの、叫び声そのものなのだと、ハルナは思った。だから、何年も何年もかけて、落書きの上にまた誰かが落書きをして、そうして、その彼らの強い我が、強い想いが、ぶつかり合って、牙をむきあって、這いつくばって、踏みしだいて、こうして、闇夜のライトに照らされていると思うと、鳥肌が立った。それは、表現するという意味で、ダンスに似ていると思った。表現することで自分が生かされる、自分の存在を誇示することができる、高校生になってダンスを習い始めてからそれに気がついた。そういう世界が現実に存在し、そういう世界にしか生きられない人たちがいる。自分もそうだった。皆の前で舞っているときだけ、自分は息をしているような気がした。だから、人の影に隠れていては、何にもならない。それぐらい分かっているつもりだった。
 タカシが行くのを、私は必死で止めた。タカシも気付いていた、だから、ケンジから最後のメールが来た。タカシが向かって、少ししてからだ。
――日付が変わるまでに俺から連絡が無かったら、俺たちがまったく知らない所に身を隠せ
意味が分からなくてすぐに返事をしたけど何も返ってはこなかった。ただ、とりあえず、私はケンジを信じた。バカで、お調子者で、無鉄砲で、後先考えない奴だけど、みんな、ケンジの勘にだけは、一目置いていた。試験が選択問題なら間違えることもなかったし、ゲームをしても負けることはなかった。考えるのではなくて、ただ、ただ、直感で判断していて、それでも、怪物的なものではなくて、安心して信じられる何かが、ケンジにはあった。ユミも、そう感じていたんだろう。だから、だからタカシだって、だからあの日、ケンジの元へ行ったんだ。ケンジを助けたかったんだ。良いことも悪いことも全部ケンジは感じていた。でもそれを口にはしなかった。バカだから、顔には出ているのに。だから、メールをもらって私はすぐに、サトミの元へ向かった。ケンジたちと繋がりがなくて、今も続いている友達といったら、サトミぐらいしかいなかった。サトミとはダンススクールで一緒だった。
「この前の地震すごかったですね、この辺りで震度五なんて、何年ぶりだろ」
ケンジ、ユミ、タカシ、は、殺されていた。ニュースで、白髪の混じったオヤジが淡々と伝えていた。ダンスサークルの友達から警察が私を捜しているってメールがあって三人は捕まって共犯者を探してるのかと一瞬思ったけどそんな思いはすぐに吹き飛んだ、だって、殺されたって感じていたから、だから、驚きも少なかった、というより、なぜか、悲しみはなかった。たしかにあの三人とは普通に学校外で会ってご飯を食べたり遊んだりということはしなかったけど、学校ではほとんど一緒にいて、お互いの癖や趣味、関心なんかもある程度分かるぐらいの話もしていて、私たちを、当然のように、仲間と呼べた。
ラジオのニュースが全地域での梅雨明けを伝えた。
「梅雨か、ここ数年は梅雨らしくないですね、今年も短期に集中して降っただけで、気付いたら梅雨明け。異常気象か……どうなるんだろうな地球は」
身近にいた人が、死ぬ。突然、目の前から、いなくなる。それは、始めから無かったような存在しなかったような錯覚というか、夢、リアルな夢から覚めたような、そんな淡い喪失感しか私には生まれなくて、それもまた、自分の隣に無造作に置かれていて、そっぽ向けば無視できるような、そんな、そんな程度のものだった。親、兄弟、親戚、友人、先輩、後輩、よく考えたら、私の周りで、誰も死んだことがない。でも、ユミたちは死んだ。大学へ行ってももういない。一生会うこともない。ただ私にはそれだけのことだった。なぜだろう、ニュースで知ったから、自分とは別世界のことと脳が割り切ってしまっているのだろうか。でも、私は、ケンジからメールを受け取ったとき、そんな予感はしていたし、でも、やっぱり、今思えば、ケンジを止める気はまったくなかった。その証拠に、私は真っ先に逃げ隠れた。ケンジの勘のせいにして、助からないと感じて、私は見捨てたんだ。その程度だったんだ、やっぱり、だから、悲しくないんだ。
「うちの息子が今大学生でね、天文学を学んでるんですよ、何で急にこんな話をするかって、異常気象で地球がダメになったら宇宙に逃げるしかないじゃないですか、それで思い出したんです、タイムマシンって、本当に実現できるって、知ってました? 息子の受売りなんですけどね、宇宙の解明がタイムマシンの鍵になっているんですよ、でね、タイムマシンの発明が、宇宙解明の鍵になってるんです。ややこしいでしょ?」
お母さんお父さんが死んだら、私は同じように思うだろうか。たぶん、思わない。たぶんじゃない、絶対に、思わない、そして、何も手につかなくて、何もできなくなる。お母さんもお父さんも好きだ。好きだ。好きだから、私は、生きる意味がなくなる。たぶん。いや絶対。自分は何のために、大学へ行ったのか、自分は何のために将来を考えるのか、それはだって、お父さんお母さんに、自分はこんなことしてるよって、言いたいから、だと思う。絶対に。こんな人と結婚して、こんなことを今やってる、こんな子供が生まれたよ、みんなうまくいったよ、今とっても幸せだよ、それが言いたいから、見せたいから、私は生きてるんだ。たぶん、絶対。
「相対性理論と、量子力学、だったかな、この二つは、宇宙の解明に必要不可欠な理論なんだそうです、でもね、一つの理論にだけ注目して押し進めると、片方が矛盾するらしいんですよ。だから、今、それらが矛盾しない新しい理論を考えるんじゃなくて、その二つの理論が矛盾しないで成り立つのがこの宇宙だっていう考え方が出てきたそうなんです。宇宙の考え方を変えたってことです。なんだったかな、十次元、十一次元だったかな、十一次元超弦理論、超ひも理論なんて呼ばれてるらしいですこの考え方。もうややこしくてわけ分からないでしょ? 空間が三次元で、時間を入れると四次元、じゃあ残りは? ってね。でもね、すっかり私はハマってしまって、タイムマシンの本を読んだりビックバンの本を読んだりブラックホールの本を読んだり、日々息子と討論してますよ、今までは息子とまともに話すことなんてなかったのに今ではすっかり天文仲間ですか、ははは、でね、タイムマシンっていうのは、過去には行けないんです、でも未来には行ける。不思議でしょ? 歴史のある過去には行けても歴史のない未来には行けなさそうじゃないですか、でも逆なんですね。だから、これって、やっぱりすごい不思議で、未来のものを現代に持ってくることができるんです。例えば、百年後には宇宙の謎が解けてるとしましょう、タイムマシンで百年後へ行きます、その解けた謎を教えてもらい、現代に帰ります、それを現代で発表します、すると、現代で宇宙の謎が解けたことになるんです、すごいでしょ? でもね、それを解いた人は、歴史上、不明ということになるんですよ。だって、未来から持ってきただけなんですから。タイムマシンが発明されると、そういうことが起こるんです、発明された時点で、急激に科学は進歩して、その時点で、人間は究極の文明を手に入れるでしょうね。人も、死なないんじゃないかな。想像すると豊かそうで貧しいという感じですかね、心が、ははは、私が言っても格好悪いですね」
 信号待ちでハルナが外を見ると、ラーメン屋の明かりが眩く輝いていた。
「ラーメン、食いたいですねえ」
 ハルナが見ているのに気付いたのか運転手は聞こえるか聞こえないかぐらいの声でそう呟いた。
 携帯に保存された画像の中に、ケンジとユミとハルナとで撮ったものがあった。ケンジが中心でユミとハルナの肩に手を回している、撮ったのは、タカシだ。子猫がタカシの服にぶら下がっている画像もあった。たしかこの服は穴だらけになってしまって、帰ってから速攻捨てたと苦い顔で言っていた。でも、その後、タカシはしきりに子猫を飼いたがっていた。
 ケンジたちは思っていたよりも自分の人生に関わっていなかったのかもしれないとハルナは思った。三人に、私はこうなるのよって、別に見せられなくてもよかったから、悲しくなかったのかもしれない。だから、やっぱり、三人の死は、中東で何人が死にました的なものでしかないんだ。新聞やニュースの、一事実でしかないんだ。
 戦争の情報をニュースが頻繁に伝えていたとき、私は深夜のニュースで切り離された人間の左手を見た。車のボンネットに乗っていた左手。それはまるで大きなグローブのように晴れ上がり、黒ずんでいて、始めは人間の手だと分からなかった。それまでは何人死のうとそれはただの文字と数字でしかなくて、それこそ映画を見ているのとなんら変わらなくて、でも、その、明らかに死んでいる、息をしていない手を見たとき、私は、これは現実なんだ、と知った。特殊技術で造形された手だとはとても思えない、人間臭さがあった、人間臭い死に方だった、何よりもリアルに、それは紛れもなく人間だった。それが、黒ずんだ左手が、自分の左手と重なって見えて、そして全身に広がってきて、そうなった自分を、画面越しに見ている人たちはどう思うんだろうって、私は思った。自分と関係ないところで、それは違う国、隣町でもいい、自分は安全なところにいて、見えないところで知らない人が死んでも、見えないところで知らない人が左手になっても、どうでもいいんだみんな。むしろ、酒のつまみになるぐらい、楽しい話題なんだ。話題、なんだ。
 ケンジと一緒に美人局を始めて、何回目かで、私はまた黒ずんだ左手になった。雑居ビルにオヤジを連れ込んで、ケンジと二人でボコったときに、激しい吐き気と共に、私はまた左手になった。そして、私は、画面の中にいた。
「お客さん、無口ですね」
 フロントガラスに映し出された黄信号が、ハルナにユミの笑顔を思い出させた。ユミは、将来、何になりたかったんだろう。ケンジは、タカシは、何になりたかったんだろう。もし何かになれていたら、私に、見せてくれただろうか。

「ただいま」
「あ、おかえりハルナ、遅かったね、何処行ってたの?」
 午前三時を回っていた。サトミは寝巻きだったが、待っていてくれたことはすぐに分かった。
「ん、サークルの友達と会ってた」
「え? ホントに? 大丈夫なの?」
「うん、たぶん。もう一ヶ月以上も経ってるし、そろそろ、私も家に帰るよ」
「平気? まだいてもいいんだよ?」
「これ以上私のことで迷惑掛けられないし」
「気にしなくていいって」
「それより、カナメさんは?」
「お姉ちゃんはちょうど今コンビニに行ったばかり、すぐ戻るよ」
「そう」
「お茶飲む?」
「うん、ありがと」
 ペンギンのイラストが入った湯飲みをハルナの目の前に置くと、どうぞ、とサトミは言った。サトミはもみじの柄だった。
「熱いから気をつけて」
 うん、と言ってハルナは口をつけた。
 湯飲みを持ったままテーブルの中心を見つめるハルナを見てサトミが声をかけようとしたら、ハルナがゆっくりしゃべりはじめた。
「……ねえサトミ」
「ん?」
「……私たち、ってさ、なんか、うまく、言えないけど、よく分からないんだけど、なんだかさ、幼稚園児が、砂場の取り合いを、してるみたいじゃない?」
「え? 何いきなり?」
「分からないよ、全然、分からないんだけど、なんていうか、みんなとさ、こう、一緒に遊べば、何てことないのに、自分たちが決めた仲間以外は全員仲間はずれっていうか、なんか、一切近づけない、敵っていうかさ、なんかそんな感じ、じゃない? バラ組はバラ組で、ユリ組とかヒマワリ組とかタンポポ組は、仲間じゃないみたいな」
「私たちって、私とハルナと、お姉ちゃん?」
「ううん、そうじゃなくって、私たち、人間」
「人間」
 と言ってサトミは目を見開いた。
「うん。ごめん、いきなり変だよね私、でも、でもさ、なんだか、分からなくて、さ、私、ユミとか、ケンジとか、タカシが、死んじゃって、でも、でもさ、なんか、それが、私さ、それが、全然、悲しくなくってさ」
 ハルナは嗚咽を漏らした。サトミが手渡したハンカチで鼻水を拭って、ハルナは続けた。
「でも、でもさ、寂しくなくってさ、あんなに、仲良く、ご飯もいっしょに食べて、色んなバカみたいな話もしてさ、ふざけたこと一緒にやってさ、なのに、全然、悲しくなくってさ、普通に、受け入れられるんだ、死んだんだよ、ユミは、ケンジは、タカシは、死んだ、死んだっていう事実で、片付いちゃうんだ自分の中で、でも、でもさ、なんかさ、悔しくて、それが、私は、結局、テレビの前に座ってるだけで、何も感じてないんだよ、ただ、目に映してるだけなんだ、画面に映った、事実を、ただ知っただけ、忘れもしないけど、ただ、歴史の教科書みたいに、昔の出来事として、残るだけなんだ、私、私さ、サトミに言ってないけど、三人で、ケンジたちとね、オヤジ、オヤジかもって、お金、とってたんだ、とってたの、ボコって、それで、それでさ、気付いたんだ、そのオヤジがさ、死んでも、私には、関係ないんだって、死んでも、全然私には関係ないの、だから、殺せるの、死んでもいいの、動かなくなっても、わ、笑えるの、何も、感じないの、楽しいの、むしろ、整ってるものを、壊すと、気持ち、いいじゃん? 一緒なの、それと、物なの、オヤジが、自分と、関係ないから、自分と関係ないものは、簡単に壊せるの、だから、ケンジたちが、殺されたって知ったとき、物だったの、ケンジは、ユミは、タカシは、私にとって、おっきな砂場で、動くおもちゃで、遊んでただけなの、壊れたおもちゃは、もういらないって、それが、それが、人間なの、分かったの、幼稚園児が砂場を取り合って、小石を投げ合って、それをただ見てた幼稚園児も、いつの間にかそれに巻き込まれて、その、巻き込まれてるのを見てた幼稚園児も、また巻き込まれて、そして、それで、私は、泣き叫んでも、気付いてもらえないの、誰も、気付こうとしないの、テレビ見てるだけなの、ラジオ聴いてるだけなの、新聞読んでるだけなの、ただ、それだけなの、もう、存在しないの、記号なの、数字なの、0と1なの、だから、だからさ、私はさ、私さ、もう、やだよ、なんで、やだよもう、左手に、なりたくない……左手になりたくないよ……私、やだよ、もう、やだよう、サトミいやだよう」
「自首しよう」
 カナメが言った。
「お姉ちゃん」
「ハルナちゃん、警察行こう。ハルナちゃんは知ってたのよ、分かってたのよ、始めから、人は、死んじゃいけないんだって、傷ついちゃいけないんだって、どんな理由があっても、絶対に壊しちゃいけないんだって、だから、苦しいのよ、苦しかったのよ、ハルナちゃん、全部、言おう、全部、話そう、すっきりしよう、もう、苦しむのやめて、正直に言って、傷つけてしまった人に、謝ろう、ね? もう、苦しむの、やめよう、すっきりしよう、ね?」
 夜風がカーテンをやさしく揺らした。
 ハルナは目をつむって、風の匂いを深く、ゆっくりと吸い込んだ。
「この世には、未来が見える奴がいる。冗談じゃなくて、本当にな。見えるというより、感じるんだ、全てを、現在、今、ここで、起きていることとして。寸分たがわず正確に、五感で、いや、違うな、第六感? そんな、やさしいもんじゃない、もう、人間じゃねえよ、そんな奴。だけど、現に、この世に、存在してる」
 そう言って、ケンジはオヤジを殴り始めた。

 翌日、カナメとサトミはハルナを連れて、ケンジたちが殺された事件を扱っている新宿署へと向かった。
 事情を話し、ハルナが警察官に連れて行かれるところで、ある男とすれ違った。それは高身長と色の白さが目立つ、不気味という言葉がこれほどまでに似合うことはないというような男だった。サトミには何も言わなかったが、カナメはしばらく鳥肌がやまなかった。一瞬、ただの一瞬目が合っただけで、全身に寒気が走った。そんなことは生まれてから一度も無かった。
 あ、とカナメは声を漏らした。
「どうしたの? お姉ちゃん」
 カナメの目の前を通り過ぎた男に警察官が話しかけた。
「影井さん、ラブホテルの犯人だという男が、自首してきました」
 その男は書店で見かける、ダメリーマンだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?