UNLEARNING のインド。
こんにちは。
今日は、最近とてもよく考えている「アンラーニング」について書きます☺︎
学習を意味するLEARNING に反対や無を示す接頭辞UNがついてUNLEARNING。
日本語では学習破棄、学習棄却と訳されているようです。
(出典はこちらの記事。英語です)
時代の転換期、VUCAの時代などといった言葉を聞くようになり、個人も変容を求められていることを自覚する機会が増えました。
新しい技術や機会の提供により、これまでの習慣(学習)に変化の必要性が生じる流れは以前と同じですが、違うのはそのスピード感でしょうか。
出典の記事ではアンラーニングのプロセスには3つのパートがあると述べています。図解するとこうです。
少し丁寧にいうと、
このプロセスを踏んで、私たちは変化してきたわけですが、
当座の課題解決に必要な能力と特に初めての環境へ適応する能力は別物で、前者は何かに頼ることができても、後者は自分に身につけていくしかない。
これが、アンラーニングと呼ばれる感覚なのかなと思います。
今日は、私自身のアンラーニング体験に基づいて書きます。
舞台はインドです。
住所不定・無職
インドを訪れた頃の自分は、住所不定無職の期間を過ごしていて、とにかく自分の知らない場所での生活や体験を求めて転々としていました。
(無職というよりは短期のアルバイトなどを繰り返していました)
その少し前に海外で1年を過ごしたことから、同世代の欧米人と比べて、自分の考えや意志の形成が未熟すぎることを痛感し、
これは自己決定の体験が量として圧倒的に不足しているからではないか、という結論になりました。(詳細はこちらの記事で書いています)
考えや意見のベースとなる体験の数もその多様さも全然足りてないとわかって、いろんなことをひとまず受け入れてやってみる、その善し悪しのジャッジについては保留を自分に許すと決め、人の誘いを受けて国内外のいろんな場所に行き、仕事をしました。
台北のトリミングショップや北海道の牧場、沖縄の畑や離島、長野や岐阜の山奥。報酬がお金ではないこともありましたが、その時の自分にとっては、お金よりも体験を稼ぐことのほうが重要だったんです。
していることに一貫性が感じられないせいか人からは「いったい何をしたいの?」と言われることも多く、自分でも内心はそう感じていましたが、
体験の "幅" を広げるにはそのランダム性こそが有効でした。
(最終自分で決める前提ではあるものの)人の誘いには自分の意図が入らないため、選ぶものの偏りが出にくいからです。
どれも「(積極的に)それをしたい」と感じたことはないものでしたが、実際に自分の手足を動かして取り組んでみたことで、好きと嫌いの間にグラデーションが生まれていきました。
「それのどんなところが好きで、どの部分は嫌いか」
やってみたことに関してはそれがわかります。
その体験を繰り返すことで、「やってみないとわからない」し、「わかるためには体験すればいい」という考えかたになっていったんですね。
今の自分が「やりたいことがわからない」と悩むことがないのは、この時期に一次情報が増えたことと、「わからなさ」への対処を身につけたからではないかと思います。
これは人の誘いにのったからこそ、起きた変化だったかなと。
個人の営みは括ることができない
短期の仕事と移動を繰り返す中で最も興味深かったのは、どこに行っても、その土地に暮らす人ならではの考え方や習慣があること。
体験の幅を広げるというのは「いろんな人と接する」ことでもありました。
よその土地ではたらき生活をするということは、人との出会いも免れないからです。
観光や留学と違うのはその距離感で、仕事ではルールや理念を共有する過程で、どうしても互いの違いを受け入れたり、理解に努めたりする必要が出てきます。
それぞれに個別の事情やゆずれない何かがあって、外から来た自分には決して首をつっこめないことがある一方で、
家族と同じように受け入れて世話を焼いてくれる場面もあったりして、土地ごとの特性はあるにせよ、個人の営みは括ることができないのだ、という感覚を得ていきました。
人の誘いにのってインドに行ったのはそんなある年の乾季(5月-6月)のこと。
行きたくない、けど行く
きっかけは学校をつくるボランティアへの応募で、
条件は「期間は1ヶ月、宿飯あり(無給)、現地集合。」
宿と食事はあるが、交通費は自腹です。
インドという国は、それまで訪れたなかで最も自分の想像から遠く、生活そのものには馴染みにくいところでした。
このときのインドでの滞在は、ファクトフルネスで提示される「4つの所得階級」でいうところのレベル2-3
厳密にいうと、宿がある場所はレベル3、作業をする場所はレベル2の地域であったとおもいます。
ちょっと汚いとかちょっと危ないというのは耐えられますが、
生活を楽しめないほどの不衛生さや、タイミングによっては本当に危ない、という土地での経験は必要ないかなと考えていた自分にとって、インドは喜んで行きたいという旅先ではありませんでした。無給ですから交通費分もマイナスです。
それでも、この条件で集まる他のボランティアや、インドに暮らす人が何を考えどんな感覚をもっているのか、強烈に興味がありました。
それまでのヨソ者経験で得た「どの土地にもその土地ならではの何かがあり、それこそを知りたい」という気持ち。
そのプロジェクトを終えた後の自分の変化に期待をするような感じで、周りの仲間も似た空気をもっていたような気がします。
インドのペース
5月の暑い日、成田からニューデリーに飛び、1泊して翌日の夜行列車でバラナシへ。
ガンガーと呼ばれるガンジス河が流れるバラナシの街は、それまでに何かで見てきたインドのイメージそのものでした。
舗装されていない道で巻き上げられる砂埃とか、糖度の高い南国の果物が傷んだようなゴミの匂い、
案内がいなければ目的地に辿り着けない裏路地は迷路で、牛も犬も人もいっしょになって地面に寝そべっている。
ガートでは亡くなった人が焼かれ、灰ごと河に流されるから、河べりの砂には人頭骨が埋まっていました。
そういうことこそ、肌で知りたいと願っていたのだとおもいました。
世界を広げるのはいつでも自分の想像を越えていく体験で、「うわぁ」っていうその感情を味わう喜びは、今でも全く変わりません。
好奇心が満たされるという以上に、世界が広がれば広がるほど生きやすくなることを学んだから嬉しいんです。
こういう世界もあるのなら自分(のような存在)も生きていけるかもしれない、と。
当時の自分は物事の否定的な面に目が向く傾向が強く、日本の厳しい社会で自分が生きていける気がしていなかったのですが、インドを見て、少し生き延びる可能性が上がったような気がしました。
他にも選択肢があることを自分に見せて、大袈裟でなく生存確率を上げるような行為は今は笑えるけど当時は切実なニーズだったんです。たぶん。
とはいえ目的がある渡航だったので、景色と文化の違いを味わって思いを巡らす、みたいなことをする暇はあまりなく、着いた翌日から作業が始まりました。
宿に近いガートから毎朝ボートで河を渡り対岸の現場へ。
作業自体は難しいことはなく、現地の職人さんたちの指示で水やセメントを運び、手でレンガを積み上げるという人海戦術的なものでした。
足場は竹で組み、基礎はコンクリートを流し込み、毎日レンガを積む。
普段は日本で暮らしている20代〜60代までのボランティアの人たちと一緒に、同じ現場で汗を流し、同じ宿で過ごすのはすごく楽しく刺激的でした。
それでも時間が経つにつれて、作業や生活において日本を基準に考えている故のストレスや、40度近い気候や飲み水などによる体調不良もあって、思うように進まない作業やインド人のペースに不満を漏らす場面も増えていきました。
「あれがあれば…」
「日本だったらな…」
そういう具合に。
なにと向き合っているのか。
使い慣れた道具や、止まることのない電気や水、整った資材、衛生的な食材。
自分たちがいま欲しいあらゆるものがそこにはありません。
特に体調不良の影響は大きく、ほとんどのメンバーが滞在中に1度は寝込むような状況で、お腹の調子はずっと微妙に悪い。
便利すぎる日本で育った自分たちにとっては、そもそも「足りない」状況自体が不慣れだったのだとおもいます。
みんなで「変えられない状況」について文句を言い合うのは愉しいし、だからこそある種の協力をして状況は変えられない「ということにしてしまう」んですよね。「しょうがないよね」で無意識に合意形成してしまう。
さらにこのときは契約も給料もない状況で非常にそれがしやすいわけです。それぞれが時間というコストは投資しているのに、このトリックに嵌ってしまっていたんですね。
変化のきっかけは「問い」でした。
作業後いつものように宿の屋上でみんなと過ごしているときのこと。
プロジェクトリーダーの方が淡々と話したその言葉は、問いの形をとっていなかったものの、
自分の思考の外、しかもかなり遠くの方から投げ込まれたものに感じて衝撃だったと同時に、それまでの思考と体験がつながり、何かを掴めた感じがありました。
私は当時、ボランティアというのは施しに近いものと捉えており、その前提には善意があるという認識でした。自分たちからインドの子どもたちに矢印が向けられているイメージだったんですね。
ただ、その構図に違和感はあって「してあげている」という感覚はとても薄かった。
便宜上ボランティアという言葉をつかうことで「いいことをしている」と受け取られてしまうことに違和感があったのは、先に述べたように、自分は自己都合を優先しただけで善意というものが動機ではなかったからです。
だからこれを聞いて、「あ、自分のためでよかったのか」とおもったし、「だったらがんばろ」みたいな短い回路で理解を改めたんですよね。
今、自分がコーチという立場で、折に触れ「人はやりたいと思ってからが最速」と口にするのは、この切り替わりのイメージを鮮烈に覚えているからだとおもっています。
おもしろかったのは、そこからの変化でした。
当時の日記を引用します。
これってまさに冒頭の記事の流れだったと思うんです↓
「なんかこのままじゃダメな気がする」って薄々感じていて、
それまでの(日本基準の) 考えを棄却して、
新しい(インド基準の) 考えを採用した。
結果、振る舞いが更新されていったんです。
「インドのせいにできる (してもいい)」けど、「きみたちはどうするの?」と正面から問われたことで、それぞれのなかで明確になったものがあったのだとおもいます。
私自身も、その後の期間「なんで来たんだっけ?」というところに何度か立ち戻りました。そのたび、
これは強制ではなく自分で選んでいることであり、やらないという選択肢もあることが照らされて、(それまでの他の土地での経験とも重なって)
自分が思うことを実現するには小さなことでも必ず責任が伴うし、だからこそ得るものは尊いという価値観の基礎の基礎のところが、レンガを積むにつれてボールドになっていったようにおもいます。
余談ですが、欧米では大学受験や就職活動の際にアプリケーションにSocial Activity について書く欄があり、学業以外に社会貢献として具体的にどんなことをして、何を学んだのかを問われるそうです。
自分が何者であるかを知ってもらうとき、評価軸が学業以外にも備わっているんですよね。
当時の私にとって、いちばんの収穫はこのアンラーニングの感覚を身をもって学んだこと。
いま、日本で過ごしていても「それまでの方法論では打破できない状況」は多いですが、
このときの感覚は強烈なインパクトゆえに強めの信念となっていつも自分を助けてくれるように感じています。
あ、これはインドのときみたいな感じかな?とおもうとき、
「いま何のモデルを使っているんだろう」「必要なモデルはどんなものだろう」と頭を回すことができる。
当時、自分だけでなく周りのみんなの変化を目にしたのも大きかったとおもっています。
いろんな世代の人がいたけど、その人が過去どのように似た状況を切り抜けてきたのか、正解がない状況でどう動く、または動こうとするのか。この、trying to の部分、
「しようとする」という姿勢が露わになっていて、それがすっっごくおもしろかった。
その人が、何ができるかではなく、何をしようと試みるか。そこに人間性が詰まっていて、それこそが周りに影響を与えること。
いざというとき隠すことができない、何十人という人たちの「本当のところ」を垣間見ることができたのは貴重な体験でした。
今振り返っても本当にありがたかったですね。
アンラーニングは学び「直し」なのか
それでも古い価値観との綱引きは、すっぱりなくなってくれるわけではなく、何度も「それでも新しい価値観を選ぶ」という体験を自分にさせてあげる必要がでてきます。
ポイントは、古い価値観を手放しはするけど、否定はしないこと。
古い価値観を否定することは、過去の自分を否定することにつながり、それを認めたくないからこそ、新しい価値観に踏み出す障壁となってしまうからです。
新しい価値観の採用に過去の否定は必要なくて、ただそれを選ばない、という行動が必要なだけ。
今日からひとつ見方が増える、という捉えかたでいいんですよね。
アンラーニングを学び「直し」と捉えると、過去の学びを忘れ去ることと思いがちですがそうではなく、手持ちの武器を確認し現状に最適化するということ。
なので、残すものもあります。
変えるべきところと、残すべきところ、新たに得るべきもの。
それらを統合してバランスをとりつつ個別化できたらいいのかな、と。
考えたり試す作業は少なからず必要だし、人によっては苦痛を伴うものかもしれませんが、変化がもたらすパフォーマンスを考えると取り組む価値はあるものではないでしょうか。
最後に
今日は、自身のアンラーニングの考えかたを体験に紐づけて書きました。
読んでいただきありがとうございます☺︎
note内の写真は基本的に自分で撮影したものを使っていますが、今回は他の人が撮ったものも混ざっています。
でもどれも懐かしく、写真を見すぎて何度も手が止まりました。たのしく思い出せることに感謝の念が湧いています。みんな元気かな。
自分にとっては「ボランティアをしたこと」「学校ができたこと」が成果ではなく、おかれた環境とどう向き合ったか、もっと言えば、
そのときの自分とどう向き合ったか。
そのプロセスが成果であり報酬だったんですよね。
実体験から抽出した価値観は柔軟で耐久性があり、何度でも戻れる照会先になります。
新しい価値観を採用すると決め、行動に反映させていくのは簡単ではなく、自身の基盤となる考えを覆すものであればなおさらこわいですよね。
それでも
「そうするしかない」という場面が訪れると不思議なほどスムーズに切り替わるものだと、この2年パンデミックの影響で多くの人が体験から感じていることではないでしょうか。
私が今のコーチという仕事で変容のハードルに向き合う人たちを応援したいとおもえるのも、自分がそのプロセスの価値を信じているから。
それを教えてくれたインドのバラナシ、また訪れたいなとおもっています。
フリーのバリスタ / コーチ / 調理師をしています。
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