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はじロー(29)生きているのに死んでいる体⁉

ローマ人への手紙5章13-14節

生きているのに死んでいる体⁉

死は別れをイメージさせる言葉です。でもその前に、今まで動いていたのに動きを止める、息をしていたのに息をしないモノになってしまった人を見ます。動かないこと、そして生きている私たちとは離ればなれになってしまったこと。私たちが誰も逃れられないと知っている「死」は、この肉体の死のことです。

パウロは、初めから死があったのではないような言い方をしていました。「世界に...死が入り、...死がすべての人に広がった」。死が入り、すべての人に広がった原因は、罪でした。罪によって引き起こされたのは、全く動かなくなり、全く引き離されるという状態。

これは、単に肉体のことだけではなく、神との関係そのものをもよく表しています。つまり、神に対して全く動かない人間。神から全く引き離されて無関係に生きている人間。それが「罪」と呼ばれる実体です。神を神としてあがめないことは、アダム以来、すべての人に行き渡っていて、しかもそれを「罪」とは認識しないままに過ごす者となっていたのです。

つまり、生きているのに、神との関係ということで言ったら、死んでいる状態だった、ということ。そんなことは、思いもよらないことだったのです。

それは、「罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められない」と言われていることと全く重なることです。アダムからモーセの時代まで、はっきりと「律法」によって「罪」を知らされていなかった人々は、罪を認識できなかった、神をあがめていない自分に気がつけなかったのです。そして、死に支配された生活が続きます。神に心は向けられず、神の御旨を実行する力がなく、神と全く離れて無関係に生きることです。

キリスト教の入門では、必ず始めのあたりに登場するのが「罪」あるいは「罪人」という言葉。「罪人」はふつう、「ザイニン」と読みますが、聖書では「ツミビト」。この違いは夢想だにしなかったほどに大きくて、「ザイニン」は、犯罪という行為をした人を指すのに対して、「ツミビト」は生まれながらにして神と無関係に生きる存在となっている人間のことを言います。

ですから、聖書の話を聞きながら「罪人」に話題が及んだ時、「私はザイニンなんかではない」と言って、それ以上、聖書の話など自分には無関係、と思い込んでしまうのが大部分です。

「死んでいる」ことは、絶対的に動けないことですし、絶対的に離別している状態ですから、その「死んでいる」人に突然、ツミビトの話をしても、拒否されるのは当然のこと。

では、それこそ絶対に、神と共に生きる方向に心が転じることはないのでしょうか。

そんなことはありません。私自身が、その経験者です。

学生時代に、友人から聖書の話を聞いた時には、「ナニソレ」状態。教会に誘われても、当時はまったく宗教嫌いという感じで、結局、学生時には教会に足を向けることはありませんでした。でも、少しずつ、言葉は心に入ってくるようになったのです。

今から思えば、拒否反応は自分の正直な反応だったし、もしあの時に教会に行っていれば全然違う人生を歩むことになっていただろう、と今では思うわけですが、歴史の事実は変えられません。

ローマ人への手紙をここまで読んできた人にとっても、神に対して全く動かないとか、神から全く引き離されているという状態が、過去のものだと思えるのではないでしょうか。神を神としてあがめず感謝もしなかった、過去。それが、キリストが死んでくださったことによって神の愛があらわされた、と気がつき、その愛を受け入れることから、神と共に「生きる」人生がスタートしていたからです。神に対して死んでいたのが、生きる者となった。

キリストの復活は、私たちが死んでいたのに、新しいいのち、神の永遠の命によみがえることの起爆剤となっているのです。

そして、新しい人間として歩み始めます。

で、それですべてが解決? ここから新しい悩みが始まります。心は神に向いていても、からだが思うように動かない。義人とされたのに、実感としては全く罪人のまま。聖書を読むほどに、罪を指摘されている感じ。いったいこれはどういうことなんだろう? 

死んでいた体は、すぐには完全に動き出せない。リハビリが必要なんですね。。。。

神と共に生きる学びは、まだ始まったばかりです。

ローマ人への手紙5章13-14a節

実に、律法が与えられる以前にも、罪は世にあったのですが、律法がなければ罪は罪として認められないのです。けれども死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々さえも、支配しました。

(新改訳2017)

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